第四章 灰の中に残るもの

第27話 声が聞こえる

 空地の真ん中に、佇む人影が一つ。ここは、車庫を諦めれば小さな一軒家がかろうじて建とうかというほどのスペースしかない小さな空き地。だが彼女にとってそこは、不安に駆られ、苛まれ、どうしようもなくなった時に落ち着きを取り戻せる場所でもあった。今もそうだ。

 ここでなら、一人で死ねる。

 そう思うと、少しだけ不安が和らぐ気がした。だが、それは気のせいであった。彼女は既に追い詰められ、正常な判断ができなくなっていた。ただ、頭の中で鳴り響く自分と誰かの声を、聞くことしかできなかった。


 誰か、助けて。

「この前は年齢詐称で、今回は二股? 嘘つき女。私たちの北岡様を汚すな」

 声が聞こえる。皆怒ってる。

「こいつ動画の中でも男受けしそうなセクシーな衣装ばっかり着てたから、どうせ北岡様もそれで誘惑したんでしょ。色仕掛けブス女は死ね、今すぐ死んで詫びろ」

 どうして、どうして皆怒ってるの。

 私はただ、恋人と結ばれて幸せになりたい。そう、純粋に願っただけなのに。

「うみちゅい様が二股をかけるなんて、そんなふしだらな女だなんて思いませんでした。ファンたちからの信頼を、本気であなたを応援してきた人たちの純情を、あなたは弄んだんですよ!」

 ああ、やっぱり私が幸せになるなんていけないことだったんだ。ネット上でアイドルみたいな人気者になれただけで満足するべきだったのに、一時でも翔くんと会えただけで満足するべきだったのに……欲張りすぎたな。

 でも、井寺さんに「今度からはもう少し我儘を言ってみても、人に頼ってみても、いいんじゃないかな」って言われ時は嬉しかったな。私がこの世界にいてもいいような気がして、もう少しこの世界に干渉してもいいような気がして、私という存在がちゃんとあったんだって実感できたような気がして、心から喜べた。

「お前みたいなぽっと出のアイドルもどきが、北岡様と釣り合うわけないだろ。クソクソクソクソクソクソクソ」

 井寺さんが私の存在を認めてくれたから、世界全てから私の存在が認められた気がした。本当に我儘を言っても、この世界に意見してもいいと、思ってしまった。

 でも、やっぱり駄目だった。私を認めてくれたのは、井寺さんや桜井さん、まなちゃんがいる小さな世界だけ。この世界は、それよりも遥かに大きく、もっと悪意が渦巻いていた。

「私の北岡様に手を出した罪は重い。お前を殺す」

 翔くん、なんで?

 なんで私と連絡しなくなったの。私ずっと、会いたい。大事な相談があるって、メールしてたよね。このゲームについて、全部話すつもりだった。話しても仕方ないことは分かっていたけど、それでも翔くんには話したかった。翔くんには、私のすべてを知ってほしかったから。

 ――でも、翔くんは違ったんだね。井寺さんから、翔くんもこのゲームの参加者だって聞いた時は、びっくりしちゃったよ。きっと翔くんのことだから、私を危険な目に遭わせたくなくて、私に会わないようにしてたんだと思う。それは分かってる。でも、割り切れないよ。

 翔くんは、ずっとそうだった。付き合ってるのに、本名も教えてくれなかった。仕事の話もしてくれないし、デートをドタキャンする時の理由も教えてくれない。ずっとずっと、翔くんは秘密だらけだった。まるで自分の前に壁を作って、その中に誰かが入ってくるのを拒んでいるみたいだった。

 一緒にいても、翔くんには私の姿が見えていないような気がした。声が聞こえていないような気がした。……心は、繋がってなかったのかな。

「なんなのこいつ。大してかわいくない癖に一部のキモ男たちが持ちあげたと思ってたら、今度はあの人気俳優の北岡翔と熱愛? 調子に乗りすぎでしょ。本当に、こういう気持ち悪い勘違い女が出てくるのが、ネットの悪いところだと思う。こんな奴、現実世界だったら同じ女からボロクソに言われて終わり。こいつのことを好きな女なんて、誰もいない。こいつを好きなのは、ちょっと胸の谷間とか足を見せただけで性的に興奮を覚える、現実世界で女と一度も話したことないような、鼻息の荒い童貞だけ」

 でも、どうしてかな。こんな状況でも、翔くんからの連絡を待っちゃう。通知が来るたびに、メッセージの内容を確認するのを止められない。自分が傷つく。死に近づいていると、はっきりと認識させてくる。そう分かっているのに、ひょっとしたら翔くんからの連絡かも知れないと思って、全部見ちゃう。

 ああ、早く翔くんから連絡が来ないかな。電話で直接声が聞こえなくてもいい。文字でただ一言、大丈夫? と送ってくれたらいい。それでも、欲張りなのかな。

 ……あれ、私泣いてる?

 なんで泣いてるの。こうなることは、ずっと覚悟してたはずなのに。それに、なんで翔くんに助けてもらおうなんて考えたんだろう。私は、そんな人じゃなかったのに――

「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」

 ――はあ。全部井寺さんのせいだ。井寺さんに会わなかったら、人を信じることなんて無かったのに。そうすれば、今みたいに裏切られて苦しむことも無かったのに。翔くんと結ばれるなんて、大それた願いは抱かなかったのに。

「このうみちゅいとか言う奴は、ファンも恋人も騙したクソ女だった。ただそれだけの話でしょ。裏切ったとか、死ねとか言ってる奴はどうかしてる。最近のヒノボルは、一昔前のSNSに戻りつつあるな。今回の一件は、その典型だ」

 時計の音が、どんどんどんどん速くなる。私はもう助からない。

 だったら、最後にもう一つだけ願おう。最期に、翔くんの声が聞きたい。私が今からかけるこの電話に、翔くんはきっと出てくれる。きっと、きっと、きっと……。

「もしもし」

「はあ、翔くん。久しぶりに声が聞けた。よかった」

「……なんか、泣いてる? 大丈夫?」

 そうか。翔くんのことも投稿に書いてあったけど、そっちは炎上してないんだね。よかった。じゃあ翔くんは、まだ何も知らないんだね。

「……ちょっと、悲しいことがあってね。それにしても、翔くん酷いよ。これまで全く連絡返してこなかったのに、今更電話に出るなんて」

「それって、つまり出ない方がよかったってこと?」

「そうじゃないけど……はあ。翔くん、ほんとそういうところ面倒くさいよね。論理的っていうか屁理屈がうまいというか、なんか自分が責められたら、すぐに鬱陶しい反論してくる」

「そうかな。そんなつもりはないんだけどな」

「ううん、いっつもそう。去年デートに行った時も――」

 なんで私、思い出話なんてしてるんだろ。翔くんに、助けてって。どうして言えないんだろう。さっきまで言うつもりだったのに。自分のこと、全部知ってもらおうとしてたのに。

 やっぱり、私は私が嫌いだ。私はいつも、頭で考えていることと行動が一致しない。口先だけのダメ人間。翔くんを責める権利なんて、私には無い。

「――海。本当は、もっと大事な話があるんじゃない?」

「……無いよ、そんなの。ただ、久しぶりに声が聞きたかっただけ」

「そう。じゃあ、そっちも炎上は大丈夫そうなんだね。よかった」

「え、知ってたの」

「こんな生死のかかった状況だよ。自分に関連する投稿は、全部チェックするよ。それに――」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

「ど、どうしたの、急に」

「……ジャッジメント田崎に情報を流したのは、私なの」

「……どうして、そんなこと」

「こうすれば、翔くんが私の元に帰ってくる気がしたの。私たちを祝福する声が、もっとあると思ったの。でも、ちょっと楽観的に考えすぎたみたい」

「なあ、海。その情報をジャッジメント田崎に売った時、他に何か聞かれなかった?」

「ああ、九条岬って人のこと知ってるかって聞かれたよ。翔くんも会った、井寺さんの彼女なんだよね。でも、なんで探してたんだろ」

「……さあ、ね」

「それじゃあ、もう切るね。ありがとう」

「駄目だ。切るな、切らないでくれ」

「……どうして……どうしてそういうこと言うのかな……」

「ん、海? 海? なんかすごい物音がしたけど、大丈夫?」

 最期に、翔くんの声が聞こえててよかった。離れてるけど、なんだか隣にいてくれるみたいだ。あーあ、なんだか安心したら動けなくなっちゃったな。もう、落としたスマートフォンも取りに行けないよ。

「ねえ、海。返事してくれ、海! 海! うm――」

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