お城の書斎には恐ろしいものがいるようです

「その鍵束ってさ、どれがどれなの?」

 結局集中力が一時間も持たなかった私は、書斎で休憩する? という千秋くんの言葉に思いっきり甘えることにした。

「青い色で塗られてるのが、僕の部屋。赤く塗られてるのが由梨花の部屋。緑が寝室。黄色が物置かな。黒は庭だよ」

 今、千秋くんの手の中には青い鳥のキーホルダーがついた鍵束がある。

 ついている鍵は六つ。

 形は同じ銀色の鍵が五つ、持ち手の部分が色ペンで色分けされているのが、見分ける手段らしい。

「その束一つだけでここの鍵かけなきゃいけないとこ全部?」

「全部」

「ははー、よく覚えられるね」

「ずっとここに住んでるからね。で、唯一違うのがこの書斎の鍵」

 掲げて見せてくれた鍵は、他の五つとは違う金メッキの鍵だ。

「使わないときは施錠してるんだ。中のもの盗む人とかいないんだけどさ。……はい、どうぞ」

 千秋くんの手で開かれたドアの先は、別世界のようだった。

 リビングより少し狭い正方形の部屋には、入口を除く壁全体に本棚が置かれている。それも、天井に届きそうなほどの。

 書斎の一番奥の窓際には読書用だろう、電気スタンドの置かれた机と椅子があった。

 まさに、本をたしなむための部屋だ。

「本当にここで、大叔父さんは亡くなったの?」

「うん、そうらしい」

 彼の親戚にあたる祖父の叔父、大叔父である東雲満が亡くなったのは、この家の書斎だと言われている。

 生前はそれなりに名の知れた人物だったそうだから、彼の死は新聞などにも載ったそうだ。

 東雲満は、昭和三十年代に活躍した建築家兼ミステリ評論家で知られている。この家は元々、東雲満が自宅として設計し、住んでいたものだった。

 そして、東雲満は私たちが今いる書斎で亡くなっている。死因は心不全だったという。

 亡くなる前日の夜から書斎に閉じこもり、翌日の昼になっても部屋から出てこないことを不審に思った使用人が書斎で亡くなっている東雲満を発見したのだそうだ。

「椅子に座った状態で亡くなってたそうだよ。机に突っ伏して寝てるみたいだったって」

 彼の死を報じた新聞記事には、死亡推定時刻は使用人が見つける前の三時間前、朝の五時ごろだったのではないかと報じている。

 彼が倒れていたという床を見つめながら千秋くんが無感情に呟く。

 遺体に損傷はなかったそうだから、書斎のどこにも血痕などは残っていない。だから、その話を聞かされなければこの部屋で起きたことなど気づきもしなかったはずだ。

 彼が建てた家は、彼の甥に引き継がれ、大人になった甥の孫である東雲千秋に引き継がれた。そして、今でも彼は問題なく暮らしている。そして、今日から私もここに住まわせてもらえる。

 家に対して、過去にあった因縁を気にし始めたらきりがない。私の見解は今でも変わらない。だから、問題なし。

 この書斎にずらりと並ぶ本棚と本たちを見ると彼の大叔父はどんな人生を送っていたのだろうと思う。

 部屋の両壁に本が詰まった本棚。その壁に挟まれた空間にも等間隔で三つ並んでいる。

「これ全部満さんが集めたの?」

 どれだけの財力と手間をかければここまで集められるのだろうか。

「大体の本はお祖父さんがここに住み始めたときからあったみたいだよ」

「そうじゃないのもあるんだ」

 うん、と頷いて千秋くんが手招きする。

 かつん、かつんと足音を響かせながら千秋くんが案内してくれたのは、一番左の壁だ。

 古そうな本がぎっしり詰まった本棚。

 段はそれぞれ四つに分けられている。

 一段目と二段目には「江戸川乱歩」や「横溝正史」の文字。相当に古いものなのか、グラシン紙と呼ばれる薄い紙が巻かれたいかにも「古書」といった本。

『八つ墓村』を手に取って奥付を見てみると「初版 昭和二十二年」の表記。横溝正史ファンがよだれを垂らして欲しがりそうな一冊だ。

「上の方は東雲満のものらしいんだけど」

 百八十センチ近い身長の千秋くんが、一番上の本棚の本をなでる。私には踏み台がないと届かない高さだ。

「三段目は僕のお祖父さんが集めたものなんだ」

 色鮮やかな装丁の背表紙には「グリム童話」や「アンデルセン童話」の文字。ひらがなでタイトルが書かれた絵本なんかもある。

「童話が好きだったんだね。お祖父さんって」

「孫にも影響してるぐらいだからね」

 へえ、と相槌をうちながら本棚全体を眺めていると、違和感を感じ、すぐにそれがなぜかわかった。

「ここだけ本棚二つしかないんだね。不思議な配置」

 右奥の壁を振り返って見てみると、横幅一メートルの本棚が三台並んでいるのに対し、反対側のこの壁だけは二つしか並んでいない。

 しかも、左、真ん中に空白を置いて、右という配置だ。

 真ん中だけ開けておくのに何か意味はあるんだろうか。

「僕も気になってお祖父さんに聞いたことあるんだけど、よくわからないらしいよ」

「ふうん、そうなんだ」

 特に意味はないのか。

「そこにもう一台分の本と本棚を置いたら床の重量的にキャパオーバーってことじゃないかな。配置は変だけど」

 まあ、これだけものがあればなあ。

「そっか、だからここも本が少ないんだ」

 棚一台分の空白を一つ置き、ミステリと童話の本棚の隣にある本棚。

 背表紙は『化学大事典』『身近な薬品』などなど。

「化学とかのコーナーか」

 ここだけ本は詰まっていない。上二段に本が二十冊ほど並べられているだけだ。コレクションが埋まる前に、満氏が他界してしまったということなのか。

「お祖父さんがこの家を引き継いでから、そこの本棚に新しい書物が増えたことはないことは確かだよ。理系の人ではなかったから、捨てることもしなかったけど、増やすこともなかったんじゃないかな」

 童話以外の本はほとんど満氏が亡くなってから、増減も移動もしていないらしい。だけど、よくここまで保存できたなあ。

「それじゃ、休憩はここまでにして片付けに戻りますか」

 げっ、そんなあ。

「もう少し、ここにいても……」

「ダメダメ、ちょっとずつやればいつかは終わるんだし。夕方までには済ませようよ」

「はーい……」

 千秋くんにたしなめられて、私はすごすごと書斎を後にした。   


 地道に荷ほどきと部屋の整理を続け、全ての作業が終わったのは、すっかり日も暮れた午後の五時三十五分。冬の時期だから日が沈むのが早くて、外はもう真っ暗だ。

 私みたいに荷物整理はないけど、千秋くんはこの機に部屋の整理をしたいと言ってて、ちょっと前まで隣からがたごと聞こえていたけど、いつの間にか聞こえなくなっていた。もしかしたらもう終わって休んでるのかも。

 今日のごはん、何にしようか聞こうと千秋くんの部屋に向かう。

「千秋くーん、入っていい?」

 閉じたドアをノックして声をかけるも部屋からは、いいよもちょっと待っても聞こえてこなかった。

「千秋くん、いるー? あっ、もしかして、寝てるー?」

 それでも返事はない。冗談半分で寝てる? とか聞いてみたけどもしかしたら本当に寝てるのかも。

「入るよー?」

 良くないかなと思いながらも部屋のドアノブを回して押す。鍵はかかってなかった。初めて入る千秋くんの部屋。

 千秋くんはいなかった。

 片付けは終わっているようだった。本棚、パソコンの乗った机と椅子、丸いカーペット。木製の三段チェスト。クローゼット。持ち主のいない静かな部屋の窓からは、暗い夜の空が見えた。

 物置部屋も見てみたけど、千秋くんはいなかった。

「……トイレかな」

 バタバタと忙しい足音を立てながら降りる。誰もおらず、電気のついていないしんとした廊下。トイレやお風呂にも、リビングにもいない。

 あとは書斎と庭ぐらい。けど、庭の出入口には鍵がかかっていた。いたとしても、こんな時間に外で何をするのかもわからないけど。

 書斎で本棚の整理をしてるとかだろうか。あるいは読書休憩とか。

「……ありえるな」

 もしそうだったら、一人だけ何も言わず、ずるいぞぐらいは言っても許されると思う。

 にやにやしながら、書斎に再び入る。誰もいなかった。この家で探すべきとこは、もうここしかないんだけど。

「……千秋くーん?」

 なぜかひそめてしまった声で呼びかけるも、返事はない。部屋の中全体を回っても、誰もいなかった。

 背筋がぞくぞくとしてくる。いくつも本棚がそびえたつ空間で一人、というのは時と場合によってこんなにも怖いことらしい。

「えー、どこ行ったんだろ……」

 小さく呟いたはずの独り言も、部屋に響くほどの静けさ。ポケットに入れていた携帯のメッセージアプリを開き、トーク画面にメッセージを送ってみる。今、どこにいるの? 送信した直後、メッセージアプリに通知が届いたときの音が聞こえてきた。近くから。

 シンプルな青いカバーがついた千秋くんの携帯は、机の上。伏せてあった画面を見てみると、今送った文言の通知が届いている。これでメールなり電話なりの連絡手段は意味がなくなったわけだ。

 携帯を置いてどこに行ってしまったのか。いつでもメッセージが送れる携帯は便利だけど、持ち主が持ち歩いていなかったら何の意味もない代物だとこういう時に気づく。一言言ってほしかったけど、買い物とかなんかで近所に行ったのかもしれない。

 もうちょっと待つかと書斎を出て、後ろ手にドアを閉めた瞬間、身体が動かなくなった。

 えっ、と声を出そうにもかすれ声一つすら出ない。これは多分、俗にいう「金縛り」だ。それも人生初の。寝ているときになるイメージがあったけど、起きているときにもなるっていうのは知らなかったな。

 そんなこと考えてる場合ではないんだけど、身体は動かないし唯一動かせるのは頭の中だけ。どうしてこんなことになったのか。

 金縛りは超常現象でも何でもなくて、睡眠と覚醒どっちも半端な意識のときになるものだと聞いたことがある。じゃあ、今まで私は寝てたのか。そんな訳ないと思うんだけど、証明はできない。

 ふっと、首筋に息のようなものがかかったような気がした。後ろに気配。誰かがいる。

 でも、おかしい。私のすぐ後ろは書斎のドアだ。人が一人でも入れるような隙間はない。誰かがいるとしたら、ドア一枚を隔てた部屋の中だ。それなのに、誰かの気配をはっきりと感じられるのはなぜだろう。

 口元と鼻を後ろからがばっと覆われた。

 今度は首元にひんやりとした感覚。誰かの冷たい指が触れている。誰かの両手が私の鼻と口、首を押えている。息ができない。

 これは絶対夢じゃない。確実に誰かが触っている。

 何が起きているのか、振り返ることもできない。振り返って、背後に誰かがいるのを見たとしても正気でいられそうにもない。振り返ることもできず目に入ってくるのは、額に入った誰が描いたのかわからない風景画がかかった廊下の壁だけだ。ああ、こんな絵がかかってたんだ。

 ほんの少しだけど、両手に力が込められたような気がした。抑えつけられているせいで、どくどくと脈打っている感覚がはっきりとわかる。

「も…、ぐ…よ」

 声がした。耳元でひんやりとした吐息。とぎれとぎれで全ては聞こえなかったけど、少女の声が微かに聞こえた。何があったのかは知らないけど、嬉しそうにはしゃいでる。

 はしゃぐ? この状況で?

「…い…ぶ。こ…くな…わ」

 相変わらず彼女が何を言っているのか全ては聞こえない。最後に言ったのは「怖くないわ」のような気がしたけど、合っているだろうか。

 また、ぐっと力がこめられた。うえ、と出したくもないうめき声が出た。酸素不足のせいなのか、意識がぼうっとしてくる。私、どうなるんだろ。

 知らない誰かの姿が脳内に浮かんでくる。よく見れば誰かたち、だ。二人いる。

 一人は眠っているように横たわっている。着ているのは真っ白なワンピースなのか、白い布地を押し上げるような小さな胸が見えた。上半身の表面に沿うように、黒い塊がかぶさっているのも見える。髪の毛だろうか。

 少女の身体を見つめるようにもう一人、短く切り揃えられた髪の誰かが地面に膝をついていた。白い半袖のシャツを着た身体は大きくも小さくもない。寝ている少女と年は変わらなさそうな少年に見えた。そしてどちらとも身体全体の輪郭は見えるけど、顔あたりはぼんやりとしていてわからない。

 振り解きたい。でも、できない。手も足も動かせないし、悲鳴も上げられない。

 周りの景色がじわじわと見えてくる。二人がいるのはこの家の書斎だ。いくつも並ぶ本棚の向こう、窓のそばにこの二人はいる。

 少年らしき人物が動いた。少女の口元あたりに手を当て、そのまま下に押し下げるような動き。

 あの少女は私と同じことをされている。

「…ぐ…わる…ら」

 今私はどこにいるんだろう。誰が、誰に話しかけている声なのかわからなくなってくる。

「…ばいい」

 最後は何と言いたかったんだろう。

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