第五章 旅立ち
朝食を摂った後、ベルマは珍しく自ら森へと出向いていた。
普段は自分でする研究の一部を弟子に任せ、昨晩に戦闘が行われた森の一角へと歩く。すぐ側には、護衛のように付き従うヴェンの姿もある。
場所は案内するまでもない。焼き焦げた木々の異臭が、現場の位置を彼らに教えてくれる。
「ここか。派手に荒らしてくれたものだ」
森の惨状に対し、フードの下で眉ひとつ動かさぬままベルマは周囲一帯を検分する。
クレーター染みた窪みが出来上がっており、近辺にあった木々は薙ぎ払われ一種の空白地点という有様だった。爆風に煽られた木が黒く立ち尽くす光景などは、戦場を思わせる凄惨さだ。
「もう少し何とかできなかったのか。この場所には役に立つ薬草が生えていたんだぞ」
「無茶言うなって。あの娘と自分をどうにかするだけで必死だったっつーの」
「せめて頭上に打ち上げてくれていたなら……いや、流石にそれは目立ち過ぎか」
ぼやきつつ、ベルマは躊躇なくクレーターの中へと踏み入った。黒一色に染め上げられた地面を歩きながら中心部分を見渡す。
「それらしい残骸は見当たらんな。ふん、塵一片も残さず証拠隠滅か。周到なことだ」
つまらなそうに言って懐から葉巻を取り出し、火を点ける。普段吸っているものとは異なる色と香りの煙が、周辺に漂った。
変化は劇的だった。一帯に残留した僅かな魔力の痕跡に反応し、煙となった試薬の成分が流転する。一部が変色し、霧散することもなくそのままの位置で固定される。
それだけで、魔導師ベルマ・ミュステリウムには充分だった。
「ラブラ魔術か。
とある王国に由来する古式の魔術系統だった。生命の神秘、運命の解読を主題とする魔導技術。誕生数や姓名数といった万物に与えられる〝数〟から世界の法則を解き明かそうとする、数秘術と呼ばれる魔術の発祥でもある。
さらに確証を得るべく、女魔導師は背後に立つヴェンに尋ねる。
「その
「ああ。最初の動きこそ獣みたいだったけど、途中からはほとんど本物の人間だったよ。武器も使うし、腕前も並の騎士より上だったな」
「人間サイズでその性能か。余程の術式を組み込まなければ不可能のはずだが……執着の産物と呼ぶべき代物だな、これは」
自動人形である
そんな条件下でありながら、戦闘兵器として一流の
「つまり、どういうことだ?」
だが一連の作業と結果は、予備知識はあっても魔術に明るくはないヴェンにとっては意味不明でしかなかった。臆面もなく尋ねる青年に対して、ベルマは簡潔に答える。
「お前が倒した
慣れ親しんだ甘い香りの葉巻を口に咥えながら、魔導師は告げる。
「旧マセーラ王国……ガルストア帝国の属領地が、この
目指すべき場所が決まれば、行動まではあっという間だった。
庵に戻ると、青年は慌ただしい様子で支度を整え始めた。普段から身に着けている装備一式を揃え、ついでに足になるものはあるか、と魔導師に尋ねる。
「〈
「マジかよ。めちゃくちゃ便利なの置いてるな」
「忘れたのか。そもそも、お前が私のところに置いていった代物だ」
「あれ、そうだっけ?」
「ああ。『旅はやっぱ徒歩だろ』だとか言って、こちらの迷惑も考えずに押しつけていった」
「…………そうでした」
我ながらバカっぽいなー、と思いながらヴェンは旅の準備を続ける。予想するまでなく当然の流れとしてそうなるだろうと考えていた光景を、ベルマは冷静に眺めていた。
「物好きなことだ。わざわざ自分から出向いていくとはな」
「好奇心が強いって意味じゃ、あんただって負けてねぇだろ。あの
「私が興味を抱く事柄は、魔導技術に関するものだけだ。その他の俗事は、正直なところどうでもいい。火の粉さえ降りかかって来ないのなら、どこで火が燃えようと関係ない」
「クールだな。ま、その代わりってわけじゃねーけど、俺がマセーラまで調べに行ってみるよ」
「そうか。どうしてもと言うなら、
庵の奥、自ら造り出したいくつかの魔術の産物が秘密裏に置かれる蔵に視線を流すベルマに、ヴェンは首を横に振った。
「流石に持ち運ぶには不便過ぎるだろ。従者もいないし、〈
「まあ、そうだな。今のところ、必要になる事柄とも思えない」
そんな風に言葉を交わす青年と女魔導師を、フェイラは他人事のように見ていた。
詳しい事情は何となく察せられたが、師であるベルマが不干渉の姿勢を取っている以上は弟子である少女にも関係がないことだった。
(……ああ。でも)
羨ましい、とほんの少しだけ思ってしまった。遠い異国の地まで旅に出るという青年のことが。自分の世界は、庵のある森の中だけだったから。
物心がつく前から魔導師の弟子として生きてきた自分の世界は、とても狭いものだったから。
「あ、そうだ。この娘も連れて行って構わねーか?」
「…………え?」
だから、不意に自分の方を見てそんなことを言った青年に、少女はキョトンとしてしまった。
「お前……事情は承知しているだろうに、勝手なことを言うな」
それまでの淡々とした態度と一変して、剣呑な口調でベルマは告げる。
「いやでも、魔術のことはからっきしだからさ、俺。解るヤツがいてくれた方が助かるだろうけど、あんたにそんな気はねーだろ?」
「当然だ。だからと言って、私の弟子を連れて行く理由にはならん」
「まあな。だったら本人に訊いてみようぜ。どうだフェイラ、俺と一緒にマセーラまで付いて来てくれねーか?」
何気ない態度でヴェンは少女に振り返る。そうして、彼女にとっては抗いがたい提案を言ってみせるのだ。
フェイラは返事に窮してしまう。唐突な展開に対して、どう動いていいものか分からない。
いま理解できる感情は、恐らくひとつだけ。
新しい道が開かれたのなら、歩いてみたいと思ってしまった。
「
「……ダメだ。お前を外に出すわけには行かん」
「
「危険だと言っている。お前はまだ、自分の知識を正しく活かせるほどに育っていない」
「…………お願いします、
最後は消え入りそうな声でフェイラは懇願する。もう一度だけでも師に拒まれれば、すぐにでも折れてしまいそうな声色で。
ここで助け船を出さねば、男が廃るというものだった。
「俺からも頼む。ちゃんと面倒は見るからさ」
「…………馬鹿者どもめ」
どこか観念した様子で、ベルマはフードの下で溜息を吐いた。こんな感傷は柄ではないというのに、青年の気風に当てられてしまったか。
「お前が私のところに来た時から、いつかはこういう瞬間が訪れるような気がしてはいたがね」
予言するように彼女は告げる。冷然と、それでいて悼むような憐憫を込めて。
「フェイラ・ミュステリウム、私の唯一の弟子にして娘。……お前も、
一見するだけなら、その鉄の塊の用途は意味不明だった。
鋼鉄製の身体が前後に真っ直ぐに伸び、大きな車輪のような部品がふたつ、前と後ろの先端にひとつずつ取り付けられている。
人間が乗ることを前提に形状は定められているらしく、牛馬の背中に置く鞍や鐙のような道具も備えられていた。ただし手綱らしき部品は見当たらず、左右に短く伸びた鉄の棒だけが身体の前部と思しき場所に把手として設置されている。
その奇妙な金属の塊を見て、いったい誰が〝馬〟などと思うだろうか。
だが事実として、それは馬の役割を果たすべき手段として製造された魔導技術の産物だった。通称を〈
鞍にあたる座席の後部に荷物を載せて、ヴェンは森の入り口に立つ魔導師とその弟子のふたりに振り返った。
「
「うむ。お前こそ、体の管理には気をつけろ」
「いつも言っていますが、頭が働くからと葉巻を吸い過ぎないようにしてください。あと家の中の掃除も、面倒臭がらず適度にするようにお願いします」
「……わかったから。行くなら、さっさと出発してしまえ」
どちらが保護者か判らないな、とそのやり取りについ微笑してしまう。
ベルマとの別れを済ませると、フェイラは青年の方へと視線を向けてきた。
しかし、そこからの一歩がなかなか踏み出せない。これまで見たこともない未知の領域に、足が竦む。そこから先は今までとは違うのだと、少女は理解していたのだ。
「怖気ついている場合か、このバカ弟子」
「あっ……!?」
焦れったく言って、ベルマがその背中を片手で押した。バランスを崩して倒れそうになったフェイラの体を、ヴェンが慌てて支える。
「おいおい、乱暴な見送りだな」
「旅立ちなんてものは、思い切りが肝要だろう。流石にこの男を見習えとは言わんが、お前はもう少し勇気を持て」
「は、はい」
青年に支えられながら頷く愛弟子の姿を確認しつつ、ベルマはヴェンに向き直る。
「くれぐれも、私の弟子に危害が及ぶような事態には気をつけろ。何かあったら承知はせん」
「おう、任せといてくれ」
鷹揚に返事をして、ヴェンは
「それでは行ってきます、
「ああ。その男が無茶をしないようにしっかり見張るんだぞ」
「……はい?」
魔導師が最後に告げた言葉の意味を解らないままに頷き、フェイラは前を向いた。
「よし。久し振りに頼むぜ、相棒」
青年の掛け声に応えて鋼鉄の馬が
別れを惜しむ時間もなかった。あっという間に地平の彼方に消えていったふたりの残像を幻視しながら、ベルマはぽつりと言う。
「間違えるなよ、ヴェントス・パウ。ここから先は、お前と私の娘だけの問題だ」
そう呟きながら周囲の風景を見渡し、彼女ははたと気づいた。明日からは、自分の手で魔導薬を村の住民らに届けなければならないという事実に。
それだけではない。よくよく考えれば、炊事洗濯や薬草摘みも弟子に任せきりだった。そうした諸々の日課もすべて、早いものでは今日から自分の仕事になるのだ。
「……生活能力に欠けているのは自覚していたが。内弟子がいなくなった途端にこの様か」
酷い虚脱感に襲われつつ、魔導師は自分の庵へと戻るのだった。
世界は本当に広いのだと、少女は実感していた。
ヴェンとフェイラを乗せた
「どうだ、乗り物酔いとか大丈夫か?」
「あ……はい。何とか」
前方を向いたまま鉄の馬を駆る青年の言葉に、フェイラは辛うじて応える。体に異常はなかったが、心細さだけはどうしようもない。
後ろを振り返る。少女の生活圏だった森も村も、今はもう彼方にあって見えない。
(……ああ、本当に)
本当に、自分は世界に飛び出したのだ。走り出し、投げ出された。
ここから先にあるのは、自由だけだ。
そう思うと、自然と不安は消えていた。無意識に、視線も前を向く。
「……マセーラという場所は、遠いんですか?」
「いや、こいつなら明日の昼頃には到着できるはずだ。流石に走りっ放しってわけには行かないから、とりあえず今日は手前にあるトルテアって町に向かう予定。
質問に答えつつ、ヴェンは把手を操って
「最初の内はなるべくゆっくり走るし、途中で休憩も挟むからその時はしっかり休むんだぞ」
「……わかりました」
素直に頷きながらも、無理だろうなとフェイラは思う。
この胸を打ち続ける動悸は、しばらくは治まってくれそうになかった。
何度か休憩を摂りつつ、見渡す限りの平野を直走ること約半日。オレンジ色に輝く太陽が沈む直前に、最初の目的地であるトルテアにふたりは辿り着いた。
アトラフィス王国とガルストア帝国属領マセーラの国境に程近いトルテアは、主に他国との貿易の場として栄える町だ。賊の襲撃に備えて建造された高い隔壁が周囲に立ち、旅人や商人は門で検査を受けることで中に入れる。
王都あたりならば人に対する厳しい審査が行われるが、商いの場としての特色が強いトルテアでは荷物のチェックの方が重要視される。スムーズに町へと入るため、ヴェンは
「……このまま中には入れないんですか?」
「ま、無理だろうな。王都だったらまだ通るかもしれねぇけど、ここら辺だと魔術なんてほとんど普及してないからな。こいつが悪目立ちしちまう」
そう言って、青年は鋼鉄製の身体をトンと拳で叩く。
「そんじゃ、ここから歩いて門に……って大丈夫か、お前?」
少女の異変に気付いたヴェンが呼びかける。
それに対して、フェイラはほとんど塞がっている目蓋を辛うじて開けながら応えた。
「…………はい。へいきです」
「ああ、ダメだな。だから寝とけって言ったのに」
「…………もんだいなしです。いきましょう」
ウトウトと頭を左右に揺らしながら、夕焼けの方角へと向かおうとする少女。
歩けるだけ立派だが、残念ながら方向が町とは真逆だった。フードの襟を掴んで彼女を制止しつつ、ヴェンは苦笑まじりに言う。
「どこ行くつもりだよ。ほら、町はこっちだ」
「くふっ……くるしいです。はなしなさい」
眠気のせいか口調まで乱暴になりつつある。青年の誘導を鬱陶しがるように不満に思いながらも、フェイラは閉じかかった目でどうにか前方に視線をやる。
そして、初めて見るその光景に琥珀色の瞳を見開いた。
太陽の光を浴びて輝く巨大な壁。人を呑み込む怪物の大口のように開かれた門。
何より、今まで見たことがないほどの数の人々。列を成してこれから検査を受けようとしている商人や旅人を、彼女は呆気に取られた様子で眺める。
「驚くのはまだ早いぞ。中に入ったら、この何十倍の人がいるからな」
「…………うそですね。しんじません」
反抗的に言い返すフェイラに、ヴェンは意地悪な子どものような笑みを浮かべながら告げる。
「ま、どっちにしても町中に入ればわかることだ。目が覚めたなら、さっさと行くぞ」
門に向かって歩き出す青年。慌ててその後を追いながら、少女はフードを被る。
町の中に入れば、それこそ眠っている暇などなかった。道行く人々がごった返す雑踏を青年に庇われるようにしながら歩きつつ、フェイラはキョロキョロと落ち着きなく視線を動かす。
門近くの最も雑多な区画を抜ければ、少しだけ整理された市場に出た。果物やパンを店先に陳列した露店が立ち並ぶ様子を、少女は興味深げに観察する。
感覚すべてが刺激されるようだった。色、音、そして鼻をくすぐる食物の芳香。
抵抗など無意味だった。ぐるるるる、と側にいる者にしか聞こえないような音を立てて、フェイラの体が控え目に主張する。
「腹が減ったのか?」
「…………いいえ? お腹なんて空いていません」
「いや、そこは素直に認めろよ。昼間に食べた携行食だけで今まで持った方が感心なんだから」
「……すいてません」
「腹の虫が鳴ったと思ったんだけど?」
「幻聴ですね。あなたこそ、空腹で頭が正常でなくなっているのでは?」
頑として認めようとはしないフェイラ。
言って聞かせるよりも多少無理やりにした方がいいだろう。そう判断して、ヴェンは手近なところにあった露店の前に立ち、従業員に小銭を渡して商品を買った。
「ほら、蜂蜜菓子だ。宿に着いたら飯は食うけど、それまではこれで我慢しとけ」
「…………ます」
「うん? 何か言ったか?」
「……ありがとうございます」
不承不承といった様子で焼き菓子を受け取りつつも、お礼の言葉は素直に言うらしい。
はむ、と黄金色をした菓子を小さな口で少しずつ齧るフェイラ。すぐに気に入ったらしく、はむはむとさらに勢いよく一気に食べ切ってしまう。
「……あう」
空になった手を名残惜しそうに眺めている様子は、機会があればまた買ってやってもいいかと思わせる程度に可愛らしかった。
はぐれないように寄り添い合いながら雑踏の中を歩きつつ、ふたりは町の様子を見る。ヴェンは何か異変の兆候はないかと探るように、フェイラは純粋に物珍しさを理由にして。
結果として、同じものに興味を惹かれたのは必然だった。市場の中心、大きく開かれた広場に陣取るようにして、とある一団の姿があったのだ。
穂先を高く空に向け、存在を主張する何本もの槍。どの人物の腰にも携えられた剣。美しく磨き上げられ、その威厳を示すために並べ置かれた鎧兜の数々。
物々しい装備を身に着けた〈騎士〉の一団が、広場に
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