シンデレラは、不思議な地下室を見つけました
洗面所で手を洗いながら、鏡を見てみたけど何も映らなかった。疲れ切っている私の顔以外は。
笹野さんは私のどこを見て「お姫様」などと言うのか。
昔のことを喋っているようだったから、過去に私そっくりの人に会っていたということなんだろうけど、その「お姫様」がいたのは私が生まれるよりずっと前のことに決まっている。
彼女が今まで生きてきて、何十年も経っているだろうから「変わらない」なんてことは仙人じゃない限りありえない。
変わらない。いつまでも、同じ形を保つこと。
偶然なんだろうか、私があの箱を見つけたのは。
リビングの鍵束を取って、二階の物置へ。物置の鍵は、錆が少しついているものだ。
以前入ったときと何も変わっていなかった。積み重なった段ボール。
ロココ調のドレッサーの下には、段ボール箱があったはずだけど今はなくなっていた。千秋くんはもうあれを開けたのだろうか。結局何が入っていたんだろう。
そして、ぽつんと一つだけ隅に置かれている箱。
ガムテープはすでに剥がしたことがあるから、すんなりめくれた。もう、粘着力も何もなくなっている。
ちゃんと収まっていた。それはそうだ、この子たちが動くわけはないんだから。
泣き声がウグイスと間違われやすい、白い目元に緑の毛のメジロ。
両手を構えてどこかを見つめている、ふさふさの尾のリス。
円を描くように尾を下に向けて曲げたままで佇む、三毛猫。
笹野さんは、こう言っていなかったっけ。
――三毛猫だったわね。
――白と茶色の。
この猫も三毛猫だ。白と茶色と薄茶色の。
笹野さんはこの猫を捕まえて、剥製にした。ただ、それだけの事なんだ。
動物の剥製を作ること自体、犯罪でも何でもない。研究のためにその道の分野の人が作って、博物館にずらりと並べて誰でも見れるようにしてあるんだから。
しかし、お姫様とは。
――いつまでも美しいままでいますように。
そんなお姫様を作るには、どうすればいいか。そんなまさか、そんなはずはない。
そこまで考えて寒気がした。この部屋は寒くて暗いからだ、ここを出なくては。
リビングに戻ると、机に置きっぱなしにしていた鞄から低い振動音がしていた。
誰かが、電話をかけてきている。
ロック画面に表示されたのは電話のマークと「姫埼 明乃」という名前。母親からだ。
もしもしと電話に出ると、あ、由梨花と母親の声が聞こえた。いつも通り焦っている声だ。電話口でこの人の落ち着いた声を聞いたことはほとんどないかもしれない。
「どうかした?」
『――今口にするのも良くないかもしれないんだけど』
「じゃあ、口にしない方がいいかもね」
茶化してみたのは、話すのをためらうような母の口調が真剣で怖かったからだと思う。でもどういう話なのかは何となく予想がつく。
『今日、怖い夢を見たの。前にも似たようなことあったからわかるでしょ?』
ほらきた、いつもの夢だ。
「……うん。どんな夢だったの」
携帯を握る手が思わず震える。母のずっしりと重いため息が聞こえた。まただ、またそういう話を聞かされるのか。
『……部屋が燃えてるの、大きい部屋が。その燃え盛る部屋の中であんたが立ってるの』
「へえ、映画のラストシーンみたい」
『あと、知らない女の子もいたわね』
ちょっと前に流行ったホラー映画の終わり方がそんなじゃなかったっけ。
そうだ、確か「ミッドサマー」。あの映画で最後燃えてたのは、一つの閉鎖的な村だったけど。
『本気で怖かったのよ。あんたの身に何か起こるんじゃないかって。こんなこと言うのも暗示かけるみたいであれだけど』
じゃあ最初から言わなくて良かったじゃない、とは言わなかった。黙っているのが吉だ。
所詮夢は夢。気にしすぎてはいけない。
悪しくも偶然が重なり続けた結果、お母さんは悪夢に敏感になりすぎてしまってるだけだ。
『そう思わなくちゃね。ごめんね、当の本人にこんな話して』
「ううん、大丈夫。とりあえず、火元には気を付け……。え?」
さらりと聞き逃していたけど、部屋に女の子って。
『え、どうしたの』
「ううん、何でもない。それよりさ、それどんな部屋だったか覚えてる?」
どんな部屋? と困惑したような母の声。
『……そうねえ。本棚? みたいなのがいっぱいある部屋だったかしら』
「女の子はどこにいたの」
『えっと、あたしが部屋の入口にいて、その子は部屋の一番奥、だった気がする。それがどうかしたの?』
「……何でもない」
悪いけど用事思い出したから切るね、と逃げるように「通話終了」ボタンをタップする。
偶然だ、全て偶然に決まってる。
「落ち着け、落ち着け……」
携帯をテーブルに置き、頭を抱える。携帯を握っていた手は冷や汗が止まらなかった。
嫌なことを見聞きした後でもお腹は空くものだ。
テーブルの上には、油の染みた茶色い紙袋と、畳まれたポップなデザインの黄色い包み紙。
午前中ずっと考えも何もまとまらず、自分用のお昼を作る気力も出なかった私は、全国に普及したファストフードのテイクアウトにしてしまった。
時刻は十四時、遅めの昼食だ。
冷めかけたポテトをつまみながらふと思ったのが、以前一階の廊下で見たのが夢ではなかったとしたら、これからもあの少女は私の前に現れるのだろうか、ということだ。
母の夢が何だっていうのか? 知らない家の夢で知らない少女が出てきたっていい。本棚ばかりの部屋だってこの家のものだとは限らない。
そもそも、深くつっこんで聞いた私が悪いんだ。母だって詳しく話そうとしていなかったものを。何も気が付かないふりをしていれば良かったのに、どうしてあんなことを聞いたんだろう。
自己嫌悪しながら、視界の端に目をやる。
今日はまだ書斎を開けていない。そもそも入りたくないというのが正直なところだ。
黒い影を見たのも、母の夢で少女が立っていた場所もあの近くだ。ドアを開けたら、あの少女が目の前に立っているような気がする。そうしたら私はどうすればいいんだろう。
生きた人間に何かを訴えたい幽霊が姿を現わす。
ホラー小説なんかでは定番だし、面白くなっていく要素だ。だけどあれは全て創作なのであって、現実で自分の身に起こったら迷惑極まりない。
いや、そこまで考えるのはおかしい。それじゃ、私は彼女の存在を現実に肯定することになる。信じられる確証なんてないのに。
じっと立ったまま頭の中で迷走しつづけるのは良くない。そうだ、確認すればいいんだ。あの部屋に行かなくちゃ。
金属がいくつもぶらさがった重い束を片手に廊下の奥へと向かう。
今日の天気は曇り、電気をつけていない廊下は昼間でも日差しが入らず薄暗い。
丸い鍵穴に鍵を差し込む。書斎は金色。緊張しているからか、少しだけ手が震えた。ここに立ち入るときこんな気持ちになるのは初めてだ。
差し込んだ鍵を右にひねると、カチャンという音とともに確かな手ごたえが手に伝わってくる。開錠の音。
室内を見渡す。何てこともない、いつもの風景だ。等間隔に並んだ本棚と本棚。
この書斎は図書館のように、本が棚毎に分類されていて、何がどこにあるかはもう把握済みだ。
入口から向かって右の壁三つに並ぶ棚は、手前から美術、地理、歴史。空間に自立する棚にあるのが、建築学、数学、哲学。そして、左の壁二つが文学と化学だ。
化学だけは集めきれなかったのか、全ての段に本が入っているわけではないが、それ以外の本棚は全て本で埋まっている。それでもここまで一個人が集めるのはなかなかに難しいと思う。
足元に目をやったのは偶然だ。そのせいで見たくなかったものを見つけてしまった。
建築学と数学の棚に挟まれた通路。茶色い木目の床の上に黒く細長い糸のようなものが落ちている。
拾い上げてみると髪の毛だった。つるつるとした感触は、人間の毛髪以外にない。
指の間からだらりと垂れた黒髪は、一メートル近くはありそうだ。
別に家の中に髪の毛が落ちてることぐらい変なことではない。でも、これだけ長い髪の人間はこの家にはいない。
腰元まで伸ばせば多分これぐらいにはなるよな。
これだけ長い髪を持っていた人物を一人知っている。ただ、彼女の存在を認めたくないだけなのだ。
突如自分の拾ったものが汚らわしいものに思い始めて、窓を開け、外に捨てる。自分のものでも他人のものでも、身体から離れた体毛は嫌だと感じるものだ。今回はただそれだけの理由ではないけど。
書斎のいたるところにあるはずのない長い黒髪が落ちているのでは、という恐怖に駆られ、目を光らせながら歩き回る。それらしきものはもうどこにも落ちていなかった。このままじゃ、心を病むだけのような気がする。
最終的に私が出した答えは、本でも読もうということだ。内容が頭に入ってこなくても、字面を追っていればいくらか気も晴れるはず。あの少女のことは後で考えよう。もう、彼女に会うこともないかもしれないんだから。深く考えすぎてはいけない。
残念ながら、ここの書斎にある本のほとんどは文系の私には難しいものばかりだ。かろうじて読めるのは、美術や、文学。
文学の本棚を眺める。
江戸川乱歩や横溝正史、コナン・ドイルなどのミステリ。そして、その下には千秋くんのお祖父さんが集めた大切な童話たち。
『しらゆきひめ』と題された一冊の絵本を手にとる。
今の絵本とは違って、子ども受けしそうなかわいくデフォルメされた絵柄ではなく、劇画タッチで描かれた少女が笑っている表紙。裏表紙にはバーコードはなく、値段の表記の数字だけで時代を感じさせる。
開けば、絵とともに物語が展開される。写実的な絵は読者をすぐに白雪姫の世界に引き込んでしまいそうだ。
一行目。「昔々、ある国のお城でお妃さまがぬいものをしていました」。どこかで聞いたことがある。
その場でしゃがんで読んでしまいそうになったが、窓際の椅子で座って読もう。
歩きだそうとした瞬間、ふらっと立ち眩みに襲われた。鉄分が足りてないせいか、時々こうなってしまう。
うっと呻きながら、化学の本棚の側面に手をつく。
それが本棚を真ん中の空間に向けて押すような動きになってしまっていなければ、私は無事絵本の世界に入りこめたかもしれない。
その本棚だけ本がぎっしりと詰まっていないのだから、少し重いが私でも動かせる重さだったということだ。
真ん中の空間に向かって、本棚がすーっと滑るように動いた。
「あ、ちょ、なんでなんで」
これで、文学と化学の本棚が隣り合った。後で戻しておかないと、と思いかけてあるものを目にして凍り付く。
なぜ本棚を三つ詰めてはいけないのか。
簡単にこの棚を動かしたい理由があるから。
収納スペースだらけの本棚でも端に置いておきたいちゃんとした理由が。
この光景、どこかで見たことがある。
ついさっきのことじゃないか。図書館で読んだ実話怪談の本で「ゆうた」という学生の怖い体験談。
化学の本棚が隠していた壁には、一枚分のドアを切り抜いたような切れ込みがあったのがはっきり見えた。
まさかと思い、片手で押してみる。
すうっと、壁の奥に押し込むことができた。左側が奥の空間に引き込まれた分、右の壁がこちらに浮き上がってくる。壁が回転している。
茶色い壁の奥には、埃っぽい匂いのする新たな空間があった。
隠し部屋、ミステリが好きな建築家、そんな建築家が自分のために建てた家。
何かがつながったような気がした。
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