第十章 物語
街に出よう、と言い出したのは誰からだったか。
そういうわけで、ヴェンとフェイラはガルストア帝国領マセーラの中心街へと繰り出したのだった。目付け役として、女騎士スイゲツの従騎士であるフィウス・トーハも同行する。
「よし、とりあえずは旧市街だな。マセーラったら、やっぱ古式建築だろ」
「ま、待ってください、サー……」
「何かな、フィウスくん?」
「あ……失礼しました、ヴェンさん。僕は、デイム・スイゲツにあなた方から目を離さないようにと言い付けられています」
「そうだな。今あいつは、サー・ロウェルと一緒に
「はい。ですから、僕がヴェンさん達と一緒に行動するようにと」
「うんうん。それで?」
「いえ……だから、そう気儘に動かれると困ると言いますか……」
「なるほど。よし、旧市街はあっちだ。マセーラの建物は石造りで有名なんだぞ、フェイラ」
「はあ……」
「待ってください! ああもう、絶対あとで怒られる……!」
悲鳴じみた声をあげながら、ヴェンとフェイラの後を追う従騎士の少年フィウス。
騎士見習いの苦難は、まだまだ始まったばかりであった。
旧マセーラ王国の中心部ゼルトの街並は、大きくふたつに区分される。
ひとつは、マセーラ本来の伝統性に則った旧市街地区。石を材質とした建造物群はマセーラが古より誇ってきた文化の一端であり、低く落ち着いた眺望を特徴とする。
もうひとつは、ガルストア帝国による占領後に新たに設けられた新市街地区。ヴェン達が世話を受けている役場もあるこちらは、材料にも木や金属を用いて、建物の階数も格段に多く効率的な建築様式が採用されている。その反面、旧市街に比べて情緒に欠け、観光地としての評判はあまり良くない。
散策する場所として選ぶのなら、絶対に前者だった。
意気揚々と、鼻唄まじりにヴェンは街の景観を眺め歩く。帝国による支配が始まる前は何度か訪れる機会があったが、最近はご無沙汰だった。久しく拝んでいなかった石造りの街を、懐かしむように見て回る。
同伴するフェイラとフィウスにとっては、まったく初めての経験だった。足取り軽く進む青年に振り回されるようにしながら、それでも興味が尽きない様子である。
「あー、やっぱり良いね、ゼルトのこの感じ。古臭くてジメジメしてて、陰気っぽい」
「……褒めてませんよね、それ?」
青年の酷い感想に、騎士見習いの少年が恐る恐る言う。
「なに言ってんの。古いもんがなくちゃ、新しいもんの魅力が分からないだろ? 逆に、斬新さが時代後れの良さを際立たせることもある」
「な、なるほど……」
「まあ、今のは爺さんの受け売りなんだけどな」
「お祖父さんというと……ヴェンさんの?」
「いんや? アトラフィス王国民なら誰もが知る、ディルクルム・ロン・バラクトスだよ」
言葉の意味が一瞬だけ解らず、騎士見習いの少年は目を瞬かせた。
だが、彼もまたアトラフィスの国民である。ヴェンが口にした名が誰を示すかを即座に悟り、その恐れ多さに愕然とした。
「陛下のことですか!? 待ってください! そんな軽々しく御言葉を借りてしまっていいものなんですか!? あと、仮にも自分が仕えていた方を爺さん呼ばわりって!」
既に青年の正体を知らされていたフィウスは、ヴェンの発言に完全に翻弄されている。事情を把握していないフェイラにとっては、意味不明な会話に過ぎなかったが。
ともかく、三人のゼルト巡りは続いた。騎士見習いの少年が経験した諸々の苦労についてこの際は省くとして、ひとつだけ奇妙なやり取りが散策の中で何度も繰り返されていた。
たとえば、旧市街の目玉のひとつである中央広場での出来事。
「なあフェイラ、知ってるか? ゼルトの街並は、マセーラが五〇〇年以上前から誇る伝統文化なんだぞ」
「はあ、そうですか」
「おい見ろ、フェイラ。デカい噴水だぞ。初めてだろ、あんなの」
「そうですね。面白いです」
「……面白いなら笑っていいんだぞ?」
「あなたの前で燥ぎたくありません。あと、できれば話しかけないでください」
露店が並ぶ市場を歩いた時には、
「これ食ってみろ、フェイラ。ゼルトでしか食べられない石板焼き肉だってさ」
そう言って、熱々の汁が迸る分厚い肉塊を差し出してみるものの、
「要りません」
「あ、そっか。お前、あんまり肉とか食べない方だったもんな。悪い、じゃあこっちの──」
「要りません。話しかけないでください」
「…………はい、すいません」
こんな有様であった。
フェイラの気をどうにかして惹こうと躍起になるヴェン。余計に干渉しなければ少女の方も意固地な態度をとることはしないだろうに、それを軟化させようとして泥沼に嵌る一方だった。
詳しい事情までは聞かされていないが、青年の正体がフェイラには秘密にされていることは知っているフィウスは、怪訝そうに先輩騎士でもある男に尋ねる。
「あの……ヴェンさん」
「……なんだフィウス、女の子ひとりに相手にされない俺を笑いに来たのか」
「やめてください、僕に八つ当たりするのは勘弁してください」
思わぬ飛び火に焦りつつ、騎士見習いの少年は気を取り直して質問をする。
「どうして、フェイラさんにはご自分の素性を隠されているんですか?」
「うん? そりゃあ……知らなくていいっていうか、知っちまったら絶対にガッカリする事実をわざわざ教える必要はないだろ?」
「ヴェンさんがサー・ヴェントスだと知ったら、フェイラさんはガッカリしてしまうんですか?」
「まあ、それも俺が原因だけどな。いつかは教えなきゃとは思ってるけど、これだけは……格好悪いだろ、今の俺?」
「いえ、そんな……」
「構わねえ。実際そうだろうから。……あー、何とか機嫌を直してくれねぇかなー、あいつ」
ふたりから少し距離を置いて石造りの古い街並を興味深そうに眺めているフェイラを、ヴェンはどうしたものかと見守っている。
「やっぱアレかな。トルテアに寄った時に気に入ってたっぽい、蜂蜜菓子で攻めてみるか」
「え、でもマセーラにそういうお菓子はあまりないと聞いていますよ?」
そもそも蜂蜜という材料が稀少であり、一般にはまず流通していないらしい。帝国による占領後は僅かに外部から輸入されるようになったそうだが、それでも支配階級でもない限りは簡単に手に入る代物ではないのが現実だ。
「ああ、だから材料を集めて自分で作る。料理の腕には少し自信があるからな。王都にいた時も、小腹が減った時は厨房から食材を調達して自分で食ってたし」
「……ああ」
今の料理長が見習いだった時に、同世代の騎士見習いといつも材料の攻防を巡って取っ組み合いの喧嘩をしていたという話を聞いたことがあったが、そういう真相だったのか。
納得しつつ、少年はヴェンの作戦について考えてみた。
「…………でも、それって何だか気持ち悪くありませんか?」
「気持ち悪いッ!? 今時の子どもからしたら、料理ができる男とか気持ち悪いのかッ!?」
思いがけない感想に、ヴェンは驚愕して後輩の騎士見習いに問いかける。
その大袈裟なまでの反応にフィウスもまた面食らいつつ、慌てて言い繕った。
「あ、いえ、今時がどうという問題ではなくて。嫌ってる相手からいきなり手作りのお菓子をプレゼントされても、女性はドン引きだと思ったんですが」
「…………なるほどね。貴重な意見をありがとよ」
若干ふて腐れた様子で、それでも地雷を踏まずに済んだことをフィウスに感謝しつつ、ヴェンはフェイラに視線を戻した。
そして緑色のフードに隠されたままの少女の姿が、とある店の前で止まっているのに気付く。
「……骨董店か。面白そうだな」
相手の態度をどう軟化させるかの問題は先送りにするとして、目先の興味に単純に気が惹かれた。少女の許まで歩き始める青年の後を、騎士見習いの少年も慌てて追う。
「どうした、欲しいものでも見付かったのか?」
「…………」
青年の声には応えず、フェイラは微かにカビの匂いがする店内に入っていく。清潔好きな少女にしては、珍しい行動だった。
「いらっしゃい」
「ぅ……」
老齢の店主からの挨拶に少し怯えつつ、大小様々な骨董品が陳列された店の中を歩いて回る。古いものがほとんどだったが、魔導師の弟子である彼女と関係があるような、魔術に纏わる品はひとつもない。
だから、その巡り合わせは本当に気紛れが生んだ偶然だったのだ。
「え──」
少女の視線が、店の奥の棚にあった一冊の書物に釘付けになった。隅の方に見付からないようにして置かれ、背表紙も磨り減って辛うじてタイトルが読めるだけの本を、信じられない様子で眺めている。
「あれ、ルネード物語じゃん。よく売ってあるな、こんな発禁になった本」
いつの間にかフェイラの背後に立っていたヴェンが、覗き込むように書物の題名を口にする。
「発禁って……発売禁止になったってことですか?」
同じく少女の後ろまで近付いたフィウスが、青年に尋ねた。
「おう。帝国に占領された時に、マセーラ固有の古い文化は半分ぐらいが処分されたからな。おーい、爺さん。良いのか、こんなとこに置いといて」
「……知らんなー。最近ボケてきて、どこに何があるかもボケボケじゃあ」
「確信犯かよ。食えない店主だな、おい」
呆れつつ、青年は再び本の背表紙を検める。
「しかも二篇目だ、これ。最初の一冊を読んだ後に発禁になって、続きが気になってたんだよ」
言いつつ、棚から古い物語を手に取るヴェン。
「あ──」
「うん? どうした、フェイラ? お前も知ってるのか、この本」
「あ、いえ、えっと……」
要領を得ない様子で、それでも青年が持った本に魅せられたように見詰めるフェイラ。
ヴェンの直感がここで絶妙に働いた。なぜフェイラ・ミュステリウムが騎士に対して熱烈なまでの憧れを抱いているのか。閉ざされた魔導師の森の中では、物語に出て来るような騎乗の戦士とは縁がないはずだというのに。
「もしかして、お前……読んだことあるんだな、この本?」
「…………はい」
青年の質問に、フェイラは素直に頷く。
「でも、どこでだ? 発禁になってるんだし、普通は読めないはずだけどな。お前だって今まで名前も聞いたことなかったぐらいだろ、フィウス?」
「え……あー、そうですね。面白いんですか、そんな古そうな本?」
「「古そうな本なんかじゃない!」」
二重になった抗議の声が、骨董店の中に響いた。軒先で葉巻を吹かしていた店主が、驚いた風に三人を振り返る。
声の主のひとりは、言うまでもなくヴェントス・パウ。まだ少年というべき頃にこの物語を楽しんだ思い出のある青年は、騎士見習いの失礼な発言に即座に腹を立てていた。
そしてもうひとりは、意外ではあったがフェイラ・ミュステリウムその人だった。
「えっと……ごめんなさい」
「あ……こちらこそ」
素直に謝罪するフィウスの姿に、フェイラは即座に我に返った。思わず大声を出してしまったことに恥じ入るように、少女は俯いてフードを目深に被る。
もはや疑いようもなかった。彼女はこの物語を知っている。単なる知識としてではなく、一読者としての経験によってだ。
「ああ、解る解る。本当に面白いもんな、この話。読めたのは一篇目までだったけど、それでも夜通しで楽しんだぐらいだったし」
「……あなたも、ですか?」
「ああ、昔にな。お前は?」
「わたしは……庵に置いてあったものを。
「へえ、なんでだろ。現実主義者のあいつが架空の話に興味を持つわけないしな……って」
ヤバい。とある記憶が脳内にフラッシュバックして、ヴェンは咄嗟にそう思った。
彼が憶えていた事実は、ふたつだった。ひとつは、自分が読み終えたルネード物語の一篇目を最後はどこに残したのかという記憶。ベルマ・ミュステリウムの工房にヴェンが置き土産としたのは、
そして、もうひとつの事実にして最も重要なのが、ルネード物語というのが騎士見習いの少年が成長する過程を描いた、壮大な騎士道物語ということだ。
剣と魔法の世界。潔白なまでの騎士道精神。古い時代の騎士たちの生き様を綴った、マセーラが誇る一大叙事詩の一篇なのである。
ヤバい、とヴェンは再び思った。目の前の少女が騎士に対して抱いている、過剰なまでの理想絵図。何もかも自分が原因だった。
「おい兄さん。買うの、買わないの。どっちなんだい?」
「……うん?」
唯一の客であったヴェン達の奇妙な雰囲気に、痺れを切らしたように老齢の店主が話しかけてきた。衝撃の真実から未だ立ち直れずにいた青年は、辛うじて反応する。
「だから、どうするんだい? この嬢ちゃんは、凄く物欲しそうな感じだがね」
「あー……」
見れば、フェイラはずっとヴェンが手に持ったままの本に熱い視線を送っていた。
気持ちはすぐに理解できた。夢中になった物語の続きが、思いもよらず読めるかもしれないのだ。同じ感情を少なからず抱いたひとりとして、ヴェンには彼女の心情が伝わった。
だから、次の瞬間に口にした言葉にも、躊躇いはなかった。
「……買ってやるよ」
「え……」
不意の提案に、フェイラはやっと目線を彼に向けた。フードの奥から、琥珀色の瞳が信じられないとばかりに相手を見ている。
「買ってやる。俺も続きは気になってたし。お前が読んだ後で良いから、俺にも貸してくれ」
「え、でも……」
「いいんだよ。お前みたいな子どもが、変に遠慮なんかすんな」
相手の気を惹きたいだとか、そんな下心とはまったく関係のない気紛れだった。ただ、目の前の少女の心が少しでも満たされるのなら、それだけで構わないという単純な動機だ。
古書を手に取り、会計を済ませるヴェン。表紙までもが磨耗しつつあるその古い物語を、そっとフェイラに差し出す。
「ああ、でもネタバレだけは勘弁してくれよ? 主人公のルネードがどうなるのか、気になって仕方がなかったんだ」
「……はい」
古い、今はもう失われつつある一冊の物語を、フェイラは大事そうに両手で胸に抱えた。
「っと、そうだ。爺さん、ついでにこれももらえるか?」
「おう、良いとも良いとも。特別に安くしとくよ」
自分の商品を大事に扱ってくれそうな客の要望に、老齢の店主は気前よく応えた。
「サンキュー。ほら、これもお前にやるよ」
「え?」
物語の世界に少女が想いを巡らせている間に、いつの間にか別の品を買っていたヴェンがそれをフェイラに手渡す。
細い鎖が編み込まれた、金属製の腕輪だ。白銀色の下地に、アンバーの装飾が施されていた。
「……要りません」
本と違って、もらう理由がなかった。遠慮の気持ちも含んで、少女は青年に言う。
「いいから。お守りだ。付けてれば、いざって時にお前を助けてくれる」
「……はあ」
半ば強引にフェイラの右手首に腕輪を付けさせるヴェンを、彼女は怪訝に思う。
他に軽い材質のものが店の中にはいくらでもあるのに、何故わざわざこんな重たいものを選ぶのだろうか。この青年の感覚は、本当に理解しにくい。
それでも、と頭の片隅で彼女は思う。
生まれて初めて夢中になった物語の続きに触れる機会を、この
少しぐらい態度を改めてあげてもいいかもしれない、と温かな気持ちで少女は思うのだった。
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