五月二日~五月三日
五月二日
悩み。学校から家に帰っても何もやることがないことだ。学校にいたところで、親しい友人もいないし特にないということに何も変わりはないのだが。勉強、食事、入浴。後は、使用人の笹野や家政婦の牧田とたまに世間話をするぐらいか。
笹野は四十代過ぎ、父より四つほど上の使用人だ。短く切った黒髪を七三に分けた髪、細長い眉とたれ目が特徴的な男だ。私が中学にあがる前から、私の身の回りの世話をしているが、それ以前は何をしていたのかは全く知らない。
いつも口元に笑みを浮かべているので何を考えているのかわからないときはあるが、話も面白く決して悪い人間ではない。
以前、妙なことを言われたことがある。
「あなたは冷静そうでいて、何か複雑なものを秘めている。見てみたいものですね」
煙草をふかしながら、笹野は面白そうなものを見るような目でそう言った。
どういうことだ、と聞いたが軽く笑っただけで、細かい説明はされなかった。言葉の意味は未だにわからない。
もう一人の使用人の牧田は家政婦だ。まだ二十歳で、私とも年が近い。顔は細面で綺麗な方だと思う。
人と話すのが苦手なのか、話しかけても、一言、二言小さな声で返事をしただけで、もうよろしいでしょうか、と遠慮がちに告げてからそそくさと仕事に戻ってしまう。だが、掃除などの仕事の方は驚くほど丁寧にできるので、そちらへの信用は置いている。
以前から二人のことはよく知っていたつもりだったが、どうも普通の関係ではないことは今日初めて知った。
一階で用を足し終わり、二階の廊下から聞いたこともない声が聞こえてきて見に行くと、物置の戸の前で二人が抱き合って接吻をしているところだった。愛し合う人間同士がこういう行為をすることは知っていたが、実際に見たことは初めてだった。
見られていたことに気づいた二人の表情の変化が忘れられない。とろんとしていた目が、氷を背中に当てられたような顔に変わっていったのを。
「ぼ、坊ちゃん、いたんですかぁ。のぞき見なんて趣味が悪いですぜ」
それまで笹野のがっしりした首にすがりついていた牧田はその手を離し、目の前にあった笹野の大きい体躯を潜り抜け、どこかへ行ってしまった。
笹野はへっへっ、参ったなぁと笑いながら、懐から煙草の箱とマッチを取り出し、素早い手業で煙草に火をつけた。
「このことはご主人には言わないでくださいよ。あの人の前では見ず知らずの他人で通ってるんですから。本当は俺がご主人に先に雇われたから、あの子は俺とは他人のふりして坊ちゃんとこの家政婦を申し出たんですけどね。関わりあるとなると世間体が悪いんで俺がそう言ったんです」
「ご主人」というのが私の父であることはすぐにわかった。そこまで人目を気にするのかと不思議に思ったが、当事者としては気が引けるのだろう。
どうしても弁解をしたかったのか、私の反応に構わず笹野は続ける。
「でも本当は違うんでさ。駆け落ちしたんですよ。ちょっとかっこつけて言うなら『ロミオとジュリエット』ってやつですかね。だけど、あの二人は未成年だから俺たちとはほど遠いか」
笹野は細かいところにこだわっていた。
話を割愛すると、牧田は大学に通っていたころに笹野と出会ったのだという。そのときの笹野は、生物学の研究者として都内の大学で教鞭をとっていたそうだ。
「それがどうして、あんたのとこで使用人やってんのかって話ですよね。簡単です。牧田と恋に落ちたからです」
笹野が研究と大学講師の二足の草鞋を続けて四年が経ったとき、牧田が学部生として笹野所属の学科に入学してきた。笹野の講義を受けたことをきっかけに、牧田の方から好意を抱き、ある日想いを告げられたという。
それから二人は隠れて恋仲になったようだが、狭い学び舎のなかのことだ。どこからかそれがばれ、笹野は大学を辞職した。辞めさせられたわけではないようだが、教師と教え子の関係は不道徳と見られるのが一般的だから仕方ないだろう。
牧田も家族や大学から行方をくらます形で女学生をやめ、笹野とともにその日暮らしを続けてきたのだという。笹野が主に日雇いの仕事で糊口を稼いでいるうちに、私の世話をする使用人と家政婦の職にありついたようだ。駆け落ちをしてから、ちょうど一年経つという。
「教え子から告白されて断るのが正常な人間だと思ってはいたんですよ。今でもそう思ってます。でも、俺は受け入れちまったんです」
「どうして」
「……多分、俺が昔好きだった娘に似てたからでしょうね。俺が中学生のときに結核で死んじまいましたけど」
下階から、バタバタと走る音が聞こえた。牧田がせっせと掃除をしているんだろう。
「あと、あの子は卒業したら生まれ故郷の良家のぼんぼんと結婚しなきゃいけなかったんですね。でもそれが嫌だったときに俺と出会って好きになったんだとか。可哀そうな子です。正直に言っちまえば、そのぼんぼんとやらと結婚した方が絶対に良かったんだ。俺みたいなやつじゃなくね」
なぜ、そこまで自分のことを卑下するのだろうか。
私の素朴な問いに、笹野は微笑みを浮かべながら、目を伏せた。
「良いわけないでしょう。本職を失ってまで、添い遂げようとする男ですよ。将来性も糞もあるわけがない。俺がこんなこと言うのもお門違いなんですけどね」
笹野は怒っているのか笑っているのかよくわからない顔をしていた。
「……あの子が俺のどこを気に入ったのかわからないんですけどね。好かれてることは嬉しいですよ。だから、こうしているわけなんですが。まあ、こういうもんだと思っていてくださいよ」
私としてはこの二人がどんな関係であろうと何も気にならない。接吻は少しばかり刺激が強すぎたが。
五月三日
書斎にあった本棚をじっくり眺めてみた。簡単に本棚の分類と位置を示しておく。
・入口から一番遠い左奥。ミステリや文学などの童話。これから一番使用する本棚かもしれない。
・その隣の中央の空間、化学、地学、天文学など。何冊かめくってみたが、数式や化学式などで頭がくらくらした。
・入口から一番近い壁の本棚。地理、歴史、美術など。これもあまり縁はないが、興味は持てる。
蔵書も分野も多く、感心する。思い立てば、図書館や古書店が開店できそうだ。絶対にするわけはないが。
今から何かためになるものを読んで勉学に励めば、将来の役には立つのだろうか。
将来、私は何になっているのだろう。本が好きだから、小説家にでもなろうか。それなりの才能はないと難しい職業ではあるが。
血のつながらぬ父は、一製薬企業の社長をやっているが、自分の子に継がせようと考えてはいるのだろうか。考えていたとしても、私が任されるなどとは夢にも思っていないが。
そうだ、そんなこと、父はしないだろう。我が一族にとって私は厄介者、お荷物なのだから。私が「会社に興味がある」と言ったところで、父は「そうか」と言うだけだろう。
最も、会社の研究所でフラスコなどを持ち研究漬けの毎日など、書斎で開いた数学や化学の本をすぐに閉じてしまった私には向いていないのはもう自明のことなので、考えるだけ無駄である。
だが、もっと勉強を続けよう。うまくいけば、鬱々とした人生を変えてくれるものに出会えるかもしれないのだから。
隣家で猫を飼っているのか、三毛猫がこの家の庭をほっつき歩いているのを見た。その家は塀で囲まれているが、そこを乗り越えてこっちに入ってくるのかもしれない。猫という動物は運動神経も良く、身軽だから高所でも易々と越えたりできるだろうから。
自分の部屋からでもにゃあご、にゃあごと騒がしく、たまらない。猫の繁殖期など二、三月前に過ぎているだろうに。
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