第三章 怪物

 広大な大地を、それ﹅﹅は一心不乱に突き進む。

 険しい山を越えた。深い谷を潜った。激しい勢いの河を渡った。

 ただ自分に課せられた命令を遂行すべく四肢を動かし、果てしない距離を走り続ける。

 一対の足で地面を踏み締め、両腕を駆使して障害を撥ね除ける。

 疲労も意思もなく、あるのは身体を稼働させる論理ロジックだけだった。単純明快な存在理由に従い、行動し続ける。その在り方は、人間には決して真似ることのできない芸当だ。

 自分たちと同じ形をしながら、ヒトには成し得ない動きをする光景を目撃した人々は、それのことを〝怪物〟と呼んだ。

 どれだけの距離を行こうとも、どれだけの時間を経ようともそれ﹅﹅は絶対に目指す場所を間違えることはない。

 目的など、この世界につくられる前から決まっていた。






「……遅いな。大丈夫なのか、あの娘?」

「いつもの日課だ。心配は要らん」

 オレンジ色の空を窓枠越しに眺めて言う青年に、ベルマは視線を向けることなく告げる。

 魔導師の庵で、ヴェンは何をするでもなく時間を過ごしていた。怪物にまつわる噂の真偽を確かめるという目的があっただけで、明確な到達点がある旅ではなかったのだ。このまましばらく休息を摂るのも、良いかもしれない。

 そんなことを適当に考えながらぼうっとしている青年の背中に、不意に魔導師が言葉を投げかけた。目線は手元の作業に向けたまま、彼女は何気なく尋ねる。

「お前、元の鞘に収まるつもりは少しもないのか?」

「うん? ……あー、そういう気持ちは今のところ起きねぇなー」

 変わらず窓の外を見ながら呟く青年。窓枠に身を預け、任せるままに体を傾ける。その様子にチラリと視線をやりつつ、ベルマは続ける。

「ふん、アトラフィス王や家臣らが頭を悩ます光景が目に浮かぶようだ」

「爺さんにはちゃんと暇をもらったよ。流石の俺でも、黙って飛び出したりはしねぇぜ」

「普通は出奔したりはしないんだよ。お前は型破りが過ぎる」

「あんただって、こんな森の中で隠遁してるじゃねーか。王都で生活した方が、研究だってもっと捗るはずなんじゃねーの?」

 魔導技術と呼ばれる学問は、現代においては国家によって優先的に保護され探究が推奨されている知識体系だ。ただし、その成果は国益のために利用されるのが常であり、一般の民衆に魔術の恩恵がもたらされるのは非常に稀なことになっている。

 それと同じぐらいに、国の管理体制の下で研究を続けず野に下ったベルマのような魔導師の存在も珍しい。魔法使いや魔女といった旧来のイメージ通りに神秘を探究することは、国家が魔導技術を独占している現状では限界があるはずだった。

「関係がないな。どこであろうと、私は私の研究を続けるだけだ。他人と関わらずに済むだけ、こちらの方が集中できる」

 それに研究成果の隠匿は魔術の基本だ、とベルマは言う。

 言い淀むことなく明言してみせる女魔導師に、ヴェンの方が視線を彼女に寄越した。数年前に別れた時と変わらず確固とした在り様を保つ姿を、どこか羨ましそうに見る。

「……俺もそうさ。こっちの方が性に合ってるんだよ」

 その言葉は嘘ではない。かつての自分よりも今の方が、気が楽なのは事実だった。

 そう呟く青年に対して、ベルマは無言で葉巻を手に取る。研究の合間の一休みとばかりに、庵の中に煙を漂わせる。

 その静かでどこかぎこちない時間が、不意に乱れた。

 フードの下で魔導師が表情を曇らせる。不愉快そうに葉巻を口元から離し、「侵入者だ」と短く報告した。

 そして、懐から黄色のインクで描かれた一枚の羊皮紙を取り出した。森全体を詳細に記した地図をテーブルに広げると、その主たる魔導師は異変をさらに把握する。

「森の結界に干渉した者がいる。東の先端から這入ってきた」

「……ちょい待ち。そんな便利な道具があるなら、俺が森を迷ってたのも知ってたよな?」

 どうしても無視できない疑問を思わず口にするヴェンに、ベルマは無感情に答える。

「ああ、ただの奇人だと思っていたが。三日もすれば諦めて帰るだろうと捨て置いていた。結界の効果が薄れる二週間まで耐えるとは考えていなかったから、忘れていた」

「…………」

 言いたいことはあったが、いま優先すべき事柄ではない。何とも表現できない感情を押し殺して、青年は机上の羊皮紙に目を向ける。

「村の人じゃないのか? 俺が戻らないから、探しにきてくれたとか」

「違うな。方向が村とは真逆だ。それに、こいつは結界の影響をまったく受けていない。迷わず最短距離でこちらに向かってくる。これは……ヒトではないな」

「────あの娘が危ない」

 待て、と制止する暇もなかった。ベルマが振り返った時には、既にヴェンは庵を飛び出していた。扉を開ける手間も惜しんで、窓枠からそのまま外へと身を乗り出す。

 彼女が辛うじて視界の隅に捉えたのは、使命感に突き動かされる青年の背中だけだった。

「…………まったく」

 侵入者の詳細を事前に把握しようともせず、直感に従うままに体を動かす。

 魔導師ベルマ・ミュステリウムには絶対に真似できない行動に、彼女は嘆息する他ない。羊皮紙に視線を戻しながら、状況を見定めるべく自分は傍観に徹することを選ぶ。

 紙面に一点の灯が浮かび上がった。庵を出て森の東に向かう魔力のひとつを投影した光は、対象が尋常ではない速度で移動していることを示している。

 ……本当に、一処に留まるということを知らないのだから、と。

 その行く末を案じるように、琥珀色の魔導師は零すのだった。






 採取する時間が大事な薬草を後回しにしていたら、すっかり遅くなってしまっていた。

 既に夕闇に支配されつつある森の中を、様々な薬草を収めた籠を抱えながら少女は歩く。

 結界が張られた森林で命の危険を心配する必要はないが、それでも夜の闇は恐い。たとえ幻惑の魔術の影響を受けなくとも迷ってしまう危険性はある。

 一刻も早く庵に辿り着こうと、フェイラは帰路を急ぐ。地平の彼方に消えつつある太陽の光だけを頼りに、森を歩く。

 ガサリ、と彼女の背後で音がした。

 反射的に少女は振り向いていた。それが、明らかな異常だったからである。この森に施された魔術は、琥珀色の魔導師とその弟子以外の存在を容易には許容しないはずなのだ。

 あの青年が気紛れに出歩きでもしたのだろうか。だとすれば、ここで顔を合わせるのは何となく嫌だった。

 陽の光も届かぬ闇の奥で、何かが動いたような気がした。

「……え?」

 何だろう、と思った瞬間には、既に致命的なまでに事態は急変していた。

 離れた藪の中から影が飛び出し、たった一度の跳躍で少女の目前まで距離を詰める。間違いなく人影であるはずのそれは、しかしヒトではあり得ない運動能力で標的を捕捉した。

 男の裸身を想起させる精巧で強靭な肢体。その美麗さは、自然のものではなく造られた彫刻の美と同じもの。

 肉身でもなければ木製でもない、硬質の岩石で構築された身体。それでいて人体と同じように滑らかに駆動する光景こそが、人の手による鋳造物であることの証明。

 見紛うことなき、魔導の技術によって造り出された人為の異形だった。

(──〈魔導人形ゴーレム〉)

 頭で考えるより早く、フェイラの中の知識は〝怪物〟の正体を看破する。

 けれど、それだけだ。純粋な暴力を前に、純粋な知識は意味を成さない。

〝怪物〟が片腕を伸ばす。その指先だけで、少女ひとりの命など簡単に奪えた。

 硬い鉱物の末端が、彼女の頬に触れて、



 その場を、一陣の風が駆け抜けた。



 少女の視界が一瞬、暗転する。

 体を激しく揺り動かされ、足が地面を離れて大きく距離を移動する。

 だが、それは暴力による作用ではなかった。次の瞬間には嘘のように衝撃は止んで、フェイラの体は宙に浮いたまま静止していた。

 恐る恐る、彼女は目蓋を開く。

 硬く冷たい感触の腕が、けれど優しくフェイラを抱えていた。

 離れた場所には、やはり〝怪物〟が消えることなく存在している。しかしその視線は、今は少女を見ていなかった。突然の闖入者を警戒して、紛い物の眼球を彼女の頭上へとやっている。

 その目線を、フェイラはほんの少しだけ辿った。ほんの少し、自分の頭の上へと。

 少女の瞳に映し出されたのは、眩いほどの光沢を放つ甲冑。

 そして、夕焼けの色を玲瓏と照り返す、細身の刀身を持つ両刃の剣。

 白銀と琥珀色に輝く〝騎士〟が、そこにいた。

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