棺の中には、白雪姫が眠っていました

 リビングのテーブルには母と電話した後から放っておいたままの携帯。

 それを手に再び隠し扉のところまで戻る。

 壁の奥には、下へと続く階段。二人並んで通るには少し狭い。

 この階段は、立ち入った者を一体どこへ連れていくのか。

 携帯の懐中電灯モードをオンにする。カメラレンズの横についた電球から放たれた光が足元を照らす。これを使う機会が来るとは夢にも思わなかった。小さいがこれで十分だろう。

 恐怖が度を過ぎたのか、興奮の方が勝っていたのか、不思議と怖くはなかった。

 果てしなく長い階段だと思った。このままどこまでも、どこまでも続くんじゃないだろうか。もし、そうだとしたら戻れないのかな。

 そんなことはなかった。何にだって終わりはある。

 あっけなく最後の段を降りると、扉があった。こういうときは大概鍵がかかっているものだけど、ドアの前には都合よくぽつんと鍵が落ちていた。拾って、ドアノブに差し込み、回す。すんなりドアは開いた。

 腰が引けた状態になりつつも、室内に踏み入る。明かりのついていない部屋全体を携帯のライトで照らす。ホラー映画なんかじゃ何かが潜んでいるのが定石だけど、誰もいない。

 この空間がいつからあるのかわからないけど、あまり埃臭くないことが不思議だった。ひょっとしてつい最近も誰かが入っていたのだろうか。ここに入れそうなのは一人しかいない。だけど、そんなこと考えたくない。だって、こんな空間が存在すること、何も言ってくれなかった。

 比較的広めの部屋だ。広さとしては、書斎と一緒なんだろうか。私や千秋くんの部屋よりも大きいと思う。かろうじてわかったのはそれぐらいだ。

 電気のスイッチを探したけど、見当たらない。電気は通っていないのかもしれない。

 学校の理科室に置いてあるような大きなテーブルが中央に二つ。何をするつもりでここに置いたんだろう。

 何から何までわからない。頭はパニックを起こしかけている。ここで動けるのは私しかいない。その点だけは大丈夫。襲われることはないという根拠のない確証があった。

 今、必要なのは深呼吸だ。大きく吸って吐く。微かにつんと薬品の匂いがした。ここで大きく息をするのはまずいかもしれない。

 左端から部屋を検めていく。ガラス戸から中が見えるタイプの棚が壁に据え付けられているのに目がいった。

 ガラス戸の中を覗く。ダメ元でそっと手をかけると、ガラス戸はすんなりと開いた。

 ぼろぼろのノートが一冊入っていた。灰色の表紙は文房具屋でも見たことがある。古くからデザインが変わっていない老舗メーカーのノートだ。サイズは定番のA四だけど、高校生の時に使っていたものより結構分厚い。

 表紙のタイトルを書く欄には「日記」と細い癖字で書かれている。持ち主の名前は書いていない。でも、これは千秋くんのものではない。彼の筆跡を見たことはあるけど、丸くてゴシック体のような字を書くから。

 ぱらぱらとめくると、黒いインクで文章がびっしりと書かれている。東雲満のものだろうか。

 膝の頭が硬いものにぶつかって、カシャンと音を立てる。棚の下の段だ。ガラス戸ではなく、中に何が入っているのか見えないけど、鍵はかかっていなかった。この不用心さは、この空間に出入りしている人物の「地下室はあまり人が来ないから」というものなんだろうか。

 ここまで来たら開けてみるしかない。学校の理科室にありそうな白い網棚の上に、透明な液体が入ったガラス瓶がずらり。口の広い容器には、赤いゴム製の栓で蓋がされている。深呼吸したとき微かに嗅いだものと同じ刺激臭がした。震える手で瓶をつかみ、回してみると白地で名刺ぐらいのサイズのラベルが貼ってあった。印刷された黒い文字で「ホルマリン」。

 蓋を開けて嗅いでみなくてもわかる。人体に有害な危険な薬品だ。都内の薬品製造会社から取り扱い要注意の薬品が盗まれた、というニュースを見たのはいつのことだったか。それとはきっと関係ないのに、どうして今思い出したんだろう。

 後ろからカタンと音がした。

 びくりと肩を強張らせて振り返る。

 携帯のライトを向けると、細長い箱のようなものが遠くに見えた。そこから動かず伺っていると、さっきより大きいガタンという音とともに、箱が震えた。

 箱のそばには誰もいない。誰かが外から揺らしている動きではない。そもそも、この地下室には私以外誰もいないんだから。

 中から動いている。箱の中に入った誰かが中から叩いている、そんな風に見えた。「箱は何かを入れるものだから」という先入観があるから、そう思ったのだろうか。

 だけど、この場合「何か」というのはおかしいかもしれない。中に入ったものが動くのなら、それは「誰か」だ。

「開けて。ここから出して」ということなのか。

 ひとりでに動く瞬間を動画にでもおさめておいた方が良いだろうか、と考えた矢先、また箱が揺れた。早く、ここから出して。

 異常事態。今私にできる最善策は「逃げる」ことだ。こんな空間からは早く逃げた方が良いに決まってる。

 ここが何なのか、異常の正体はわからずとしても、視界の中にいれなければいい。なのに。

 箱はもう目の前にあった。よく見れば箱だけじゃない。病院にありそうなベッドの上に載せられている。箱の横幅は六十センチ、長さは一メートルから二メートルぐらい。

 息をつめじっと見ていたが、動かなかった。私の存在に気づいて警戒しているのだろうか。

 そして、理解する。理解したくなかったものを、ようやく受け入れたという方が正しいだろうか。

 これはただの箱じゃない。

 死体を入れるための箱。人はそれを「棺」とか「棺桶」と呼ぶ。

 三度、カタン、カタン、カタンと連続して棺が叩かれた。中からの衝撃で棺が何度も揺れる。

 私の目の前で棺は叩かれ続けていた。

 中にいる誰かは焦っている。

 とうとう耐えられなくなって、蓋の表面に手をかけると、箱はピタリと動きが止まった。何事もなかったかのように。

 画面を伏せた状態で床に携帯を置けば、持っていなくても手元は照らされる。

 両腕で持ち上げただけで蓋は軽々と開いた。違和感を感じるほど。

 

 一目見て「お姫様」だと思った。

 胸の辺りで両手を交差させて眠るのは、御伽噺のお姫様しかいない。みんなそうやって眠る。

 腰まで伸びた黒檀のように黒い髪、雪のように白い肌、血のように赤い唇。

 唇の下には、黒いビーズのようなほくろがひとつ。

 棺の中で安らかに眠っていた。死と薬品のツンとした香りをまとわせて。

 大きな目を瞬かせて。

 黒い瞳を動かして、私を見上げ、起き上がる。

 彼女が立ち上がったせいで、棺にかぶさっていた蓋が音を立てながら床に落ちる。

 細長い両腕を伸ばし、私の腕をがっと掴んだ。少女とは思えないほど強い力で。

 光を失った瞳が私を覗き込む。


「まってたのよ」


 ちゃんとはっきりこの言葉が聞こえた。今回こそは一言一句聞き逃さなかった。

 あなただったんだ、ずっと私に話しかけていたのは、夢に出てきたのは、私を殺そうとしたのは。

 暗い棺の中から、私を見ていたんだ。

 息もできなさそうな棺の中で今までずっと待っていたの?

 どうしてそんなに嬉しそうに笑えるの?


 気づけば、廊下のトイレでうずくまって、胃の中のものを全て吐き出していた。

 お昼に食べたジャンクフードたちが、混ざり合った状態で白い便器の中を汚していく。

 吐瀉の波が止まって、息を切らしていると、またあの光景が蘇ってくる。断片的だけど、しばらくは忘れられなさそうな記憶。

 再び胃が痙攣して便器に向かってえずくが、もう胃の中は空っぽで何も出なかった。

 ここにいるってことは、どうにかして私は彼女の腕を振り解いてきたんだろう。

 私は何を見たんだろう。

 私が見たものが現実なら、これからどうすればいいんだろう。

 水を飲みにいこうとトイレマットに手をついて立ち上がる。少しふらついたけど、何とか立てた。

 マットの柔らかい感触とは違う、硬く冷たいものが指に触れた。

 ご丁寧にちゃんと持ち帰って来たんだ、過去の私。

 懐中電灯代わりの携帯、そしてあの一冊のノート。

 全部拾って廊下に出た。

 周りを見ても誰もいなかった。いつも通りの廊下。

 だけど、書斎に行く勇気はなかった。

 このノートを読めば何かわかるだろうか。  

 これには何が書いてあるんだろうか。

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