お庭に、誰かがやってきました

「お帰り、電車大丈夫だった?」

 家に帰ると、すでに帰ってきていた千秋くんが夕食を準備して待っていてくれた。メニューはスパゲティーナポリタンとサラダ。ケチャップの甘酸っぱい匂いが漂っている。

「うん、なんとか。ごめんね、今日は私が遅かったね」

「お互い様だよ」

 トマト味の麺を口にするも、おいしさが感じられなかった。亜鉛とか取った方がいいんだろうか。

「そうだ、あのね。監視カメラつけたんだ」

 自分の皿のパスタを半分まで食べたころ、口を拭きながら千秋くんがそう言った。

「監視カメラ?」

「うん。正門のとこにつけてみた。今日仕事早く終わったから、ホームセンター寄って買ってきた」

 いつの間にそんなものを。

「携帯のアプリと連動できるやつだから、いつでも映像確認できるって。こんな感じ」

 千秋くんが差し出した携帯には、家の前の道路が映し出されている。向かいの民家の玄関。時折ちかちかと点滅する街灯。家の前がフルカラーの映像で映っていた。

「三六〇度カメラだから、庭の方も見れるよ」

 千秋くんの指が画面を操作すると、携帯の中の映像がゆっくりと動いた。映っていた景色が、正門前から柵の内側の草木に当てられる。冬でも元気に生え伸びた草が、風でゆらゆらと揺れているのが見えた。

「すごいなー、文明の利器」

「常に録画してくれてるから、十分証拠になるよ」

 うまくいくだろうか。

「物は試しだし、やってみなくちゃ。明日もできるだけ家を空けておいて、帰ってきたら誰も来てないか確認しよう」

「今日も来てたのかな、あの人」

「さあね。でも、もう来ない気がするよ、彼女」

「なんでそう思うの?」

「勘だけど」

「ええ……」

「でも、一回君に反撃されたんなら懲りたんじゃない」

「どうだかね」

 とにかく今大丈夫なら、もう何もできないと考えた方がいいのか。

 

「ごちそうさまでしたー」

 ようやく食べ終わったのは、夜の八時過ぎだ。外のことに神経を使ってるからか、あまりおいしく食べられなかった。せっかく作ってもらったのに。

 自分のお皿は洗い終わったし、そろそろお風呂でも入ろうか。千秋くん、先入ってもらうか、明日も仕事だろうし。今だったら二階にいるかな。

 呼びに行こうと階段の方に向かったとき、身体がぴたりと止まった。何か変な気配を感じたからだ。

 空気がぴんと張りつめているようで、緊張してくる。もう夜だけど、こんなに静かだったっけ。いつもみたいに、テレビをつけてないから静かに感じられるだけか。

 ――て。

「……何?」

 背後で声がして振り向く。誰もいない。暗い廊下の奥があるだけ。トイレとか浴室も開けてみるけど、もちろん誰もいない。キッチンのシンクの収納なんかも確認したところで、我に帰る。さすがにこんなところにはいないか。

「誰かいるの?」

 こういう時は、落ち着かないと。

 誰かが侵入してきたんだろうか。さっき帰ってきたときに、鍵は閉めたし、無理やり入ってくるならドアや窓を壊す音とかが聞こえてきてもいいんじゃないだろうか。

「庭」

 あの女が入ってきたのは庭だ。私と千秋くんの安全な住処に勝手に入り込んできた図々しい女。次会ったら、容赦しない。「許さない」と何度も言われたけど、それを言うのはこっちの方だ。絶対に許さない。

 玄関からモップと懐中電灯を持って庭へ。これならいくら蹴られても殴られても簡単には折れない。もし折れたって、どこでも買える。でも、私たちの静かな日常は一度崩されたら買えないんだ。

 警戒しつつ、庭のドアを開ける。冷たい冬の空気がびりびりと肌を差して痛い。どこかにいるんだ。いないと、おかしい。声なんか聞こえない。モップを構えて警戒している自分が馬鹿みたいに思えてくる。

「そんな、なんで」

 かさかさと音がして、さっと視線を走らせた。

 いた。柵の向こう側に誰か立っている。

「誰、そこにいるのは、何してるの」

 懐中電灯をつけて、前を照らす。相手の顔が見えるように。

「……何だ、キョウくんか」

 つい一時間前に見たばかりの紺色のウインドブレーカー。フードの下の顔は、機嫌の悪そうな仏頂面。

「何してんの、こんな時間に。具合は大丈夫なの?」

 知り合いだったのがわかると、一気に緊張がほぐれる。ほぐれすぎて、笑いが出てきた。

「どうせなら、玄関から来なよー。てかさ、ここには来たくないとか前に」


「逃げて」

 

 たった一言、ぼそりと暗い声だった。目の焦点もどこか合わない。私の方を見ているはずなのに、視線が合わない気がする。

「逃げるって、どこに」

 聞き返しても、キョウは何も言わずに口を真一文字に閉じている。

「ねえ、何言ってるの。急に何。おーい、聞こえてるかー」

 私とキョウの間の柵をつかんでみるも何も言わないし、視線も動きやしない。なんか、これじゃ私がキョウを追い詰めてるみたいだ。

 目の前の彼はどこかおかしい。普段通りなら、毒舌が飛んでくるというのに。

 なんでこんなに静かなんだろう。

「ちょっとさ、変だよ。熱とかあるんじゃないの」

 その瞬間、手元からふっと光が消えた。懐中電灯が切れたのだ。スイッチを何度もカチカチしても光はつかない。

「ねえ、何してんのー?」

 後方から大声で呼ばれた。開いたドアからは、漏れ出す明るい光とともに千秋くんが顔をのぞかせている。まだパジャマを着ていないから、風呂前らしい。

「寒いじゃん、こんなとこいたら」

「ごめん、ちょっと誰かいるような気がして、様子見てて。あれっ」

 柵の向こうを見ると、いなくなっていた。懐中電灯の光もなぜか元に戻って、キョウがいた方を照らすも、誰もいない。通り全体を見ても通る人はいなかった。どこかで、車のクラクションが聞こえた。

「いつの間にかいなくなった……?」

 千秋くんが来たのを察して逃げたとしても、十秒もいかない。それなのに、どこかに逃げ去ったり、身を隠したりする余裕があるものだろうか。音も立てず動くことが可能っていう特技があれば話は別かもしれないが。

「そんなわけないよね……」

 電柱や民家の塀と上の方を照らすも、何もいない。いるわけがない。

「誰かいたの? 今でも隠れてるとか?」

 寄ってきた千秋くんが身体を硬くしながら、辺りを警戒する。

「あー、何でもない。何か庭から音がしたような気がしたんだけど、気にしすぎだったみたい」

「でも、庭から気配感じたんだ」

「……そうだね。何でだろうね。これ、片づけるね」

 庭の出入口に鍵をかけたのを確認する。これで、今夜はもう大丈夫。

 でもよく考えれば過去の私の行動はおかしい。家の中で気配を感じたとしても、二階にいる同居人にに助けを求めずに、さっさと庭へ出たんだろう。一階を探すならもう一か所、書斎もあったはずだ。

 数分前の私は異常なぐらい、庭にこだわっていた。まるで、呼ばれたみたいに。

「落としたよ」

 はい、と千秋くんにモップを渡される。

 玄関の靴脱ぎ場のロッカー。考え事をしながら片付けをしていたら、気づかないうちにモップを落としていた。

「大丈夫? ぼーっとしてない?」

「う、うん。あ、そうだ電池ある? 懐中電灯一回使えなくなっちゃって」

「あるけど。でも、それこの間電池替えたばっかりなんだけどな」

「じゃあ、接触不良かな。あとでちょっといじってみるわ。冷えたよね、お茶入れるけど飲む?」

「……ああ、じゃあ飲む」

 千秋くんの声はどこか心あらずという感じだった。私のぼーっとしてたのが移ったのかな。

 本当は熱いお茶を飲むより、お風呂で早く温まりたかった。熱がある感じではないけど、背筋が寒くなってくる。

 キョウは何しに来たんだろう。「逃げろ」ってどこから、何から逃げろっていうんだろうか。

 様子もどこかおかしかった。顔を確認しようと照らしてみたときだって、眩しいはずなのに顔をそらしもしなかった。「僕の目、悪くさせたいわけ?」とか文句を言いそうなものなのに、あの少年の性格なら。

「さっきさ」

 リビングの椅子に座った千秋くんが、キッチンに立つ私の方を向く。

「うん、さっき何?」

「本当は誰かとしゃべってたんじゃないの? 後ろから見てて、誰かと向かい合ってるみたいだったけど」

 淡々としゃべる彼の声は不満げだった。浮気を問いただされてるみたい。

「しゃべってないよ、誰とも。だって、誰もいなかったの見てたでしょ」

「いつの間にかいなくなった、とか言ってたよね。聞こえてたよ」

 まずい、という顔をしたのがバレただろうか。「すぐ顔に出るよね」ってよく言われる。独り言のつもりだったけど、まさか聞かれてたとは。

「あ、それはさ。感じてた気配が庭に来たらなくなって、あー勘違いだったんだなー、って。そういうことだよ。深い意味はないって」

「ふーん……」

 疑うような目が離れない。しゅーっという音が左耳を直撃する。沸かしていたやかんが沸騰した音だ。

「後で話そう、集中しないとやけどしそう」

 タイミングよく沸いてくれたやかんに助けられたと思う。何で、こんな焦ってるんだろ。

 ティーポットにティーバッグを入れ、お湯をそそぐ。ポットから香り立つ紅茶の匂いを吸い込んだら、ちょっとは落ち着いた。二人分のカップに入れれば、完成だ。そういえばキョウは飲まなかったな、これ。

「はい、お待たせ」

「ありがとう。それで、本当に誰もいなかったんだね?」

 千秋くんに話を元に戻される。

「いなかったってば。何で、そんなこと聞くの? いたら、おかしいの?」

 わかってないな、というように千秋くんはため息をつく。

「越してきたときのこと、忘れたわけじゃないでしょ。うちに話にくる友好的な人間とかここらにはいないんだからさ。警戒しちゃうんだよ。時間も遅いしさ、外にいられたら怪しく見えるよ」

「それはわかってるけど」

 苛立ったような態度で、千秋くんは紅茶を一口飲んだ。

「とにかく、今度変な気配感じたらまず僕に教えて。何かあってからじゃ遅いから」

「……わかった」

 もやついた気分のせいか、今入れたアールグレイは渋みが多い気がして全然おいしくない。

「ごめん、先にお風呂入る」

 飲み終わった千秋くんが、リビングを出ていく。

 その夜はもう寝る前でもしゃべることはなかった。

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