第一章 シンデレラ
シンデレラは舞踏会に向かいました
「荷物、これで以上ですね。失礼しまーす」
青いキャップを被った引っ越し業者の男性が営業スマイルを向けた後、トラックに乗り込んでいく。
「ありがとうございましたー……」
去っていくトラックに会釈を返すと、ほっとしたようなこそばゆいような気持ちになる。
振り返ると、城のような洋館がそびえ立っている。城という表現は大げさかもしれないが、この家を見た人はほとんどの人がそう形容するんじゃないかな。
この家に心惹かれるのは、西洋風で洒落た家だからだろうか。でも、そんな陳腐な理由だけじゃないはず。同じ条件の家だったらここ以外にもごまんとある。
この家は何かが違う、ただの家じゃない。私の心を惹く何かがある。上手くは形容できないけれど。
家と外を隔てるのは、黒い門扉。黒鉄がいばらのような装飾を作っている。
門扉の掛け金を開けて中に入ると、外観がよく見える。二階まである建物だ。
二階の部分に当たる窓は、台形の屋根がついたおしゃれな仕様。建築用語で言うと、ヴィクトリアン様式というそうだ。こんな自宅に住んでいる人にはあまりお目にかかったことがないから、すごく新鮮だ。
この家の玄関に入って一番最初に見ることになるのは二階へと続く階段。二階には、今日から私が生活することになる部屋、千秋くんの部屋、そして二人の寝室。
上からがたがたと音が聞こえてくるのは、千秋くんが部屋の整理をしているからだ。何年も使っていなかった部屋に移動するからちょっと大変かもと言いつつ、どこか楽しそうだった。
二階へは上がらず、長くのびた廊下をまっすぐ進む。
右手にある部屋は広々としたリビング。二人分の椅子が向かい合うテーブルと、流し台とガスコンロ。キッチンと食卓が一緒になっている。
リビングの真向かい、私の左手にあるのは隣り合ったトイレと浴室だ。千秋くんによると、十年ぐらい前にリフォームされたらしい。
長く伸びた廊下の奥の突き当りまで行くと、庭へと続くドアがある。ドアの窓からは、日差しを浴びた庭の景色が見えた。
庭を囲むように配置された黒い柵の内側は、名前もわからない草花が点々と生えている。
千秋くんによると、これらは全て雑草らしい。
「今はまだ冬だから、ほとんど生えてない状態だけど、春になったら悪くない景色になるよ。昔は園芸用の花なんかが栽培されてて、もっと綺麗だったみたいだけど」
「だけど、なくなっちゃったんだ」
「そう、花の世話なんかする余裕なくなっちゃったみたい。残念だけど」
さっき家の中を一通り案内してくれた千秋くんが少しもったいなさそうにそう言ってたっけ。千秋くんが言う昔というのが、彼のお祖父さんがまだ若かったころの話だから何十年も前のことだ。
「しょうがないか。時代は変わるもんね。いつまでも、綺麗な花を愛でていられる生活の方がきっと特別なんだ」
風になびく髪に手をやりながら呟く千秋くんの姿は、映画のワンシーンのようだった。
この家はもともと、複雑な事情はありながらもそれなりに裕福だった千秋くんのお祖父さんが住んでいたものらしい。
今から何か植えることもできるかもしれないが、花の手入れをどこまでできるかと考えたら、彼の言う通り何もしない方が良いんだろうな。元々園芸に興味があるわけじゃないし。
庭は、細い鉄棒で作られた柵が敷地内外を区切っている。
「まだ休憩終わんないのー?」
呆れたような笑みを浮かべた千秋くんが近寄ってくる。
「荷ほどきしないと終わらないよ」
「大丈夫だよ、明日までかかっても問題ないって」
大学卒業を間近に控えたこの時期はいくらか余裕があるから、多少不便なだけで問題はない。
「そういうとこ意外とおおざっぱだよね。ゆるいぐらいの方が一緒に暮らすこっちも気が楽だけど」
やれやれと言わんばかりでありながらも、千秋くんは私の髪に指をそっと入れ、モノクロのセーターを着た自分の胸元にそっと引き寄せる。
「ちょっと、外でやめてよ」
「大丈夫だよ、ここ僕の家だし、誰か通りかかっても文句言えないよ」
「そうだけど……」
「僕の家」という一言に心臓が大きく高鳴る。
今日から私は、恋人である東雲千秋の家で暮らすことになるのだ。
千秋くんと出会ったのは、二年前の四月ごろのことだ。
大学三年、昨今では、本格的にではないが就活の準備が少しずつ始められていく季節。
そんなある日に、学科で一番親しくさせてもらっている友人のみのりから合コンに誘われた。
『うちの学科の卒業生が主催なんだけど、一人欠員出ちゃってさ。一人くれば大丈夫なのよ。で、せっかくだから来ない?』
確かこんな誘いだったと思う。電話越しで切羽詰まった声にお願い! と懇願された。
みのりは顔も広く、恋愛経験だって私と比べたらそれなりにある。だから、よくこういう場に顔を出すのだ。
「遊んでばかりの大学生」のように聞こえるかもしれないので彼女のためにも言っておくと、ちゃんと勉強もしている。ただ単に何事も要領よく行動できるだけだ。
「そういうのは、私じゃなくてもいいんじゃない? 愛華とかさ」
私よりは何倍もノリの良い共通の友人を出してみる。
『もうとっくに誘ったよー。でも、今日は推しのコンサート行くから絶対無理なんだってさ。だから最後の頼みの綱は由梨花だけなんだって』
「えー……」
『ねえ、由梨花さ。余計なお世話なんだけど遊んだりしないのはもしかして、お母さんに言われてること気にしてるから? あたしが心配することじゃないと思うけど、大丈夫?』
私と母の確執のことをある程度知っているみのりならではの切り口だ。
「違うよ、そういうのじゃない。ただ単純に人が多いところが好きじゃないだけ。過去に付き合ってた人もいるし」
『え、本当!? 初耳なんだけど、それ!』
「今まで言ったことなかったからね」
『なーんで教えてくれなかったのよー。で、いつ、いつの話?』
わかりやすいぐらい食いつくみのり。集まって恋バナする女子中学生か。
「高校生のとき。結局別れた、別れさせられたというか」
『ああ、うん』
全てを察したらしいみのり。
高校一年生のとき、初めて付き合ったのは西野くんという同じクラスの男の子。
誰かに話しかけられるたび顔を赤くさせて困惑するぐらい人見知りをするような子で、決して集団の中心にいるような子ではなかったけれど、人一倍穏やかな子だった。
席が隣だったこともあってか、休み時間とかによく話すようになり、気が付けばどちらかが何も言わずとも恋仲の関係になっていた。と言っても、十分プラトニックなものだったと思うけど。
そして、いつしか母の元にも私たちの関係は伝わっていた。母はどこから仕入れてきたのか、西野くんのいとこが殺人罪で服役中であるという事実を見つけて突きつけてきた。
あなたにはふさわしくないわ、もっと関係が進む前に別れなさい、と。
私にふさわしくないなら、誰にならふさわしいの? と揚げ足をとるようなことを聞くと母は何も言わず睨むように私を見た。
「でも、悪いことをしたのは親戚っていうだけで西野くんは何も悪いことしてないでしょう?」
「それでも親類にそんな怖い人がいるっていうだけで心配よ。普段はおとなしくても、かっとなったら何かしでかすかもしれないし」
そう言われたときは呆れて言葉も出なかった。「何かしでかすかも」なんて根拠も何もない邪推でしかない。
「とにかく早く別れなさい。どうしても嫌だって言うなら、お母さんの方から西野くんに言いに行くから」
半ば脅すような言葉で仕方なく、次の日私は西野くんに別れを告げた。他に好きな人ができたから、と。
優しい西野くんは悲しそうに微笑んで、わかったと言っただけだった。ああやって別れて以来、ろくに話すこともないまま卒業してしまったけど、彼は今どうしているんだろうか。
『で、それで恋愛とかしなくなっちゃったわけ?』
「うーん、単純に興味なくなっちゃったってだけかな。恋愛が全てってことでもないだろうし」
『それはそうだけど』
「でも、行くよ。今日」
『へ?』
「へ? じゃないでしょ。その合コン行くよ、って」
『マジ? どういう心変わり? ああ、昔を思い出して好きな人見つけようってことか! いじゃん、応援するよ!』
「……別にそういうわけじゃないけど」
何かツンデレみたいなことを言ってる気がする。
『でもとにかくありがとう~、助かったわ。場所とかメールで送っとくね』
魔が差したようにオーケーしてしまったのは、もうすぐ本格化しそうな就活や、前日にあったばかりの、母親とのいざこざという現実から逃れたかったからかもしれない。
もちろん逃げたところでどうにでもなるものではないんだけど、現実逃避は必要だ。
みのりが指定した合コンの会場がある池袋の路上を歩きながら、母親の言葉が蘇ってくる。今思い出すだけでも、怒りが沸いてくる。
――卒業したらどうするの? 働くの?
――働くとしてもこっちの方に戻ってきてほしいんだけど。
――だって、私の目が届くところじゃないと心配だから。何かあってからでは遅いでしょう。
母の生まれは武家上がりの名家で、自分が箱入り娘として大切に育てられたからか、私をも自分がされたように育てようとしていた。
それだけならいいが、何かと周りにも名家生まれのことをアピールしたがって、相当鼻にかけている節があり、私は子どものころからそんな母にうんざりしていた。
母の家系が恵まれていたのも昔の話で、現在は先祖が残した僅かな遺産しか残っていないし、数年前に私の父でもある夫を亡くした今では、フリーランスのデザイナーとして働く母の稼ぎだけで何とかやっている状態だというのに。
「そんな心配しなくても大丈夫だよ。私は私なりにやっていくから」
でも、と液晶の向こうで同じロジックを繰り返そうとする声を無視し、電話を切った。
元々母は実家から近い、母の母校でもある地元の大学に進学してもらいたかったようだ。高校に入学したばかりの頃から、呪文のように私にそう言い聞かせ続けてきた。
しかし、そうすればそれまで通り、母の車による大学と家との送迎、アルバイト禁止の生活など自由のないものになることは明らかだった。
東京の大学に行きたいなどと言えば「学費なんて出さないから」と跳ね返されるのは目に見えていた。かといって私も大学で勉強したかったし、自分で学費を払えるお金などはなかった。
だから三年間必死に勉強し、学びたい学科と在学中学費全額免除の制度がある私立大学の特待生枠をもらった。それを母が知っても喜びはしなかったし、猛勉強してようやく手に入れた枠の取り消しをしようと言い出してきたので、大喧嘩になった。
最終的に仲裁してくれたのは、伯父の桐雄さんだった。
父の兄である桐雄さんは、若い頃に結婚したものの早々と奥さんを亡くしてから独身で暮らしている。
子どもがいないからか、姪である私のことはよく気にかけてくれた。今では本当の父のような存在だ。そして私が特待生枠を取ったことを知ったとき、桐雄さんは母よりも喜んでくれた。
「特待生枠なんてすごいことだよ。由梨花ちゃんが頑張った証なんだから、喜んで送り出してあげてもいいんじゃないかな」
それまで上京に関して烈火のごとく反対していた母だったが、そう諭されてさすがに思うところがあったのか、それ以上何も言わなくなったし、驚いたことに仕送りも出してくれるということになった。
それでも、母より何倍も理解も常識もある伯父さんへの恩は、多分一生かかっても返しつくせないだろう。
散々言われたにも関わらず、母は未だ何も変わっていない。電話で言ってきたことも私のことを心配しているようで、結局は娘の行動を制限したいのだ。自分の安心のために。
苛立ったまま歩き続けていると、みのりが指定した居酒屋にたどり着く。
ゲームセンターやカラオケボックスなどが集まった一角にある、リーズナブルな居酒屋。
開始時刻より少し遅れてやってきたが、みのりを含む参加者たちに揃って迎えられた。
「ありがと、由梨花! 荷物預かるねー」
みのりが愛想よく私の荷物を座席の背後の畳にまとめられた参加者の荷物の山へ持っていく。もう後戻りはできない。私が選んでしまった道だ。
こうなったら、自分を思いっきり作るしかない。
「今日はよろしくお願いしまーす」と、表面上の愛想笑いで自己紹介をして、周りの話に耳を傾ける。適当に相槌を打ったり、笑ったり。
楽しくはない。そんなの最初からわかってたことだ。元々こういうとこは好きじゃないんだから。オッケーをした過去の自分を呪った。
参加して一時間。皆から一人離れ、トイレの個室の中。
もう帰りたい。うん、帰ろう。
廊下で、後ろから誰かに腕をつかまれた。
赤ら顔をした、スーツ姿の男性が私の腕をつかみにやにや笑っていた。
「俺のこと覚えてる?」
「あ、はい。里島さん、ですよね?」
「おおー、覚えられてた。嬉しいぜ」
私の目の前に座っていた男だ。同じタイミングでトイレから出てきたところなのが偶然なのか、待ち伏せさせれていたのかなんてことは考えたくもなかった。
飲みの席で彼の話を聞いていたが、どこか軽薄そうで、絶対に友人にも恋人にもしたくないと思った男。
最悪、と内心で舌打ちする。
「由梨花ちゃんさ、あんま楽しくなさそうじゃない? 俺もなんだけどさぁ」
あははーと酒臭い息を吐きながら里島が笑う。相当に出来上がっているのは言うまでもなかった。
えー、そんなことないですよ、と引き笑い半分で答えるが里島には通じていなさそうだった。
「本当かよぉ。そうだ、俺と由梨花ちゃんだけで抜けだして他のとこ行こうぜ。絶対、その方が楽しいって」
下卑た笑いを浮かべながら、里島は私の腕を引っ張る。
「ちょっと、困るんですけど」
抵抗をするも、私の一回り以上は体格が良さそうな男相手に私一人の力ではとても立ち向かえそうにない。
ああ、来なければよかったと今更遅い後悔をする。
過保護な母なら、それ見たことかと呆れたような顔をするだろうな、としょうもない考えが頭をよぎる。何から何まで最悪だ。
「そこまでにしてあげなよ」
トイレ前の廊下にいた私たちに、第三者の声がかけられる。
何だよ、と声の主を睨みつける里島に、落ち着いていながらも、鋭い目つきを送っている男性。
それが、千秋くんだった。
男女分かれて向かい合った合コンの席、私から一番遠く離れた端の席に座っていた人。東雲さん、と呼ばれていたように思う。
がっしりした体型の里島とは正反対のやせ型だったが、その時の私には誰よりも頼もしく見えた。
「彼女、嫌がってるだろ」
里島に言い放ったのは、たったそれだけだったが、それだけで十分だったように思う。静かな怒りと警告。
「くそっ、うぜえやつ……」
里島は怖気づいたのか、私の腕を手放すと、バツの悪そうな顔で私と千秋くんの顔を一瞥し、ぶつぶつ文句を言いながらその場を後にした。
ようやく解放された、と心の底から安堵する。
「あの、ありがとうございました」
さっきまで里島をにらみつけていた顔からは想像もできないような、爽やかな微笑みが私に向けられた。
「いえいえ、大したことはしてないよ。大丈夫だった? 変なこととかされてない?」
「はい、大丈夫です」
この人が来なかったらその可能性もあったかもしれないけど。
「里島くん、酔うとああいうことしかねないから心配してたんだけど、やっぱりだったな。警戒してて正解だった」
「そうなんですか」
あの男に対する私の読みは間違っていなかったようだ。
「って、こんなこと姫埼さんに話す必要なかったね。戻ろうか」
そう促され、みのりたちがいる個室の部屋に戻った。
騒ぎの発端となった里島が、何事もなかったようにみのりや学科の友人を相手に自分の趣味の自慢をしているのを見て、軽蔑する気分になったのは言うまでもない。
その後、みのりに声をかけ、一足先に居酒屋を出た私だったが、池袋駅に向かう交差点で黒いコートにリュックサックを背負った千秋くんと再び顔を合わせた。
「僕も早く帰ろうかなと思って、今出てきたんだ」
姫埼さんに便乗するみたいになっちゃった、と冗談めかして千秋くんが笑った。
二人並んで池袋駅構内に入ったとき。
「姫埼さん、あんまりああいうところ好きじゃなかったんじゃない?」
言葉には出されなかったが、無理して来てたんでしょ、と言いたげな声だった。
嘘をついてもしょうがないので、実はそうですと頷く。
「そうか、君もかあ」
「東雲さんもですか?」
「そう。でも、たまにはこういうの参加しなきゃいけないかなーと思って。でも、やっぱり合わないね、こういうの。疲れた」
この人も私と同じタイプなんだな、と考えると少しだけ親近感が湧いた。
帰宅して荷物を確認していると、リュックにぶら下げていた星の王子様のストラップがないことに気づく。
星の王子様っていうのは、フランスのジュペリという作家の児童文学『星の王子様』に登場する、どこか遠い星から来た王子様だ。
スカーフを巻いた金髪の王子様のストラップを大学入学頃に気に入って購入し、ずっとお守り代わりにつけていた。けど、今は主をなくしたストラップの紐と、取り付けるためのカニカンと呼ばれる金具だけがむなしくリュックのジッパーからぶら下がっている。
カニカンの下にはキーホルダーのリングを小さくしたような、着脱ができるリングがついていた。リングの切れ込みを王子様の頭についている金属の輪っかに差し込んで回すことで、取り外しができたタイプ。
よく見ると買ったときは閉じていたはずのリングの切れ込みが少し緩んでいる。どっかにひっかけたときに緩んでしまって、そこから落としたんだろう。怖い目に遭わなかった身代わりになったとでも思えばいいのか。虚しくなって、ため息をつく。
居酒屋に入るまではついているのを覚えていたから、宴会の最中か帰りに落としたとわかるまでにそれほど時間はかからなかった。
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