シンデレラは、お茶会に招かれました

「はい、どうぞ」

「……ありがとうございます」

 加藤さんから公園の自販機の温かい缶の紅茶を渡される。

「あの席に座りましょうか。ピクニックテーブルみたいなとこ」

 加藤さんが示したのは、二人掛けベンチ二組に挟まれた木製のテーブル。笹野さんも加藤さんに付き添われながら、席に座る。

「だけど、本当にひやひやしましたよー。姫埼さんがいなかったらどうなってたことか」

「笹野さん、もしかしていきなり施設から出てしまわれたんですか」

「そうなんですよ。そろそろお散歩の時間ですねって言って杖とか準備しに行って、いざ玄関ホール向かうでしょう? そしたら、手握って付き添ってくれてた他のスタッフさんの手を振り払って、玄関の自動ドア駆け抜けていく笹野さんがちょうど見えて。普段は走ったりなさらないからびっくりしたんですよ。あんなこと初めてだわ、今後は注意しないといけませんね」

 加藤さんが買ってきてくれた紅茶を開け、さっそく飲む。甘くない無糖タイプ。

 今いるのは、来たことのなかった公園。よく使う駅とは反対側の方で、笹野さんが生活しているグループホームはここのすぐ目と鼻の先だそうだ。

 この間桐雄伯父さんと来たとこより小さいけど、新しい公園なのか、ベンチもぴかぴか光って真新しい。

「笹野さん、猫ちゃんどこで見たんですか? ホームの玄関?」

 周りを見回している笹野さんに向かって、加藤さんが尋ねる。

「ええ、入口の前よ。植木鉢があるでしょう」

「ありますね、アロエの植木鉢」

「そこに猫ちゃんがいてこっち見てたのよ。それで追いかけようと思ったら、逃げちゃったから走ったの。でも、ダメだったわねえ」

「猫なんて小さい動物、すばしっこいもの。走られたらなかなか追いつけませんよ」

「猫ちゃん、ここには来るかしら」

 杖を両手で握りしめながら、笹野さんはそわそわしている。

「笹野さん、猫がお好きなんですか?」

「聞かれてますよ、笹野さん。猫ちゃん、好きなのって」

 笹野さんは、加藤さんと私の両方を見比べる。

「そうねえ。好きでも嫌いでもないわね」

 意外な返答に、思わずえっと声がでた。加藤さんもだった。

「えー、そうだったの? てっきり大好きだと思ってたのに」

「ごめんなさいって言いたいのよ」

「ごめんなさいって、猫に?」

「悪いことしちゃったのよ、私。だから、謝りたいの。さっきその猫ちゃんを見たから、謝ろうと思ったのに、すぐにいなくなっちゃって。今でも私が怖いのね、可哀そうに」

 本当にごめんなさいね、と笹野さんは誰もいない方に向かって謝った。

 加藤さんと私は顔を見合わせる。どういうこと、と言いたげな表情をしていた。

「ねえ、笹野さんが猫ちゃんにその、悪いことしたのっていつなんですか?」

「暑い日だったわねえ。私ね、その猫ちゃんを捕まえたの。三毛猫だったわね。白と茶色の。とっても可愛かったわ。それなのに、私」

 笹野さんの口の動きが止まる。

「……ごめんなさい、これ以上は言いたくないわ。でも、あまりにもひどいことをしたの」

 笹野さんは、遠い上空を見つめている。その目は、言葉にできないぐらい何か悪いことをして、見てきたとでもいうのだろうか。

「そうだったの。笹野さんがそんなことをしちゃったのは、いつなの? まだまだ笹野さんが若かったころ?」

「暑い日よ。とても暑い日」

「だから、その。……いいえ、何でもないです」

 加藤さんは何年前の話なの? と聞きたかったんだろうけど、「暑い日」以上の情報は出てこなさそうだ。

「暑い日」という感覚と光景だけが、笹野さんの記憶にはこびりついているのだろう。

「だけどね、笹野さん。こんなこと言うのもなんですけど、その猫はもういないかもしれないでしょ? 謝りに行く必要はないんじゃないかしら」

「でも、夢の中でその子が出てきてにゃあにゃあ鳴くのよ。それを見ると思い出しちゃってねえ。生まれかわりとかもあるでしょう?」

「それはあるかもしれないですけどねえ。こんな言い方したらひどいかもしれないけど、生まれ変わっても必ず猫ちゃんになるとは限らないんでしょう?」

「そうかしらね」

「そうですよ」

「すみません、嫌なことを思い出させてしまったようで」

 こう変な空気になってしまった以上、謝っておくべきだろう。

「いいんですよ、姫埼さんは気にしないで。私もどうして笹野さんがこんなに猫に執着するのか知りたかったから」

 加藤さんはふふんと笑って、自分用に買ったレモネードを一口飲んだ。

「確かにそうね、今までずっとお姫様が無事でよかったと思うべきかもしれないわねえ」

 この人に「お姫様」と呼ばれただけで、胸がざわつくのはどうしてだろう。どうしてこの人は私のことを「お姫様」と呼ぶんだろう。

 でもこれを聞いたら、またややこしくなるだけな気がするから、何も言わないでいた。

「でも、すごいわねえ」

 笹野さんは、目を細めて私を見ている。皺だらけの口元が作る柔和な笑み。

「笹野さん、すごいというのは」

「お姫様にかけた魔法がいつまでも続いていることよ。あなた、今でもずーっと綺麗でしょう? 信じられないことだわ」

 会話が断片から全体まで、じわじわと浸食するように狂い始めてきている。

 この年老いた女性が自身の思い出話をしているのはわかる。だけど、本当にそれだけなんだろうか。

「笹野さん、魔法って漫画とか映画のお話? 笹野さん、『シンデレラ』のアニメ映画好きだものね。妖精のおばあさんが歌いながら魔法をかけて、かぼちゃを馬車にするシーンとか」

 再び困惑した笑みを浮かべる加藤さんがフォローを入れると、笹野さんは誰にでもわかるぐらいはっきりと首を横に振った。

「違うわ、本当のことを言ってるの。このお姫様にかかった魔法のことよ。わからない?」

「ごめんなさい、わからないわ」

「てつじさんがかけたのよ。いつまでも美しいままでいますようにって」

「いつまでも美しいままでいますように……?」

 加藤さんが私を見る。何か怖いものを見るみたいな目つきで。

 やめてほしい。そんな目で見られたら、私がおかしな存在みたいに思えてくるじゃない。

 私は私だ、お姫様なんかじゃない。そのお姫様は別の誰かだ。笹野さんはきっと他の誰かと勘違いしている。そんなこと、口が裂けても言えないけど。

 心臓が少しずつ速くなってきている。早くこの会話が終わらないかと。

「えっと、てつじさんって、笹野さんの旦那さんだったかしら。確か、何十年も前に亡くなったっていう」

「そうそう、てつじさんはすごい人だったのよ。何でも知ってるし、何でもできたの。魔法も使えたの」

 ふふふ、と笹野さんは幸せそうに笑った。

「笹野さん、てつじさんがかけたその魔法ってどんなものなんですか」

 加藤さんはテーブルに身を乗り出した状態で、笹野さんに尋ねている。その顔は笑っているようにも恐怖で引きつっているようにも見えた。

「知りたい?」

「ええ。とても興味があります」

「私も、知りたいです。笹野さん」

 笹野さんは私と加藤さんの顔を何度も見比べる。今、この人は何を考えているんだろう。

「秘密。教えたら、魔法が解けてしまうかもしれないもの。そうなったら、お姫様が可哀そうだわ」

 笹野さんは再び、何もいない花壇を見つめ始めた。猫が来るかもしれないと待っているんだろうか。

 冷たい風が吹いてくる。それは、ピクニックテーブルの上に落ちているカラカラの枯葉をどこかへ飛ばしていった。

 誰も何も喋らなかった。喋れなかった。

「……そろそろ帰りましょうか。風も強くなってきてしまったし」

 加藤さんが声ひそやかに言い出したのは、それから間もなくのことだった。

 どうしてこんなことになってしまったのか、そう言いたそうな顔だった。

「それじゃ、今日はありがとうございました」

「またね、お姫様」

 高齢者ホームの方へゆっくりと向かっていく二人の背中を見ながら、胸はざわめき続けていた。

 何かが、ひっかかる。

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