見知らぬ来客たちがありました

「……か」

 誰かが私を呼んでいる。暖かい手が肩も揺さぶっている。

「…りか、大丈夫?」

 薄目をゆっくりと開ける。私を揺するたびに揺れる、千秋くんの眉まで伸びた前髪。

「……ん、ち、あきくん?」

「あ、目覚めた。良かった。起きれる?」

「……うん」

「ほら、起こすよ」

 千秋くんに背中に腕を回してもらって、そっと起こされる。

 ぼうっとする頭のまま周りを見渡す。千秋くんと私しかいない、誰もいない廊下。

「大丈夫? ここで倒れてたから、びっくりしたよ」

「ここで?」

 かすれた声が出た。

「そう。片付け終わって二階で休んでるかな、と思ってたらここで行き倒れてるみたいになってて……わっ、どうしたの?」

 そんなつもりなかったのに、気づけば千秋くんの大きいセーターの胸元に顔を当てて泣いていた。

 ぐすっ、ぐすっとしゃくり上げたりなんかして子どもみたいで恥ずかしい、と思ったけど涙が溢れて止まらなかった。

「怖い夢とか見たの?」

「わかん、ない。でも、千秋くんの、顔、見たら、安心して」

 夢とか見た記憶は全くない。自分がここで寝てたっていう記憶も。寝てるってそういうものだろうし。

「そっかそっか、かわいそうに。よしよし」

 子どもをあやすように髪を優しく撫でる千秋くんの指の感触を感じながらようやく落ち着いたころ、思い至る。

「そうだよ、どこにいたの? 探してたんだよ、この家の中ずーっと」

「探してた?」

「家の中いなかったでしょ? 書斎にもどこにも」

「……ああ、ごめん。連絡してなかったっけ」

 しまった、というように千秋くんは視線を宙にやる。

「ちょっと用事思い出して外行ってたんだ」

「携帯も置いて?」

「うん。それまでは書斎にいたんだけど、急に思い出して衝動的にばーっと出ちゃった。買っておきたかったもの思い出して文房具屋さん行ってた。こっから十分ぐらいかな?」

 家にいたのは五時半過ぎ、店にいた時間は二十分ぐらいらしい。

「無事帰ってきたしいいけど。でも、心配したんだからね?」

「本当、ごめん。今度から連絡入れる」

「頼むよー」

 千秋くんはしっかりしてるように見えて、うっかりしてるというか、衝動的なところがあるからこの先気を付けないといけないようだ。

「いつぐらいに戻ってきたの?」

「今、帰ってきたとこだよ。玄関で靴脱いですぐ由梨花がここにいるの見つけたの。今は、えーと、六時五分」

 私の部屋の片付けが終わったのが、五時半。それまでずっとここに寝てたってことか。

「なるほど。……やば、くしゃみ出そう」

 前置き通りくしゃみが一回出て、背筋がぶるりと震える。二月の寒い中、直前まで暖房もない廊下で寝てたんだから冷えたに決まってる。

「それで、部屋の片付けは終わった?」

「なんとかね」

「良かった良かった。ここずっといて冷えたでしょ? ていうか、そろそろご飯か」

「あー、そうだ、夕ご飯どうしよ」

「今日は疲れたと思うし、どっか食べに行こうよ。この近くパスタ美味しいお店あるんだけど、麺類いけたっけ?」

「いけます、大好きです」

「わかりました、決まりね」

「うん。……あっ」

 千秋くんに腕をそっと掴まれて立ち上がったところで、何かが頭をよぎる。

「ん、どしたの?」

 首を傾げながら私の顔を覗き込む千秋くんの目を見返しながら、言いようのない不安感が募る。私は多分、大事なことを忘れている。

「……いや、何か忘れてるような気がして。全然思い出せないっていうか」

「なら、今思い出せなくてもいいんじゃない。本当に大事なことだったら後でも思い出せるよ。今は美味しいもの食べに行こう。あれ、顔どうしたの?」

 千秋くんの視線が、口元あたりを凝視している。

「顔?」

「赤くなってない?」

「嘘」

 別に痛みもかゆみも違和感もないんだけど。

「鏡で確認してみたら? 洗面所にあるよ」

「そうだね」

 言われた通り洗面所の鏡を覗きこんだら、思わずうわっと声が出た。

 鼻から口にかけて真っ赤になっていた。顔とか手首とか足とかを確認するけど他は何ともない。異常なのは顔だけなんだろう。それにしたって、一体どうして。

 部屋に戻って、整理した引き出しを開ける。欲しかったのは湿疹にとかじんましんに効く塗り薬。皮膚アレルギーとかはなかったと思ってたけど、体質が変わったのかもしれない。念のため唇以外の鼻から下に薬を塗ったら、大分落ち着いた。

 美味しいパスタの夕食を食べに行き、無事家に帰宅。

 窓を開け、ひんやりとした冬の空気に親しんでいたとき、視線を感じた。視界の下にちらりと黒い影のようなものも見えた。

 家の前、人影が立っている。

 街灯の近くにいるわけじゃないから、その人の服装とかどんな顔をしているのかよく見えない。でも、頭は私がいる窓を見上げているように見えた。

 特徴的な頭部をしているな、と見てすぐに思った。

 特別頭が大きいとかそういうわけではないけど、頭からぴょこんぴょこんと小さい角のようなものが点々と見える。癖っ毛なんだろうか。

「こんばんはー」

 ここから挨拶するのも変かなと思いつつ声をかけると、人影の身体がびくりと震えた。挨拶をしただけなのに、怖いものと遭遇したかのような反応だ。

「何かご用ですか。今、そっち行きましょうか」

 再び声を張り上げると、人影はまた身体を硬直させた。

 結構ですということなのか、その人はそそくさと逃げるように、この家の右隣へと小走りに去っていった。

「何だあの人」

 何か不審に思われることでもあるんだろうか。

 昼間の桜井さんたちのことを思い出して、胃がずっしりと重くなった。


「シンデレラじゃん、完全に」

 池袋の東武百貨店の前で、みのりは唐突にそう言った。

 同棲生活が始まった二日後、二人で遊びに行かない? と誘われ、集まったのは懐かしの池袋だ。

 サンシャインの地下でアパレルやコスメを見たり、ちょっとおしゃれなカフェでパスタを食べたり。同性の友達と遊んだのはだいぶ久々だったかもしれない。

 くたくたになるまで遊んだ帰りがけ、千秋くんと付き合っていることを知っていたみのりは当然、最近どうなの? と聞いてきた。

 気の乗らないまま正直に話すと、みのりは、は? と一瞬固まった。

 そして次に出てきた言葉がシンデレラだった。

「シンデレラ?」

「そっくりじゃん、落とし物一つでできた縁なんてさ」

「星の王子様がガラスの靴で、千秋くんが王子様だってか?」

 ガラスの靴みたいに二つ揃ってるわけじゃないから違うんじゃ、という突っ込みは野暮かもしれないので言わなかった。

「そういうこと。実際東雲さんはルックスも良いし。性格だって良いんだろうから、王子様でしょ。家柄はどうか知らないけど」

 大手製薬会社の一族だぞ、と言ったらどういう反応をするんだろうか。まあ、そこは別に気にしてないけど。

「見目は麗しいから王子様だな」

「でしょ、でしょ」

 すらりとした長身に、整った目鼻立ちを持った千秋くんは文字通り「王子様」という言葉が似合うかもしれない。

「シンデレラかもね。私はそんな可愛くないけど、性格の悪い母親も出てきますし」

「いや、別にそこまで含めて言ったわけではないんだけど」

「自虐、自虐」

「それにあんたはかわいいから。あーあ、柴田くんもパーフェクトな王子様だったら良かったなー」

 みのりは大げさにため息をつく。

「柴田くん」というのは、例の合コンきっかけで付き合い始めた男性のことだが、最近別れたそうだ。

 ――最初は良い人だと思ったんだけどね。長い間いると、嫌なとこが目につくようになって耐えられなくなってきちゃったんだな。

 昼食後のカプチーノを飲みながら、みのりは肩をすくめていた。

 そんなみのりの姿を思い出して、千秋くんとのこれからがどうなるか不安が頭をよぎる。

「だけど、うまく行くかな」

「やっぱり、お母さんが問題ってこと? そうだよ、このこと知ってるんだっけ?」

「知ってる。けどそれは何とかなるかもしれない」

「じゃ、いいじゃん。何も心配する必要ないでしょ」

「でもまだ結婚したわけじゃないし、これからどうなるかなって」

 今は彼の事が好きだし、向こうからも大切にされているんだろうとは薄々思うけど、関係がこれからも続くとは限らない。

「何かあったら絶対ひきずるわ、絶対」

「それ、今のあたしからしたら嫌味にしか聞こえないぞー」

「ごめん」

「今更それ言うか。わからないでもないけどさ」

 小説なり漫画なり、失恋を含む恋愛のシーンは何度も目にしてきた。

 そして、自分が体験したわけではなくても、恋が終わって傷つく主人公を見る度に「傷つくなら、恋愛なんかしなきゃ良かったのに」と思い続けてきた。シンデレラと王子だって、めでたしめでたしの後は不仲になっているかもしれないし。

「そんな悲観的になりなさんな。これから由梨花と東雲さんが幸せなものに作っていくんでしょうが。ブラン・ニュー・ストーリーってやつじゃない?」

「変な横文字で誤魔化すなー」

 それには答えず、みのりは早口で語りだす。

「恋愛は傷つくものだよ。どう終わろうと楽しい一瞬は絶対にあるんだから、悪いことじゃない。好きなんでしょ? 今は東雲さんのことが」

「うん」

「いいじゃん、それなら楽しみなよ。これからどうなるかもわからないって言うのは、良い方にいくかもしれないし。……あ、でも」

「何?」

「いや、何でもない」

 絶対何でもある話だ、これ。

「なによー。気になるな」

「ちょっと突飛なこと考えすぎただけ。本当に、王子様がちぎれたのは偶然なのかなーって」

「どういうこと?」

「だからさ、東雲さんがあんたと縁づくりのために本当はストラップを盗って、落としたのを拾ったのように見せかけたとかさ」

「なんで、そんなことする必要あんのよ」

「そりゃあ、あんたがかわいいから」

「もう、本当そういうのいいから」

「あはは、さすがにないかー」

「ないない」

 ミステリとかの読みすぎだ、全く。


 みのりと別れた後、神楽坂周辺で夕食はどうしようかと悩みながら歩く。

 東雲家付近に店は少ないけど、ノスタルジーな雰囲気漂う商店街を見つけたので、そこで買い物を済ませることにした。

 池袋で買った雑貨に加えて、食材が詰まったエコバッグを提げながら家の前までようやくたどり着く。

 家の前に佇んでいる人がいた。よく見れば「人たち」だった。

 杖を手にしたお祖母さんが、私が入ろうとしている家を見つめていた。越してきたばかりのときのことを思い出してどきりとしてしまう。また、うちに文句でもつけにきたんだろうか。

 その人はこの間の桜井さんよりも小柄だった。背中も大分曲がって、八十か九十ぐらいにはなるんだろうか。

 すぐ側には、付き添いなのだろうか。三十代ぐらいの、お団子ヘアーの若い女性が寄り添うように立っている。

「こんにちは、何かご用でしょうか」

 私がここの住人だと気づいた女性はすみませんと会釈すると、わき目もふらず東雲邸の黒い門を見上げているお婆さんに話しかける。

「こんにちは。こんなところ突っ立っててごめんなさいね。……笹野さん、そろそろ帰りましょうか。このお家の人、来たみたいですよ」

 おばあさんに話しかける声が妙によそよそしいのを見ると、この人は介護ヘルパーで、今は散歩中ということなのかもしれない。

「別に大丈夫ですよ。しばらく、ここにいらっしゃっても」

「そうですか? すみません、お散歩の途中なんですけど」

「よろしかったら、中で休憩でも」

「いえいえ、そこまでは大丈夫です。ありがとうございます」

 女性は困ったような笑みを浮かべながら、ぺこりと頭を下げる。

「いつもお散歩するときはこの辺りを歩くんですよ。ね、笹野さん」

 笹野さんと呼ばれたお婆さんは、一心不乱に東雲邸を見つめていた。

「建物がお好きなんでしょうか」

 そうですねえ、と付き添いの女性が首を傾げる。

「笹野さん、お若いころにここのお家で働いてらしたそうなんです」

「えっ」

 予想外の話に言葉を失う。 

「何でも、家政婦として雇われていらっしゃったとか。結構何度かおっしゃってるんですよ。ちょっと前から軽い認知症で最近のことは覚えてないんですけど、昔のことは鮮明に覚えてるみたいね。このお家通るたびに教えてくれるから、私も覚えちゃって」

「へえ……」

「もう何十年も前のことみたいですね。私だって生まれてないぐらいの」

 付き添いの女性は、ごめんなさい、喋りすぎねと笑って口をつぐんだ。 

 身長は私より低い笹野さんは、背中を曲げ杖をついているとさらに縮こまって見える。

 このお婆さんは、この家と所縁が深い人だったのか。

「あの、もしかして東雲さんの奥様ですか? 確か、若い男性が住んでいらっしゃったと思うんですけど」

 少し声をひそめながら、付き添いの若い女性がまた私に声をかける。おしゃべり好きの人のようだ。

「東雲さんの奥様」という言葉がすごくくすぐったい。

「えっと、何て言うか、恋人です」

「そうでしたかあ」

 女性は納得したように頷き、微笑んだ。

「彼のことご存じなんですか?」

「ええ。今までもこの家を通りかかったとき、挨拶していただいたことがあったので。親切な方ですよね」

 私たちが話をしていても、笹野さんは反応する素振りも見せない。高齢のようだから、あまり聞こえていないのだろう。

 私もしばらく笹野さんの側で家を見つめていたが、あまりここで油を売ってもいられない。

 すみません、失礼しますと声をかけ、門に手をかけた時だった。

「まあ、お姫様」

 初めて聞いた声に振り向くと、目を瞠った笹野さんが私を見つめていた。意外にも可愛い声だった。

 皺の多い口元は、さっきはぽかんと小さく開いていたけど、今は確かに口角が上がって微笑んでいた。

 こつ、こつと杖をつきながら、ゆっくりと私の方に近寄ってくる。

「ちょっと、笹野さん、どうしたの」

 笹野さんの様子に驚いた女性に構うことなく、エコバッグを腕に提げた私の右手を握る。

 そして、何度も私の手の甲をしっとりした掌で撫でた。

「無事だったのね。いなくなってなかったのね。私、あんなにひどいことをしたのに」

「笹野さん、どうしたの。何を言ってるの? 困ってらっしゃるでしょう、この方が」

 女性が慌てて笹野さんを引き止めようとする。

 しかし、興奮した様子の笹野さんには響いていない。

 お姫様、とは一体どういうことだろうか。私はお姫様なんかじゃないのに。

 それに、ひどいことって。

「ごめんなさい。本当にごめんなさい。許してね」

 笹野さんは許しを請うように両手をすりすりとこすり合わせている。両目から涙がはらはらとこぼれていった。

「もう会えないと思っていたのだけど、また会えたわね。あれは全部悪い夢だったのね」

 困り切った付き添いの人に連れていかれるまで、笹野さんはずっと静かに涙を流していた。

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