34. 幕間 聖霊珠の異変
様々な種族が住まうブレンデス大陸。中でも隆盛を誇っているのがヒュムである。本来、人族という単語は二足歩行する生命体全般を示しているのだが、彼らは傲岸にも我らこそが真の人族であると称した。そして、ヒュム以外の人族は人より劣る亜人であると蔑んだのである。
無論、ヒュム以外の種族は反発した。だが、もとより数が違う。圧倒的大多数の使う言葉は、長年をかけて浸透していく。今や、ヒュムという種族名はほとんど使われることがない。人族という言葉が彼らを指すようになったからだ。
種族的な特徴としては特筆するところがない。体格も知恵も力も普通。特に秀でたところはないが、さほど苦手なこともない。良く言えば万能で、悪く言えば器用貧乏である。
そんな人族が、大陸中に
ユール教の伝承にはこうある。
遙か昔、人族は邪悪な亜人の襲撃に晒されていた。その命運は風前の灯火。人族を統べる王は滅びを前に祈った。果たして、祈りは天に届く。王の前に一柱の神が降臨したのだ。偉大なる神は、恭順を誓う王に聖なる力を授ける。その力を以て、王は人族を脅かす邪悪な亜人をことごとく退けた。こうして、大陸に平和が
ユール教徒たちは神の威光によって、平和が保たれていると疑わない。しかし、そんな想いもむなしく、彼らの平和を脅かしかねない出来事が起きていた。
「今、何と言ったかね?」
枢機卿ベスティンは思わず聞き返した。
夜が明けきらぬうちから叩き起こされたのだ。ただならぬ事態が生じたのだろうと予想はしていた。しかし、それすら上回る凶報に耳を疑ったのだ。
「で、ですから、
報告にきた男も動揺が激しい。ベスティンを相手に唾を飛ばす勢いで説明する。一介の司教が枢機卿にとる態度ではないが、両者ともにそれを気にする余裕はなかった。それほどに衝撃は大きい。
聖霊珠とは、かつて人族の王が神から授かりし秘宝だ。その権能は封印。その力を以て、悪しき種族の力を封じているのだ。
だが、それが突如、砕けた。それはすなわち、封じていた力が解き放たれたことを意味する。ユール教の齎す平和と秩序が揺らぎかねない事実だった。
すぐに対応を決めなければならない。だが、まず確認すべきは、どの聖霊珠が砕けたのか、だ。残念ながら、目の前の男は詳しいことを知らされていないらしい。であれば、やらなければならないことは一つだった。
「わかった。私はただちに聖殿に向かう。くれぐれもこのことは他言せぬようにな」
「は、はい!」
ベスティンは男を下がらせると、すぐに聖殿へと向かった。供すら連れていないのは、時間を惜しんだこともあるが、限られた者にしか立ち入りが許されていないからだ。
聖殿は大聖堂に地下にある。常ならば人で溢れる場所だが、夜明け前ならば当番の警備騎士くらいしかいない。
聖霊珠が砕けたのが夜間だったのは不幸中の幸いだった。でなければ、その事実は瞬く間に広がっていただろう。聖殿に入れずとも、そこで騒ぎがあればすぐに噂は広がる。
もちろん、このまま隠し通すことができるとはベスティンも思っていない。人の口に戸は立てられないのだ。口止めしようにも、この件は個人で抱えるにはあまりにも重すぎる。誰にも話すなという前置きのもと、じわじわと広がっていくだろう。
だが、それで問題はないのだ。ベスティンが懸念しているのは、対応が定まる前に一気に噂が広がること。そうなれば、パニックに陥った信徒たちが暴動を起こしかねない。
聖殿に至る階段を守る騎士たちも日頃の冷静さを失い落ち着かない様子だった。物問いたげに寄越す視線には気付かぬふりで、ベスティンは一人階段を降りる。
「ベスティン様!」
聖殿の前では数人の司教たちが悲嘆に暮れていた。ベスティンに気がつくと、縋るように集まってくる。それを無視して、彼は最奥の台座へと進んだ。
眩いばかりの輝きは、聖霊珠の放つ聖光である。だが、その輝きには僅かばかりの陰りがあった。報告通り、聖霊珠の一つが欠けてしまっている。
「ベスティン卿」
声を掛けられて視線をやると、聖殿に男が入ってきたところだった。年齢はすでに初老に差し掛かっている。だが、騎士上がりのせいか、その肉体に衰えはない。これが同年代とはとても信じられないと、ベスティンは常々思っていた。
「マーデン卿か」
「ああ、まだ我々だけ――くっ、何と言うことだ! これでは封印は……」
砕けた聖霊珠を見たマーデンが大声で叫ぶ。報告は受けていたはずだが、目の当たりにすればやはり衝撃は大きいということだろう。ベスティンにもその気持ちは十分に理解できた。長きにわたる平和が崩れたのだ。砕けた聖霊珠は、騒乱の訪れを予感させるには十分だった。
「怠惰の封はゴブリンどもだったか」
顎に手をやり、マーデンが呟く。独り言だったのかもしれないが、ベスティンは「そうですな」と相槌をうった。
聖霊珠は、その一つ一つに異なる封印の力を宿している。砕けた聖霊珠が司っているのは怠惰による封印だった。その対象となっている亜人はゴブリンである。
「ちっ、よりにもよって……」
マーデンが忌々しげに吐き捨てた。普段のベスティンならば、枢機卿という立場の人間が取るべき態度ではないと眉をひそめていたところだ。だが、今日ばかりは彼も咎めなかった。それどころか、人目を意識して自制しなければ彼自身が同じようなことをしていただろう。
今となっては見る影もないが、かつて聖王が人族を平和へと導いた折、最大の障害となったのがゴブリンだという。人族と比べると小柄で単体での脅威度は低い。だが、繁殖力が強く、何より成長が早いのだ。集団として考えたとき、もっとも厄介な種族がゴブリンであった。
とはいえ、だ。一つの封印が解けただけならば、さほどの脅威ではないとベスティンは考えていた。無論、放置はできないが。
「封印が解けたばかりの今ならば対処は難しくないはず。芽を摘んでしまえば、それ以上育つことはありますまい」
「そうだな」
ゴブリンを根絶やしにすれば脅威は未然に防げる。ベスティンが暗に告げると、マーデンも事もなげに頷いた。亜人……いや邪人の存続など、人族の平和の前には何ほどのものでもないのだ。少なくとも彼らはそう信じている。
「聖霊騎士団を動かそう」
「まだ、決議前ですが」
即断するマーデンを、ベスティンが窘める。
聖霊騎士団はユール教の最高戦力。教会の敵を討ち滅ぼす最強の剣だ。それだけに動かすには十人いる枢機卿の過半の承認がいる。
だが、その指摘をマーデンは一蹴した。
「準備をさせておくだけだ。どうせ動き出すには時間がかかる」
「……ですが」
「ゴブリンどもは数が多い。しかも、散らばっている。可能な限り早く動いた方が良い」
マーデンはかつて、聖霊騎士団で部隊長をしていたほどの男だ。戦略眼にも優れている。どうやら自分が思うほど楽観できる状況ではないらしいと、ベスティンは遅ればせながら気がついた。
「そうですか。わかりました」
「では指示を出してくる。他の者らが揃ったら、始めておいてくれ」
そう言うと、マーデンはさっさと聖殿を出ていった。自分がおらずとも、聖霊騎士団の出征が否決されるとは考えていないらしい。
もっとも、それはベスティンも同じだ。枢機卿はときに利益配分で反目することはあるが、教会の平和を守ることに関して足並みが乱れることはない。今回の危機も一丸となって乗り越えることができるだろう。
まるでこの世の終わりかのように嘆いていた司教らも、聖霊騎士団の出征を知って多少は落ち着いたようだ。困難ではあるが、長年の平和を築いた教会に乗り越えられない試練ではない。そんな前向きな雰囲気が広がっている。
だが、これは試練ではない。教会による支配の崩壊の兆しであった。
とはいえ、彼らがそれに気付くのはまだ先の話。終焉はじわりじわりと忍び寄ってくる。遠く西方の地から。
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ここでひと区切りです!
お付き合いいただき、ありがとうございます。
m(_ _)m
★評価やレビューを頂ければありがたいです。
是非よろしくおねがいします!
さて、近況ノートにも書きましたが
本作は区切りまで書いてから更新するという
方針で続けていきます。
ストックがないので再開は……未定!
これまでのペースを考えると、
おそらく二か月後くらいになります。
年内には再開したいところですね。
気長にお待ちください。
ではでは!
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