あまりの来客の多さに、彼女はうんざりしました

 そうね、と生返事しながら記事の隣にあった写真に目がいく。

 一人の少女の顔。何のことはない、行方不明になった宮内さゆりの顔写真だ。

 この写真を頼りにこの子を探して欲しい。そんな想いが込められて新聞に掲載されただけだ。

「気になるんだ、その子の顔」

 私の視線の先に気づいたキョウが、にやつきながら顔を覗き込んでくる。

 写真の少女は顔までしか出ていない。だけど、顔全体を包むような黒髪。そして、口元のほくろに見覚えがあった。私の下唇の下と同じ場所。

 書斎にいた少女。違う。あれはただの夢だ。

「心当たりあるんだね、その反応は」

「違うよ、もういい加減にしてって思っただけ」

「嘘だな。絶対何か見た顔だ。知ってるんだろ、その子のこと」

 咄嗟に誤魔化したものの、キョウは騙されてくれない。

「どこで見た? 写真のその子そっくりだった?」

「それを君に言ってどうするの」

「見えなくなるようなアドバイスぐらいはできるよ」

「必要ない」

「そうだろうね。で、さっきの続き。宮内さゆりの事件があった後も、文成さんの身には何も起こらなかった。だからこそ、彼は千鶴子さんと結婚したし、息子と孫もできた。でも、もう言わなくてもわかるよね?」

 千鶴子さんも夏実さんも亡くなった。亡くなっているのは、女性ばかり。そう言いたいんだろう。

「詭弁じゃない? 女性じゃない和也さんとか、文成さんだって今はもう亡くなってるんだし」

「でも、和也さんだって夏実さんを助けようとして亡くなるまでは、この家で育ってきた。文成さんが亡くなったのだって、数年前。問題なくこの家に住み続けて来られたってことでもあるだろ」

 そこでキョウは立ち上がり、廊下に出て奥の方を指差した。

「玄関は大丈夫なんだ。本当に問題なのは、この奥。そこで何か見たことない?」

 夢か現か、長い髪の少女を見たのは。いや、ダメ。そんなことを考えるのは。

「……見てないって、何も。本当よ。それに、死んでないかもしれないんでしょ、この子は。さっき、君が言ってたじゃない」

「まあね」

 キョウは肩をすくめる。

 何も気にしてないみたいにもう一度座り直して、冬の冷たい空気で冷めた紅茶を一口すする。手の震えが止められなかったから紅茶は少し膝の上にこぼれたし、何か隠してるってキョウにばれたかもしれない。

「無理には聞かないよ。調子合わせて嘘言われたって何にもならないし」

 そんなことするつもりは毛頭ないから安心してほしい。

「悪いけど、いい加減に帰ってくれない?」

「いいよ、もう話は終わったし。怖くなった?」

「変なこと言われてただ不快になっただけ」

「知ってる。だからもう帰るって」

 キョウは気が済んだからか、あっさりと玄関へと歩いていく。

「悪意なの? 怖がらせようとわざわざ来たの?」

 言わなくてもいいのに、玄関から出ていこうとするキョウについついそうこぼしてしまっていた。

 八つ当たりしてるみたいに聞こえるかもしれないけど、これぐらいは言ったっていいんじゃないだろうか。誰だって、自分が住んでる家への悪評を聞いて嬉しくはならない。

 キョウはすぐには何も答えなかった。今履いたばかりのハイカットスニーカーにしばし目を落とした後、私の目を見据えて口を開く。

「悪意ではないよ。本当にあんたが心配になっただけ。信じないだろうとは思うけど」

「……そう」

 雨は小ぶりになる様子も止む様子も見せない。傘立てにあったビニール傘を渡そうとするも断られる。

「……いいよ、家近いし返すのも面倒だから。じゃあね」

 ウインドブレーカーのフードをさっと被ったキョウが雨の中へと一歩足を踏み出す。

 最後に一度だけこっちを振り向いた。

 私の顔を見た。

「似てるね、やっぱ」

「……はっ?」

「なんでもない。じゃあね」

 少年は颯爽と黒い門を出て行った。

 とりあえず一難は去った、と思う。よく知らない少年に好き放題言われて悔しい。 

 廊下の奥を向いたとき、何かが動いたのが見えた。

 庭に出るあのドア。

 雨はさっきよりは小ぶりになっていた。それでも花々や木々が穿たれている庭は、全体的に暗く重い。

 一度気にし始めた嫌な感じは、まとわりついたまま離れてはくれない。

「気にしすぎだって落ち着け、私……」

 言い聞かせるように独り言を呟く。

 さっき、キョウに女の子の呪いだの言われたから、それに影響されて幻覚を見てしまっただけだ。寒いから早く家に入った方がいいのに。

 庭を軽く巡る。視界の端でぎいいと音がした。

 何で、こんな音が。

 女性が入ってきた。ピンクのガウンを着たその人は、傘もささず全身をずぶぬれにしながら、庭唯一の出入り口を開け放っている。重い金属音は、そこから出ているんだ。

 侵入者は私を見ていた。

 逃げようと背中を向けたのがいけなかった。すぐさまどん、という衝撃が背中に飛んでくる。広げた傘を持ったまま泥水と化した土にジーンズに包まれた膝ごと勢いよくつっこんだ。

 最初の数発は背中に受けたけど、うめき声をあげながらも死に物狂いで傘を相手に向け、突き返す。手の中の傘から伝わってきたのは普通は与えちゃいけない強い衝撃。

 今の傘のアタックをかばおうと広がった女の掌が見えた。何かのアレルギーなのか、真っ赤にただれていた。

「何するんですかっ」

 火事場の馬鹿力というのか、自分でも驚くぐらいの声が出せた。目の前に広げた傘の透明なビニールからは、ぼやけた輪郭でしか相手を捉えられない。

「どうやって、入って、きたんですか」

 一息で言えそうな言葉も、途切れ途切れになる。

 女性は何も答えず、殴りかかってくることもせず、私の方に何かぽいと放り投げた。小さくて細いものが私のスニーカーの元にまで飛んでくる。

 拾ってみるとヘアピンだった。どこでも買える、いわゆる「パッチン止め」じゃないタイプのヘアピン。

 女性の背後の庭の開いた出入口が風に吹かれて柵に当たるたび、ばたんばたんと音を立てる。施錠している南京錠をこれで外したということなんだろう。映画とかドラマなんかでよく見るけど、実際にできてしまうとは。

「どろぼう」 

「はい?」

「どろぼう、だって言ってんの。この家に住んだりして。本当はあたしなのに」

 怒りから来るのか、女性が握りしめた両拳はぶるぶるとふるえていた。

 突然のことに声が出せない私を、女性はにらみつけてくる。

「ずーっと前から見てたんだよ。そしたらさあ、あんたがふらふらしてるじゃん。許せないよね」

 数日前に私をつけていたのは、この人だったのか。

 スキニーパンツの膝が汚れることも構わず、女性はがっくりと膝をつく。そして、笑い出した。

 何がそんなにおかしいのか、げらげらと声を上げて笑っていた。

「あああっはははあ、あーあ、おまえと住んでたんだあ。あたし、捨てられたんだ。利用されたんだ、そうなんだ、そうでしょ?」

「え、あの」

「最低だね。ははっ」

 のけぞるような姿勢で甲高い笑い声をあげた女性の目は、一ミリも笑っていなかった。

「許さないから」

 女性はすぐに笑うのをやめ、顔を醜く歪めながら私を睨む。口からちらりと覗いた前歯は獣のように鋭くとがっていた。

「あんなことまでしたのに。返せよ、あたしから奪ったもの全部返せ。何なのよ、もう。お前もあいつも絶対許さないから。許さない、許さない、許さない」

 女性はうあああっと叫んだ後、再び壊れたように「許さない」を繰り返した。雨か涙かわからない水滴が、女性の白い顔をいくつも伝っていく。

 そこでようやく恐怖以外の感情が沸く。なんでこの人に何度も喚かれたり、罵倒されたりしなきゃなんないんだろう。名前すら知らない人なのに。

「本当にあなた、誰なんですか」

 にじり寄って問い詰めると、女性の顔がショックを受けたように引きつった。まさか反撃を受けるとでも思っていなかったかのように。

「私が何か悪いことしたなら謝りますけど、その前に自分の名前ぐらい名乗ったらどうなんですか」

「う、うるさい。泥棒のくせに」

「泥棒? あなたから何も盗んだ覚えはないですけど」

「黙れっ」

 柵を隔てて、女性と私のにらみ合いが続く。一度こうなったら、引き下がれない。

 負けたのは向こうの方だった。

「あ、あいつとおまえのせいであたしはもう何もかもめちゃくちゃなんだよっ。どうしてくれんだっ。畜生っ」

 捨て台詞の罵倒を残して、女性は踵を返して去っていった。足と身体を引きずるようにしながら。傘もささずに。 

 泥で汚れたジャケットと、骨が折れ曲がったビニール傘だけが残った。

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