シンデレラは、猫を探すおばあさんを助けました
朝起きて顔を合わせても、おはようの挨拶だけで互いに何も喋らないまま朝の時間が過ぎていく。
喧嘩ってほどではなかったけど、昨日の些細な言い争いをまだ引きずっている。そんな雰囲気。
「今日もちょっと、帰り遅くなるね。六時半ぐらい」
千秋くんは素早く朝食を食べ終わると、それだけ言い残して家を出て行った。話すのを避けられてるような気がする。まあ、それは私も同じだけど。
「あー、やだやだ」
喧嘩みたいになるのは、これが初めてのことかもしれない。喧嘩するほど仲がいいとか言ったもんだけど、どうだか。
静かなのが落ち着かなくて、テレビをつける。民放でニュースをやっていた。
ニュース原稿を完璧な活舌で読むのは、バラエティ出演もしてる若手の女子アナ。
『……昨日午後五時半過ぎ、東京都内早稲田駅にて人身事故が発生しました。この事故により、女性が一人亡くなっています』
スクランブルエッグの付け合わせのプチトマトを咀嚼する口の動きが止まる。
人身事故。早稲田駅。私の帰りが遅くなった原因だ。
『亡くなったのは、都内在住の会社員、よしのみつきさん、二十八歳……』
よしの。私たちにつきまとっていたのは、吉野って女性じゃなかったっけ。
『よしのさんが線路下にいることに気づいた利用客が、列車の緊急停止ボタンを押すも間に合わず、よしのさんと列車は衝突。その後到着した救急隊により救助がなされましたが、その場でよしのさんの死亡が確認されました。警察は自殺と他殺の両方の可能性を考慮し、捜査を進めています』
テレビでは、事故が起こった際のものらしい早稲田駅のホームや線路内の映像と、「吉野美月」と亡くなった女性の名前のテロップが表示される。
私たちにつきまとっていた女性の本名を、千秋くんからは聞かされなかった。仮に亡くなったのがあの女だったとしたら。可能性はある。早稲田駅を利用していたのも、この家にくるためだったのかもしれない。
千秋くんにメールを送ってみる。
『前付き合ってたよしのさんの、下の名前って何か覚えてる?』
お昼ごろに返信が来た。
『美月、だったかな』
『それがどうかした?』
昨日の事故のニュースを伝えるネット記事を送る。数分後、既読がついた。
『事故のこと、今知った』
『完全同性同名がどれだけいるかわからないけど、年齢的にも多分この人だと思う』
『ちょっと、言葉が見つからないね』
妥当な言葉だと思った。
『この家にくる途中とかだったのかな?』
送るべきか悩んで、結局送ってしまった戸惑いの言葉。
『さあ、そこまではさすがに』
『不謹慎かもしれないけど、でもこれで彼女がうちに来ることはもうなくなったとは言えるかもね』
事故で死んだのがあの女なら、これも確かに真実かもしれない。
午前十一時。頭がもやもやする。びゅうびゅうと騒ぎながら吹き続ける冬の風の冷たさは、もやもやを吹き飛ばしてはくれなかった。
何となく近所の図書館に来て、図書館の分類番号九百番台の小説の辺りをうろうろする。
だけど、気を惹く本も見つからない。
二階のフロアに行くと「特集 東雲満」という文字と、丸眼鏡をかけた男性の白黒の顔写真がついたポップ。本の特集だ。
「神楽坂周辺に住んでいた日本を代表する建築家」という肩書とともに、彼が設計した建築作品などの写真集や関係者が書いたエッセイ。今でもこの辺じゃ有名人のようだ。
その中に日本の建築史をまとめた一冊があり、手に取ってみる。索引のさ行を見ると「東雲満」という見出しを見つけた。該当ページを見ると、彼に関する概要がまとめられている。
『一九五〇年代に京都府立新芸術美術館本館の設計・デザインをしたことによりその名を馳せた。その後の活躍が期待されたものの、心不全により都内の自宅で死亡。享年三十九歳』
千秋くんの言う通り、東雲満が神楽坂の自宅で亡くなったのはまぎれもない事実のようだ。後はもう興味もわかず、本を閉じて元に戻す。
考えがまとまらないまま、図書館全体をうろつく。
児童書コーナーに来ていた。子どもの目線に配慮した本棚、小さな座席。昔はよくこういうコーナーに入り浸ったな。
「学校の怪談」という背表紙が目についた。怖い話の本のコーナーだ。小学生なら大概、この手の本を一度は読む。そして、成長すれば皆去っていく。
『教えて! あなたの怖い話』のシリーズの一冊を手に取って、ぱらぱらと読んでみる。
読者が編集部に送ってきた体験談を謳っているけど、ほとんどは創作だろう。子どものころは本気で怖がっていたけど。
手に取った一冊に、友達の家で体験した話があった。
雨宿りを兼ねて高校の友達の家に遊びに行き、友達がいない隙に書斎へ入り込んだところ、壁に変な切り込みを見つけ、その奥で誰かがこっちを見ているのを見た。
本当に怖かったのは何なのかよくわからなかったけど壁の向こうに何かがいた、という投稿者の曖昧なオチで終わる。
実話怪談の一番な特徴は「オチがはっきりしないこと」だという。そういう意味では、この話はリアリティがあるのかもしれない。
一時間滞在し、何も借りず図書館を出る。どの図書館でも、帰りは面白そうな本を何冊か借りて帰ってくるんだけど。
「どうしよう、この後」
今日は何も集中できそうにない。それも、事故のニュースを読み上げていた女子アナの声と、明るいブラウンの髪の間から私をにらみつけていた吉野の顔が頭に浮かんでくるからだ。
昨日死んだのは本当に彼女だったのだろうか。
待ってえ、と遠くの方で叫び声がする。
通りの真ん中を走ってくる小柄なシルエット。さらに背後から別の人間が追いかけてくるけど、距離がありすぎた。
目の前は横断歩道。信号は赤。左横からは、ものすごい音を立てながらトラックがやってきている。
身体が勝手に動いていたというのは本当にあるらしい。人間ってすごいなあ、なんて場違いのコメントを頭に浮かべながら、等間隔で並ぶ白線の中央まで駆けた。
自分が何をしたのかわかったのは、歩道の上。今押し倒したばかりの人物の細い身体を手の中で感じながら。
「死にたいのかぁ!」
トラックは私たちを轢かずにぎりぎりで避けて、去っていった。運転手からの怒声は避けられなかったけど。
「はあ、笹野さん、こんなに速く、走れたのねえ。……あら、あなたは」
息を切らしながら駆け寄って来た私より一回りぐらい上の女性は、見たことがある。このおばあさんと一緒に、東雲邸を見ていた人だ。今日は「グループホーム日向通りの家 スタッフ 加藤」という名札を首にかけて、杖を持っていた。
そうだ、この人は笹野さんだ。あと少し遅かったらトラックに轢かれていたかもしれない人は。
「確か、東雲さんのお兄さんの彼女さん、でしたっけ。って、失礼よね。こんな呼び方じゃ」
「いえ、お構いなく」
「先日はごめんなさいね。驚いたでしょう。今日も驚かせてしまったわね。ほら、笹野さんもお礼を言って。危なかったのよ」
笹野さんは何かを探しているのか、きょろきょろしている。
それにしても顔を覚えられてたのか。恥ずかしい。
「笹野さんのこと助けてくださって、ありがとうございます。あなたの方も危なかったのに。もうダメよ、笹野さん。いきなり飛び出したりなんかしたら」
当の笹野さんはぽかんと口を開けて私を見上げていたが、はっと目をみはる。
「あら、お姫様。また会えたわねえ」
笹野さんは細い腕を伸ばし、私の前髪を撫でた。
まただ。この人にとって私はすっかりお姫様らしい。
「こんにちは。私のこと、覚えててくださったんですね」
「ねえ、猫ちゃんを見てないかしら。私、追いかけてたのだけど見失っちゃって」
「猫ちゃん?」
猫がいたのかと、つられて周りを見渡すけどどこにもいない。いたとしても、今の騒動で素早く逃げ去ってしまっただろう。
脇で聞いていた加藤さんがため息をつく。
「笹野さん。猫ちゃんなんて、どこにもいませんよ」
「でも、さっき確かに見たわ。お家から外に出て行ったのよ」
「うちのホームはペット禁止なので猫なんていません。そうだ笹野さん、お散歩に行きません? そしたら今度は、猫ちゃんも見つかるかもしれないでしょう?」
「確かにそうねえ」
「決定ね。杖もちゃんと持ってきましたから。あのう」
加藤さんが柔らかい笑みを浮かべたまま、今度は私の方を見た。
「ごめんなさい、何てお呼びすればいいかしら」
「姫埼です。姫埼由梨花」
「姫埼さんね。この後お時間あります?」
「ありますけど」
「良かった。よろしかったら、一緒にお散歩でもどうですか? 少し歩くと眺めが綺麗な公園があるんですよ。そこで大したものではないですけど、飲み物ぐらいご馳走させてくださいな」
「そんな、大丈夫ですよ」
「まあ、お姫様も一緒に行くの? 嬉しいわ」
「ほら、笹野さんもこうおっしゃってることですし」
ああ、どうあがいても逃げられないやつだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます