⨕16:遺憾ェ…(あるいは、さんざめくトリステッツァ/オンデon de マインド)

 院内の独特の静謐さと、それをかき混ぜるような不意の足音とか物音とか遠くでうわんと響く喋り声とか。


 意識を向けることが出来るのが今や聴覚くらいだからなのか、いやに鮮明に脳に知覚を促して来やがる。硬い枕に少し起こされた視界には、夕日の橙な光の中でその色に染まりながらも、なお柔らかな白っぽい光を放つ艶やかな長い髪が流れるように広がっている。互いの服を境界としながらも、触れている点と面から、互いを互いが浸食していくかのような、質の違う熱を交換しているかのような、一瞬一瞬ごとに肌に感じる温度がゆるゆると変化して溶かされていくんじゃねえかと錯覚せんばかりの触感。そしてその心地よい重みを呈する細い身体の、今は黒く見える深緑スーツの襟元あたりから立ち昇っている黄色い花のような濃密な香り、は、枕元に生けられた同色の小花から降り落ちて来ているものと中空でカクテルされて、俺の鼻腔から直接脳に吸収されて麻痺させてきてんじゃねえかくらいの酩酊感を与えてくる。


 これは夢なんだろう。そういや近頃仕事キツかった日や二日酔い明けとかによく見るようになった、てめえに都合の良すぎるだろうな淫夢的な何かに、展開だの何だのが似ている気がする。疲れ過ぎた脳が自己再生を促すかのような脳細胞の自慰、のような。ゆえに心地よい。だからこいつも多分、そうだ。と、


「……私の、父は、リ大の考古学研究室で地質のことをやっていて、発掘調査も行っていました」


 ふわり、と俺の胸元の肌とか縮れ毛やらを震わせつつ、そして熱のある呼気を伴って、そのような呟くような声が聞こえてくる。うぅん、何だろう今までとは違ったタイプの夢だぁ……


「『サルパー地区』北の『ラミ湖』、御存知でしょうか? 十六年前の夏、そこの調査に赴いた父は数週間の調査のあと、ふつりと姿を消したんです……行方不明、とひとことで言ってしまえばそれまでなんです……けど……」


 肌を触れ合わせているからってわけでもねえだろうが、声が身体の外側からも内側からも響いてくるようだった。そしてつらつらとした初出の情報群の、え、何だそれそんな取って付けたみてえなのはと思わされつつも、何の飾りも力みも無いそれら言葉に、それゆえに真実とか本音とかが込められてんじゃねえか的な、「核」みたいなもんが孕まれてるってことが、何故か感じ取れた気がした。そして、


「あのバケモンらが絡んでるっつー、何かがあるって……ことか?」


 まどろみに引き込まれてしまいそうな匂いだ……ままならない頭とは切り離されてんのかと思わんばかりに、俺の声帯が勝手に震えて出たような、調子いい合いの手のような言葉が、回りまわって鼓膜からさらにの酩酊感を呈してくるようにも思えて。


「根拠は全然無いです。『ラミ湖』周辺の湖岸部からは良質の『エウ鉱』が産出されますが……ふふっ、それだけなんですよね……『だから?』ってレベルの。だから私の今やってることは完全な自己満足。それは分かっているんです。分かってはいるけど、それにすがってないと何も能動的にできないっていうか……」


 この姐ちゃんの、ここまで無防備な言葉を初めて聞いた。ひょっとしたら最近とみにバグりが過ぎる俺の脳が勝手に紡ぎ出している言葉なのかも知れねえが。いや、しかし。


 「ラミ湖」……「エウ鉱」……


 ラミ湖って言やあ、ここスロクスリヤの真北にある結構な大きさのカルデラ湖。エウ鉱……「エウロパ鉱」って言やあ、ここスロクスリヤから産出される鉱石、だ。


 共通項はあるってわけか。ここと、そこの。


 とは言え、彼我距離は多分50kmケルメトラァも無いだろう。おそらく同じ活断層の上らへんに乗っている。であれば同じ鉱床がそれ沿いに広がっているっていうのは地質的には珍しいことじゃあねえ(と思う)。


 ただ、ここいら一帯は様々な鉱石が掘り出される「鉱石銀座」と称していいくらいの地域だ。ふたつの巨大な山岳を巡るようにして七種類もの「稀少鉱石レアストゥラ」が採れる鉱床があるとこなんてこの島くらいしかねえが、それぞれはかっちり区分けされているかのように、ひとつところでは一種の鉱石しか出ない。「エウ鉱」が産出するのは、このスロクスリヤの限られた一帯のみ、だったはずだ。


――『チュンベリー』『スロクスリヤ』、あとまだ公式な発表はされていませんけれど、『ロジェニミーパ』――


 最初に会った時にこの姐ちゃんが俺にカマをかけるように提示してきた鉱床とかの名前がふいに脳内に浮かんできた。擦り切れてたと思ってた脳細胞が何故か活性化されてきているぜこれもまた「夢」ゆえのことなのか……?


 確かにその時、「事故」があった場所って言った。人的な犠牲が出ているとも。だが。


 俺が二週間ほど前に「派遣」されてきた時、スロクスリヤここは平穏そのものだったよな……確かにそのあとあの昆虫野郎と鳥ガラ野郎が出張ってきたものの、それは前もって察知出来ていたものだったわけで。だから退院直後の俺の「配属」が間に合った。機体の配備は間に合ってなかったが、そこは急場しのぎの半壊の奴で何とかなると踏まれていた? とんだ買い被りもあったもんだ。それにほいと乗っかっちまってた俺も俺だが。が。


 何で「襲撃」が分かってたんだ? 他のところはあっさり襲われていたにも関わらず。いや、全部が全部、分かっていたと考える方が普通じゃねえか? 思えば俺のとこの鉱場に来たこと自体、おかしいよな。きっちり証拠隠滅はしてたはずなのに(たぶん)。「ここだけが無事」とかも言ってたよなぁぁ……「ここ以外の採掘場四か所のうち三か所」が被害に遭ってんにも関わらず、モトスミうちだけが無事だから、とか流すように言ってたが、「採掘場」はこの島には「七つ」あんだよなぁ……他を置いといてモトスミ「だけ」って言い方するか? つまりは……


 最奥に伏せられているコトがあるってことか。そしてそれは特務なんとかっていう組織をも……


 超えている、のでは。その可能性は高い。つまりは、この、俺の上に乗っかったまま先ほどから俺の胸元に熱い吐息を漏らしているこの姐ちゃんが、


 全部を全部、全面を全面、偽りたばかっている、


 ……そうなのだろうか。


 にしては、動機やら理由が分からなかった。いや本当に親父さんの仇敵カタキ?ってことか? それであれば単純なんだが……


 単純でもねえか。はっきりとは分からねえが、原因だとか因果?だとか、やり方だとか。きちり納得できるものが何ひとつねえと言うか。まあそれは今となっちゃあどうでもいいことか。そして分からないなら分からないなりにやりようってのはいくらでもある。ここまで押し込まれといて言えることでも無いかもだが。


「……」


 自分でも知らず知らずのうちに、繋いでいなかった方の左手を持ち上げて、胸の上に広がる艶やかな髪を梳くように撫でていた。重質に思えるほどに動かしづらかったそれが、今は滑らかに動く。そのまま肩甲骨の硬さが直に伝わってくるような華奢な背中へも掌を滑らせて、何を背負ってるのかも皆目わからねえが、ただただ頼りなくそこにあるだけにも思えるその感触を感じていた。に、留めていたその手を、


「……!!」


 さらに伸ばして、腰へ、そして締まってはいるが柔らかさも同程度有するその尻肉の、その弾力を確かめるようにして手指をまるごと使って緩やかに、揉みほぐしていく。一瞬、身体を強張らせた御仁だったが、それでも意識して身体の力を抜くようにして、よりしなだれかかって来やがった。ほぉぉぉ、そこまで自分を殺せるんか……


 ガラにも無く嗜虐的な気分になっていた。何なんだろうな。ただコイツに利用されてただけのことだろうが。それは今までの人生でも、周りの人間からそうされて来てた、粗方そうだっただろう事柄じゃあねえか。


 何でこんなにもイラつくんだよ。これが更年期ってやつかよ。


 ここ何週間ばかりの、ふとした言葉や仕草や表情やらが走馬灯のようにてめえのままならない脳を巡り巡る。きっと俺は嬉しかった。そういうことだ。バカみたいに、ガキの頃のように、ヒトと心を通い合わせたかった。通い合っていると、勝手に錯覚していた。浮かれ舞い上がっちまってたところに、この身体の限界不調と、そしてこの、とどめとも言える姐ちゃんの言葉と態度。いわばこの諸々が「夢」だったと。俺がそう思えば俺にとっての全ては解決する。


 甘く見んなよ。人の想いとかを無下に邪険にてめえ勝手に踏みにじるなんてこたぁ、この更年サマの専売特許よ。こちとらにとっちゃあ、いとも容易く行える類いのモンだからよぉ……


「や、あっ……」


 「耳が弱い」とか言ってたよな。多分にそれを意識しながら、そのぷくりとした左の耳にゆっくりと息を吹き込んでいく。よじらされる細い身体を左腕を使って抑え込みながら。だがこいつはほんの挨拶代わりだぜ……


「ハッ、ずいぶん従順だなぁオイ……今の話から察すると、俺をその、喪った父親代わりに見てた、ってわけか? 似てるとはとても思えねぇがなぁ、考古学のセンセイみたいな知性とか、カケラも無えとは自認してるぜ? ってことぁナニか? 手頃なおっさんだったら誰でも良かったってか?」


 思ってたよりずっと、また別角度からのクソのような発言をひり出すことが出来た。おっさん歴何年かのキャリアは伊達じゃあねえぜぇぇぇ……


 ち、違っ……という焦ったような声も演技だろ。それとも図星を突かれて本当に揺さぶられちまったか?


「私はっ、貴方の力を本当に借りたく……んんッ……!!」


 そんな台詞じみた言葉はもういいんだよ。化けの皮を剥がしてやる。俺は動かす度にビシギシ痛重い首を何とか起こすと、目の前で震える上気した耳たぶを何とか捕まえくわえながら、殊更にねちっこく、その耳の穴あたりに舌をねぶり這わせる。途端に弾かれたように背を反らせるその肢体を抑え込んだまま、浮いた身体と身体の隙間に、先ほどまで柔らかく組み合わされていた右手をほどいて差し入れ込んでいく。脂肪なんてほぼ無いんじゃねえかと思わされる、引き締まった腹まわりを経由して、その下、体温よりも熱くなっていそうな、その最奥まで。スーツの奥で、くちと鳴った音に、ちくと胸の奥を刺されるように感じながらも。


「ハハッ、ここはそうだって言ってるようだぜ? さんざんワケわかんねえこと言われ続けてたからこっちもワケわかんなくなって流されちまってたけどよぉ、もう限界だぁ、俺ぁてめえの体のいい代替品じゃねえッ!! 操縦席の中で俺に言いように可愛がられたのがそんなにお気に召したか? あんなのはただの不可抗力だっつうの。それに何らかを感じたか知らねーが、父親への歪んだ性愛の捌け口にされんのなんかは、ぞっとしねぇんだよッ!! 分かったらとっとと俺を解放しろッ!! いただいた過分な御給金はきっちり返上差し上げるからよぉ、俺を前の肩書と職場に戻せッ、でなけりゃ、ちょいと無謀な自立早期退職FIREをカマしてやるだけだぜ、どのみちもうオマエらとは一切、関わり合いにならねえってことだけは頭にキメてんだ、それともこのまま俺に抱かれていっときでも満たされてみるか? 今なら一本二万¥TBだ、プラスこれからも定期的に出張お父さんしてやってもいいんだぜ? どうすんだオラァッ!!」


 毒にまみれた言葉を吐く度に、自分の肚底に汚泥のような何かが溜まっていくようだった。だが、矢継ぎ早に繰り出す。俺の上でどうしたらいいかまだ本気で逡巡している強張った顔がある限り。ばかやろう、本気で怒ろうとしてんじゃねえよ、本気で悔し涙を滲ませてんじゃあねえよ。ぐるぐると、真っ赤になった顔を歪めては何かを言おうとして思いとどまって。


 そうじゃねえだろ。


 がなり立て続けた、俺の想いがようやっと伝わったようだ。蠢いていた表情筋を深い呼吸と共に徐々に収めていくと、能面のような、表情の死んだ顔つきに改まる。正解だ。そして上半身を起こすと右腕を振りかぶる。そいつも正解。よーしよーし、だいぶ寄り道しちまったが落ち着くとこに落ち着いてくれたようだぜぇ……


 刹那、だった……


 てっきり平手かと思ったが、諸々の何かが込められたその右手の一撃は、思てたんと違いやけに直線的な軌道を描くと、左頬に力を入れて待ち構えていた俺の盲点を貫くかのように、鮮やかな掌底となって無防備だった左顎付近を撃ち抜いていたのだった……あら~ん、そこは伝わらなかったのぉぉん……


 のけぞり飛びそうになっていた意識の俺を置いて、姐ちゃんは毅然とした態度でベッドから滑り降りると、姿勢を正し、こうまで無表情は見たことも無いくらいの風情の凪いだ顔面のまま、俺を見下ろし温度の無い言葉をほぼ口も動かさずに放ってくるのだが。


「……承知いたしました。では今日付けで現任を解いてモトスミへとお戻りいただきます。これまでの賃金は正当報酬ですのでお構いなく。またこれ以降は現職場で見知ったことを他言せぬよう一筆書いてはいただきますが、手続きはそれくらいで済みますので。荷物はこちらでおまとめしておきます。退院したらクルマを手配しますのでそちらもお申し付けください。では今までありがとうございました。ツハイダーさんの今後の更なるご活躍をお祈り申し上げます」


 慇懃な一礼から上がってきた顔は、これもこうまで無いほどの愛想笑いのような気色悪い微笑を貼り付かせたものだった。よ、よーしよーし、それでOKだ。踵を返して何事も無かったかのようにさっさと病室を辞していくその後ろ姿を見送るでも無く、俺はようやくこの全てのことにケリがついた感の、せいせいとした気分で溜めていた息を存分に吐き出していく。やりゃあ出来るじゃねえか、最高の結果となって万々歳じゃあねえか。俺は最高だ。こいつは最高の気分だ。


 ……最高に、クソな気分だ。


――昂燃メモその20:……………………――

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