第三章 スリーピング・ビューティー

再び、不思議な少年と出会いました

――姫埼さん、お疲れ様でした!

――四年間、あっという間だったわねえ。

 四年間働いた大学の近くの和菓子屋で最後のバイトを終えたときに、先輩や後輩たちにかけてもらった言葉を思い出しながら、帰途につく。最後の最後で、生理痛を抱えながらのバイトだったのが悔やまれるけど、大したミスもなく結果オーライだと思う。

 退勤後は、一番お世話になった正社員の上司からは菓子折りをもらったりして。良い人たちと職場に恵まれた。

 時刻は午後の六時、今日は一ミリも雨は降ることなく快晴だった。毎日こうだといいんだけど。

 バイト先から家に帰るまでは、在来線を何駅か乗らなければならない。帰宅ラッシュで少しずつ混み始めたホームを抜け、電車に乗り込む。人は少し多いけど、何とか座れた。

 走り出した電車の中でスマホをいじりながら暇を潰し、三駅ぐらい過ぎたところで不意に電車が止まった。降りる駅まであと二駅なのに。

 止まったのは駅のホームじゃない、一般家庭の屋根や飲食店の看板が見える線路の途中だ。異常事態を察した他の乗客もスマホから視線を上げ、辺りを見回し始める。

 電車の天井から、ぶつっと音が聞こえた。車掌のアナウンスが入る時の合図。

『……えー、乗車中の皆さまにお知らせいたします。次到着予定の早稲田駅で、人身事故が発生し、ただいま運転を停止しております。乗車中の皆さまにはご迷惑をおかけいたしますが……』

 そこまででもう聞くのをやめていた。落胆の声は聞こえないけど、深いため息があちこちから聞こえてきたので、周りにいる人全員不満たらたらだろうな。私もそうだ。

 でも、起こってしまったのはもうしょうがないし、諦めてスマホ画面に目を戻す。どれぐらい止まったままでいるのか見当もつかないけど、千秋くん宛てに「電車止まっちゃって、遅れます」「ごめんなさい!」とメッセージを打っておく。既読はすぐにはつかないから、今帰りかもしれない。私が今乗ってる地下鉄とは違う路線を使ってるようだから、巻き込まれてるなんて事もないと思う。

 結局、運転が再開されたのは一時間経ってからのことだった。降りた駅の駅員がメガホン片手に拡散させている謝罪を背に、速足で改札へと向かう。

 夜七時。冬のこの時間帯はもうすっかり暗い。吐く息が白いぐらい寒いし、さっさと帰ろう。

 ポケットの中の携帯が震える。千秋くんからだった。

『僕も今帰ってきたとこ!』

『夕食作って待ってようか?』

 最後の申し出に「お願いします!」と頭を下げた猫のスタンプを送る。

 未だにぎやかで明るい商店街を抜け、静かな住宅地に入る。この辺は暗くなると人通りも少ない。しんとした広い道を歩いていく、私のスニーカーのざっざっという音だけしか聞こえてこなくなる。

 夜道は怖い。一人で歩いていると心細くなる。誰かが後ろをついてきているような気がして、後ろを振り返る。もちろん、誰もいない。

 ふと前に目をやると、視界の端で誰かがうずくまっているのが見えた。街灯の下、紺色のウインドブレーカー。まさか。

「……なんだ、あんたか」

 駆け寄っていった私を見上げる不機嫌そうな顔、ぞんざいな言葉遣い。キョウだった。顔色は具合が悪いのか、昨日よりも青白い気がする。

「どうしたの、こんなとこで」

「あんたには関係ない」

「ほっとけないよ、こんな寒い中で。具合悪いの?」

「見りゃ、わかるでしょ。ちょっと眩暈したから休んでるだけ。少しすれば治るよ」

「あっそ」

 キョウの隣に腰を下ろす。

「なんであんたまでしゃがむんだよ」

「心配だから、良くなるまでいようかなって」

「へー。一晩中このままだったらどうすんの?」

「その時は救急車呼ぶわ」

「ほんとにおせっかいだな」

 減らず口叩いてられるなら大丈夫そうか。

 でも、本当に具合が悪いのか、隣にしゃがむとキョウがぶるぶると小刻みにふるえているのがわかった。

「いつからこうしてんの?」

「一時間前ぐらい」

「ええっ、風邪ひくよ」

「いいよ、それぐらい」

「良くないでしょ」

「うるさいな。今日はあんた、どっか行ってたの?」

「話題そらすなー。まあいいけど。今日はねー、バイト。今日で最後だったんだ。そっちは?」

「買い物」

 キョウは、ショルダーバッグを肩にかけていた。その中に買ったものとかが入っているんだろう。

「そっか。あっ」

「何?」

「ねえ、一時間前からいたんだよね?」

「そうだけど。それが何なんだよ」

「この辺うろうろしてる女性とか見なかった?」

 ちょうど昨日の女のことを思い出したのは良いことだったのか悪いことだったのか。私や千秋くんがいない間に、また来ていたのかもしれない。

「この辺うろうろしてる女性って、ざっくりすぎるでしょ」

「えっと、髪は明るめで長さは肩まで、上の歯が八重歯気味かな、上着はピンクのを着てて。あ、上着は昨日と違って別のものを着てたかもしれないから大した情報には……。って、どうしたの」

 口元を手で抑えながら、キョウは虚ろな目で下を向いている。

「……吐きそう」

 嘘、とこちらが言い切る前にキョウはその場で吐瀉し始めた。

 苦しそうにえづく声を聞きながら、背中をさする。

「ちょっとここで待ってて。飲み物買ってくる」

 胃の中のものを全部出し切った後、乱れた呼吸を整えようとしているキョウを後目に近くの自販機までダッシュ。

「ほら、飲んで」

 ペットボトルの水を開けて渡すと、キョウはゆっくりと一口飲んだ。

「……ありがと」 

 声を震わせながら、キョウは電柱に寄りかかりながらもゆっくりと立ち上がる。

「まだ座ってなよ。やっぱり、相当具合悪いんじゃん」

 こんな時間じゃもう病院とかもやってないんじゃないだろうか。心配だ。

「大丈夫。自分でも気づかなかったけどちょっと酔ってたみたい。帰りに乗った電車がひどい匂いしてたから」

「本当に?」

「本当だよ。なんで疑うんだよ」

 キョウの目つきがいつものじとっとした目に戻る。私があの女の話をした途端に吐き気を催していたように見えるのはさすがに考えすぎなんだ、きっと。

「もう平気だから、帰るよ。じゃあね」

「そんなんで一人で帰れるの?」

「心配した方がいいのは、そっちの方じゃない。夜だし」

 それだけ言い残してキョウは私が来た方の道へ、さっさと歩いていった。家はそっちの方なのか。

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