プロローグ2 少年の回想

 物心ついたときから、ぼくには怖いものが見えた。

 最初に初めて見たのは通っていた幼稚園の庭。何でもなかったはずの良く晴れた日の昼下がり、ほとんどの子は滑り台に夢中になっていた。

 滑り降りる部分が像の鼻の形になった水色の滑り台だったのを覚えている。友達が甲高いはしゃぎ声を上げながら滑っていくのを眺めていると、スロープの下に何かがいることに気づいた。

 真っ黒な人影だった。斜めになったスロープの板と地面の砂地の狭い空間に挟まれるように存在していた。

 一緒に遊んでいた子に、真っ黒い変なのが滑り台の下に座ってるとすぐに伝えた。みんなぼくが示したところを見た。口をそろえて、誰もいないよと言った。

 ぼくには見えるんだからと言い張ると、一斉に視線が突き刺さった。「こいつは何を言ってるんだ」という異端を見る視線だ。黒いのがいたところをもう一度見るともういなくなっていた。

 その幼稚園では何十年も前に、園の庭で当時年中だった園児の男の子が一人亡くなっていたというのを知ったのは、幼稚園を卒業してかなり経ってからのことだ。死因は不明だったという。


 小学校に上がっても「見える」体質は変わらなかった。むしろ酷くなったと思う。

 一年の教室の廊下の中央には喉から血を流す女。廊下のど真ん中に立つボロ切れのような服半分を赤く染めた、教師にも保護者でもない女の周りを、見えていない同じクラスの男子たちは平気でその女の体をすり抜けていった。先生も気づいた様子もなく「廊下は走らないで」と叫んでいただけだった。

 通学路の電信柱には、全身が紫色をした何かがぴったりと貼りつき、真っ赤な目だけを欄々と輝かせていた。そいつの体の紫色が何でできてたかなんて知らない。目をそらしながらそれの前を通り過ぎ、最後にちらりと振り返ると一つしかない目がぼくをじっと見下ろしていた。

 見る度ぎょっとして動けなくなった。お腹のあたりがきゅっとして、体全身も固まったように動かなくなる。

 そんな反応、人がどんどん通り過ぎていく外ではいいが、閉鎖的空間の学校でやってしまうと「なにもないところを凝視して怯えてる変なやつ」として認識され、友達ができなくなる。「あいつ、頭おかしいよな」とこれ見よがしに言われたこともある。でも、仕方ない。ぼくだって、自分がそんな体質じゃなくて、同じクラスに何もないところを見てびびってる同級生がいたらきっと同じことをした。執拗ないじめとかはなく、ぼくを放っておいてくれたことは不幸中の幸いだったと思う。

 家族には言えなかった。入学前の春休みに家族で行った北海道の宿泊先のホテルのフロントの絨毯をずるずる這いまわっていた首のない着物の女はみんな見えていないみたいだった。言ったとしても「疲れてるんじゃない」と言われただけだったと思う。

 こんなだから放課後の時間も昼休みの時間も、クラスメイトとつるんで遊んだことは全くない。校庭でドッジボールや鬼ごっこなんてしたいと思ったこともないけど。


 その年、小学校に入って初めての夏休みが始まって、八月に入ってからのことだ。

 八月一週目が終わるころには、観察日記以外の宿題は全部終わっていた。大変そうだと思った自由研究も、おじいちゃんにアドバイスをもらって、散ってしまった朝顔の花を使ってTシャツを染めたりして。

 良いのか悪いのか、することがほとんどなかった。相変わらず遊ぶ友達もおらず、家で勉強をするか、本を読むか、公園や図書館に行くかの繰り返しだけで夏休みの半分が終わろうとしていた。

 母方の祖父母の家に泊まりで遊びに行く予定はあったものの、一週間後の予定でそれまでは特にすることもない。

 だからその日もほぼ惰性のようなもので図書館に行った。

 そのころぼくは、子供向けの怖い話や幽霊の本を読みあさっていた。一年生だったから、読んでいた本にはまだ習っていなくて読めないものもあったけど、ちゃんと辞書で調べながら読んだ。おかげで、だいぶ国語の勉強にはなった。

 読み始めたのはもちろん、ぼく自身がそういうのが見えてしまうからだ。見えてしまうのは避けられないかもしれないが、すぐ近くにいるあいつらが何者なのかを知っておく必要はあるんじゃないかと思ったからだ。正体を知っていけば、おのずと対処法なり見えてくるかもしれない。

 早速、七月始めごろから週に一回は学校の図書館か地元の図書館のどちらかに通い、読み漁った。借りた本をリビングで読んでいたら、テーブルに置いておいた本のタイトルを見たお母さんに「変なのばっかり読んで」と呆れられたけど、ぼくだって読みたくて読んでいたわけじゃない。

 でも、収穫は確かにあった。学校の図書館の隅の本棚にあった本だった。

 ぼくが生まれる十年以上前に出版された本だったけど、当時の全国の小学生の体験した怖い話を集めた本があった。その中で、ぼくのように行く先々で幽霊や怖いものが見えてしまうという女の子の話がのっていた。

 その子の話の最初は、学校や家の近くで他の人には見えない怖いものが見えてしまい困っていたというものだった。一時期はどこにいても怖いものが何かしら見えてしまうから、外に行くのが嫌になっていたそうだ。だけど、ある日大発見をしたと女の子は書いていた。


『授業が始まってから、すぐ側の校庭(その時私は校庭側の窓際の席に座っていました)に立つ黒いもやもやした何かに気づき怖くなったのですが、一切無視したらすぐに消えてしまいました。そのときから私は、そこらにいる幽霊は放っておけば大丈夫、ということに気づきました。それ以来、何か怪しいものが見えてもその方に一切目を向けなくなりました。そのおかげか、今では私はもう何も見えません』


 全く同じことで悩んでいるぼくのために書かれたものなんじゃないかと思った。

 目からうろこだった。怖いなら見なければいい、存在を視界から消してしまえばいい。すごく簡単なことなのに、どうして今まで気づかなかったんだろう、と少し悲しくもなった。

 体験談を読んだ日から、ぼくもその女の子の真似をして怖いものが見えても気にしないようにした。見えなくなるわけではなかったけど、こっちが気にしていなければ向こうも何もしてこない。

 だから、その本を返しに地元の図書館に向かったその日も、横断歩道の歩行者ボタンの脇に立っていたぼくぐらいの男の子は一切無視した。その子の立っている場所には足が見えない代わりに、地面が見えていたから。

 借りた本を返し、ものの五分でまだ読んでいなかった本を何冊か選び、借りた帰りのことだ。

 行きは晴れだったのに、雨が降り出していた。傘はなかった。

 仕方なく走って帰って、マンションまでつく。エレベーターの中でカバンの中身を確認したけど、何も濡れていなかったのはよかったと思った。図書館で借りた本を濡らしたら、もう二度と本を貸してもらえなくなると思っていたから。

 だけど、エレベーターを三階で降り、自分の部屋の玄関のドアに手をかけると鍵がかかっていた。一瞬首をひねった後、思い出す。家を出る前、お母さんが「少ししたらちょっと離れたスーパーまで買い物に行くから、鍵を持っていってね」と言っていたことを。お父さんはいつも通り仕事だし、おじいちゃんもシルバー人材センターの仕事に行く日だった。それなのに、うっかりしたぼくは合鍵が入っているケースを持って家を出ることを忘れた。

 バッグの中にあったのは、図書カードが入ったパスケースと借りた本。大したものは入ってない。

 ちょっと離れたスーパーっていうのは、片道だけでもここから三十分ぐらい歩かないと行けない。買い物の時間と帰りの時間も考えると、お母さんが帰ってくるまで一時間前後はかかりそうだった。携帯電話もそのころは持っていなかったからどうしようもない。

 何を考えたのか、部屋の前の廊下で本を読みながら待つより、もう少し外をぶらつこうともう一回、エントランスまで降りていた。カバンを部屋のポストの中にいれて。

 雨はひどくはなっていなかった。傘もささずに外へ出た。

 無謀なことをしたのは呼ばれていたからだったのだろうか。少しばかり油断していたかもしれない。

 マンションを出て、学校とは反対の方、老人ホームなんかがある方へと行った。いつもは行ったことのない場所だ。

 赤い郵便ポスト。

 知らない名前の歯医者の広告がある電柱。

 電柱を過ぎると、黒い門の家があった。両隣の家は和風なのに、その家だけ西洋のお城みたいな見た目をしていて不思議な感じがした。もう少しぼくの感性が発達していたら「浮いてる」って言っていたと思う。

 庭があったけど、花は少なくて雑草が伸び放題だった。

 こんなところに、こんな家があるんだ。

 大きい家の角を曲がると、窓があった。

 白いカーテンが開いているのと、その中に白い服の女の子が立っているのが見えた。

 その子は、長い黒髪を垂らした背中をこちらに向けて立っていた。

 あの家に住んでいるんだろうけど、何をしているんだろう。雨で服がびしょびしょになることにも構うことなく、ぼくはその子をじっと見ていた。

 ぼくの視線に気づいたのか、女の子の背中が動いた。

 スローモーションのようにゆっくりと。

 綺麗な人だなと思った。ぱっちり開いた目。小さい唇。その下にぽつんとほくろがあった。

 その子とは数メートル離れていたのに、どうして顔にほくろがあるなんてどうしてわかったのか。すぐには気づけなかった。

 口を真一文字に閉じたその子も、ぼくのことをじっと見つめていた。

 しばらく見つめあっていた。手を振ってみたりすることはしなかった。

 空から轟音が響いた後に、左目の端でピカッと閃光が光ったのはそのときだ。近くで雷が鳴ったのだ。

 うわっと、声をあげて後ずさる。

 目を一瞬離した瞬間に、窓の向こうの女の子はいなくなっていた。雷が怖くて逃げてしまったのかもしれない。

 そう納得して、ずぶぬれのままマンションへと帰った。 

 一番最初に帰ってきたおじいちゃんが来るまで、ぼくはエントランスで震えながら待っているしかなかった。

 鍵を忘れたことを、帰ってきたお母さんにはこっぴどく怒られた。

 濡れて帰ったから、次の日には高熱を出して、しばらく夏風邪で苦しんだ。

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