シンデレラは、鏡を覗き込みました

 今夜は千秋くんは、帰りが遅かった。いつもだったら、六時ごろには帰ってくるのに、帰ったときには八時近くを過ぎていた。

「あのさ、玄関の傘どうしたの?」

 帰ってくるなりすぐに聞かれる。

 あの女に襲われた傘は無理やり閉じて傘立てに置いたままだ。生ごみの日が来たら捨てるつもり。

「……後で話す。今日、遅かったね」

「ああ、それね。ちょっと急用ができちゃって、帰りにさっと終わらせようと思ったら思ったより時間かかっちゃった」

 いつもより遅い夕食の席でおかずのきんぴらごぼうをつまむ千秋くんは、ひどく疲れているように見えた。言葉も少ない。

「それで、急用ってなんだったの?」

「ああ、ちょっと、買い出し」

「買い出し?」

「ハンドメイドってやつ、今度やってみたくて材料とか買いに行ってた。なかなか行く暇とかないからさ」

 ほお、いつの間にそんなものを計画していたとは。

「ちまちま作業するの好きなんだよね」

「何系? 手芸?」

「今回はそうだなー。ハーバリウムかな」

 ハーバリウムっていうのは、ちっちゃい瓶に観葉植物とかビーズ、保存液を入れて作るインテリアか。高校時代のクラスメイトが作っていたような気がする。

「いいじゃん、私もやってみたい」

「うん、もちろん。今度作ろう」

「そうだね。……あのさ」

「うん?」

「今日、女の人が来たんだけど」

 千秋くんの顔が硬くなる。目がすっと細くなって、何かに勘づいた顔だと思った。

「……うん」

「千秋くんのこと「あいつ」って言ってたから知り合いなのかな、って思ったんだけど。心当たりある? なんかずっと、私のこと見てたとかも言ってた」

「知り合い」と言い換えたのは、もちろん意図的だ。

「もしかしてさ、私の前に付き合ってた人?」

 肩を強張らせていた千秋くんが、力なく肩を落とし、観念したかのようなため息をつく。

「……ああ、そうだ。吉野さんだ。もしかして上の歯、八重歯だった?」

「うん、そうだった」

「じゃあ、やっぱりその子だ。マジか、突き止められたか」

「こんな言い方したらあれだけどさ、ストーカーじゃないの?」

「そうだね。さすがに家まで来られたことなかったけど。だから、傘あんななってたんだ」

「そう。被害が傘だけで良かったのかもしれないけど」

 被害にあったのは、ビニール傘と泥水で汚れたジーンズだけ。

「……吉野さんとは、大学二年のときに付き合ってて、一年後に別れたんだけどさ」

 箸を一旦置いた千秋くんが語りだす。

「執着っていうのかな。しばらく、つきまとわれたり、復縁迫られるメール送られたりしたんだよね。何度か続いて嫌になったから『警察に通報する』って言ったら、なくなったんだけど」

「またここに来るのかな、あの人」

 千秋くんは何も答えず、肩をすくめた。

「そもそもなんで別れたの? 吉野さんとは」

「フィーリングが合わなくなったっていうのかな。もちろん、最初は好きだったよ。でも、段々疲れちゃって、僕の方から振った。それが良くなかったんだろうな」

 何かが歪み始めているのがじわじわと感じられる。千秋くんが、多数の人間から恨まれているのかもしれないということにも嫌悪感のようなものを感じていた。

「吉野さん? だっけ。『あんなことまでした』って言ってたんだけど、何のことだったんだろ。喧嘩とかして終わったの?」

「付き合ってるときに、何度かしたけど。それが原因で恨まれてるんじゃないかってこと?」

「まあ、そういうこと」

「僕は、ないつもりなんだけどね。彼女が何とかかんとか言ってても、いちいち気にしなくていいと思うけど」

「それって、後ろめたいことがあるってことじゃないの」

「え?」

 千秋くんの目が鋭くなって、正面から刺さる。

「何でもない」

 さっきから、言わなきゃいいことを言いがちだ。吉野さんがまるで千秋くんに利用されたみたいな言い方をしていたのが気になっていたから、こんなことを言ってしまったんだと思う。どうしようもできない苛立ちが心と頭を埋め尽くしている感じ。

「僕がひどいことしたと思ってる?」

「ごめん、正直そう思った」

「……そう思われても仕方ないか。じゃないと、こんなことにならないよね」

「今言ったことは忘れて。千秋くんが何しても、ストーカーしていい理由にはならないだろうし」

 二人とも押し黙る。言ってはいけないことを言った後のどうにもできない後悔。

「この件は僕がどうにかする」

「どうにかって、どうするの?」

「……ちょっと考えてみるよ。やっぱり、ここ引っ越した方がいいのかな」

 ため息交じりの彼の言葉に何も答えられなかった。

 私はやはり、この家に来ない方が良かったということなんだろうか。頭の隅で桜井さんに「ほら見たことか」とあざ笑う姿が思い浮かぶ。

 何か、こちらの意思に関係なく運命のようなものが、私がこの家と関わることを拒否している、みたいな嫌な空想まで。

 いや、そんなものあってたまるものか。私はただ、好きな人とここで暮らしたいだけだ。

「しばらく、一人の時はこの家にいないようにするよ。昼間とかさ」

 考えついた対策はこれぐらいしかなさそうだった。あとは、私がこの家にいるときにあの人が襲ってきたら、警察に連絡する、しか手だてはなさそうな気がする。

「そんなことできるの?」

「できるよ。この辺、図書館とかもあるし。明日バイトだし」

 正確に言えば、最後のバイトだ。大学入学から四年以上続けてきたバイトは、今月中、明日で辞めることになっている。

「わかった。……早急になんとかする」

「うん、ありがとう。ご飯冷めちゃったよね。もう一回温める?」

「いや、大丈夫だけど」

 千秋くんは再び箸を手に取り、すっかり冷めたご飯を咀嚼し始めた。

 しばらく無言が続く。普段は二人でご飯を食べながら他愛もないことを話すのに。色々と問題があったから、会話がなくなるのも当たり前か。

「テレビ、つけていい?」

「いいよ」

 テーブルの端のリモコンをテレビに向ける。テレビの端の電源ランプが赤から緑に変わり、民放チャンネルの映像が映る。

 ちょうどニュースをやっていた。女性アナウンサーの聞きやすい声と、会社と思われる建物を正面から写した映像が流れる。

 今日の夕方、都内にある化学薬品会社の倉庫の点検中、取り扱いが規制されている薬品がいくつか何者かに持ち出されていたことが発覚し、会社内外では大騒ぎになっているらしい。持ち出されたのは塩化亜鉛、ホルマリンなどどれも取り扱いには十分注意が必要なものだったという。

「へえー、怖いね」

 画面を見ながら千秋くんが呟く。

「ね、そんなもの持ち出して何するつもりなんだろ」

 他人事のように響く、私たちの感想。まあ、テレビで流れるニュースなんて九割が他人事だ。


家の住人二人とも入浴し、今日の役目を終えた浴室は冷たくて静かだ。

 千秋くんは、今書斎にいる。作業するなら手伝うよと言ったら断られた。

「冷えるから、いいよ。先に布団に入ってて」

 軽い断り方だったけど、いいから一緒に行くと言ってもきかないだろう。冷えるのはそっちも一緒だろうに。お風呂上り、暖房もない部屋で何をしようとしているんだか。

 早く戻ってきなよと釘をさしてトイレに行くと、下着が赤茶色く汚れていた。生理だ。だから、今日は不安になったり情緒不安定になったりしたんだと思う。始まる前の気分はいつもそうだ。何もこんな時に来なくていいのに、と思うけど仕方ない。

 すでに腹は生理痛で痛み始めていた。ため息をつきながらトイレを出る。

 何気なくトイレ入口の洗面所の鏡を見た。酷い顔をしているだろうと思って。

 洗面所の電気は今つけていない。光は廊下から入ってくるうっすらとしたものだけだ。

 そのぼんやりとした光のなかで鏡に映った顔が見えた。ノーメイクで髪もまとめていない、寝る前の私。

 それだけじゃなかった。

 背中すれすれに女の子がいた。いつか見た白いワンピース。ぴったりくっつくかのような距離で、私を見ている。

 笑っていた。私と同じ、ほくろの上の小さな唇を斜めに引き上げて。嬉しそうに笑っているわけじゃなさそうに見えるのは私の恐怖心だろうか。

 後ろを振り向いても、誰もいない。もう一度鏡を見ても何も見えなかった。パニックで息を荒げている私の顔と洗面所のドアが映っているだけ。

 

 寝室に戻ったけど、誰もいなかった。作業はまだ時間かかるんだろうか。

 ベッドに仰向けになって頭を巡らす。

 すべて、見間違いだ。キョウに言われたことを考えすぎてるだけなんだから。

 偶然、関連がありそうなことが続いたから、何か因果がありそうだと錯覚してしまいそうになっている。ここで因果関係を作ろうものなら、夢を怖がる母のようになってしまう。

 それなのに、私は内心あの少女を怖がっている。

 不思議なことはないと思う。だけど、あの夏実さんの前だけに現れたらしい少女は私もいると思ってしまう。

 生きた人間ではないのに。

 あの少女は宮内さゆりなんだろうか? でも彼女が亡霊だとして、どうして東雲家に出現しなくてはいけない?

 確かに東雲家には過去に死者が出ている。

 でも、その中に黒い髪の少女なんていなかったはずだ。

 まぶたが、重い。

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