シンデレラは、書斎へ向かいました

 同棲四日目の火曜日の朝。細身の黒いコートを羽織った千秋くんが、玄関から出ていく。ただでさえ背が高いのに、細身の服を身に着けると、さらに背が高く見えるから不思議だ。

「さてと、面倒なものを片づけますか」

 朝食の片付けを終えた後、部屋から取ってきたパソコンと携帯を脇に抱え、リビングの冷蔵庫についたフックから鍵が二つついたキーリングを手に取り、書斎に向かう。

 同棲し始めてからの新たな決まり事として、私が一人で家にいるときは書斎に自由に出入り可能になるが、出かけるときは書斎も含めて施錠をすることになっている。

 書斎のドアは、この間千秋くんがしてくれたときのように、重い音と手ごたえと共に開く。

 この中に閉じ込められているのは本棚と静かな空間だ。一歩部屋に入って深呼吸すると、冷たい冬の空気と古い本の匂いがした。大好きな匂いだ。面白そうな本を探しに、本棚を眺めに行きたくなる。

 でも、その前に課題を終わらせなくちゃならない。

 窓の前の机にパソコンを置き、電源を入れる。立ち上がったらすぐに、課題のドキュメントを開く。画面にばっと表示されるワープロ文書。

 入社が決まった仕事では、多様な商品を使用して比較し、各メーカー毎の比較レビューをウェブサイト上で掲載するライターのような仕事をする。課題として出されているのは簡単な文章作成。良くしようと思えばいくらでも時間をかけられそうなのだが、書かねばならないところはまず書いてしまおう。

 文書データを立ち上げたら、一緒に持ってきた携帯用ラジオの電源を入れる。FMはチューニングが面倒なのでAM。

『……で、おたよりターイム。いつもいつもみんな、たくさんのおたよりありがとうっ。えーっと、今日の一通目、東京都在住二十九歳女性、マーガリンフライエフェクトさん。雁田さんこんにちは。はーい、こんにちは。私は一人暮らしを初めて五年になりますが、仕事から帰っても家に誰もいなくて寂しいのが悩みです……』

 流れてきたのは、最近売れてきてる中堅芸人がパーソナリティをつとめるトーク番組。一人で何かするのに静かすぎても落ち着かないけど、好きな曲を流しても、音楽に聴き入ってしまう。これぐらいの雑談だったら、気にはならないから邪魔にはならない。

 ラジオを流したまま五分ほど。資料を読みながら十行程度書いたところで、一旦手をストップ。書き間違いがないか確認。

『……に、強く反対されました。母も子どものころに猫を飼っていたことがあるそうなのですが、ある日その猫が家の塀から外に散歩に出たのを見たときを最後に、帰ってこなかったという経験があるそうです。母はずっとそのことを引きずっているようで、ペットは失うと……うが……し……』

 お便りを読み上げている芸人の声が途中から、途切れがちになり、ざーざーと砂嵐の音声しか聞こえなくなる。

「電波不良かーい、最悪」

 電源を切ったり、放送局を他のところに回してみても聞こえてくるのは耳障りな砂嵐音だ。真剣に聴いていたわけではないけど、音声は欲しい。

 後ろで気配がした。誰かが、私の後ろにいる。おかしい、今この家には誰もいないはずなのに。

 振り向くと、黒いものが部屋の端へと横切っていくのが見えた。

 黒い髪の毛先だ、と思った。どうしてそう思ったのかはよくわからない。それが横切るとき、ふわっと揺れたように見えたからかもしれない。遠くから見ていたのに、それが黒々として艶のある髪だと思った。

 移動していった先は、あのなぜか二つしかない本棚の壁の方。見に行ってみても誰もいなかった。当たり前だ。ここには今私しかいない。私と千秋くん以外で、長い黒髪の持ち主なんて入る余地がないのに。

 ぐるっと書斎全体を見て回っても誰もいなかった。きっと、何もかも私の見間違いだったんだ。こんなことしてる場合じゃないし。

 机に戻って、試しにラジオの電源つまみをそっと回す。

『……を言っちゃうとー、マーガリンフライエフェクトさんのお母さんの言うことは、正しいです。そうなんだよー、犬でも猫でも何でもさー、ペットが死んじゃったりしたときの喪失感はダメージでかいんだよねー。オレも小学生時代に金魚買ってたんだよー、縁日の金魚すくいで取ったやつね。縁日の金魚、友達んちでは十年以上生き続けてたらしいからオレもわくわくしてたんだけど、いきなりの水換えが良くなかったらしくてねー、三日で死んじゃった……』

 さっきの芸人の早口の一人語りが問題なく流れてくる。他の放送局に合わせると、話題の音楽が流れてきた。

「大丈夫、何でもないから何でもないから……」

 怖いと思ったわけではないはずなのに。でも、一人で言い聞かせるように呟いていないと叫んでしまいそうだった。

 さっさと終わらせてしまおうと集中し、一時間ほどで終わらせられたのはその空間にいたくなかったからだと思う。

 あと、どうして長い黒髪の幻覚なんて見なきゃいけなかったのかっていう余計な疑問で頭をいっぱいにしたくなかったから。

 電源を落としパソコンを閉じるとすぐ、傍らの携帯が着信で震えた。

 来たのはメッセージアプリでのメール。相手は桐雄おじさんからだった。

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