第26話 亀裂は生じ始める

「ねえ、本当に行くの?」

「井寺さん、それ今日で七回目ですよ。何度も同じことを聞かないでください。元気になった私は、ようやく念願だったここ、ヒキニーランドに来れたんです。私の幸運をもってすれば、レアキャラのヒキニーマングースにも会えるはずです」

 そう言って軽い足取りで歩を進めるまなに付き合わされ、井寺はいつぞやか岬と訪れたヒキニーランドへとやってきた。

 入り口から既に始まる長蛇の列は、今が連休か学校の長期休みかと錯覚させるほどの人影がある。平日ど真ん中だというのに、この大勢の人。その群衆が一様に同じ動き方をするさまも少し酔いそうになったし、まなの体調も心配だ。井寺は、ヒキニーランドに入る前から憂鬱だった。

 だがそれらのことよりも井寺を憂鬱にさせたのは、岬の存在だ。岬は今も、病院の集中治療室の中で生死の境を彷徨っている。それなのに自分は、これから楽しい思いをしようとしている。それも、岬との思い出の地に、女の子と二人で訪れてのことである。

 正直、井寺の心の中はぐちゃぐちゃだった。考えがまとまらず、クルクルと回る歯車の中を懸命に走るハムスターのように、必死に前に向かおうと走っているのに同じところを回り続ける。そんな状態だった。

「まずはあれに乗ろうよ」

 入場ゲートを潜ってすぐ、まなはヒキニーランド一の名物アトラクションであるジェットコースターを指し、無邪気な笑顔を見せながら飛んで見せた。その姿からは、初めて会った時の病弱な姿はまるで想像できない。

 普通の女の子。

 井寺の頭の中に、何とも曖昧な言葉が浮かんだ。

「あれ、滅茶苦茶早いよ。大丈夫?」

「フフフ、大丈夫ですよ。まあ、ジェットコースター乗ったことないんですけど」

「何一つ大丈夫な要素が無いんだけど」

 そんな井寺の心配をよそに、まなは井寺の手を引いてジェットコースターに乗るための列に並んだ。行列に並ぶ人々の頭上にかろうじて見える案内板には、“100分待ち”の文字が躍る。それを見た井寺は、大きく体を上下させながら、深い深い溜息をついた。

「井寺さん」

「なに?」

「その鬱陶しいくらいの溜息は、今日で三十五回目ですよ。そんなに私と出かけるのが嫌ですか。それとも、彼女さんといる時もいつもそうだったんですか。だとしたら、別れられてないのが奇跡ですね」

「いや、そういうわけじゃないよ。ここに来ると、やっぱり岬のことを思い出しちゃってさ。今どうしてるのかなと思うと、憂鬱で……ていうか、溜息数えてたの。まなちゃんって、想像してたより細かくてねちっこい人なんだね」

 井寺が冗談交じりのつもりでそう言うと、まなは視線を落とした。そして先ほどまでの明るい声とは違う、少し暗いトーンで話を続けた。

「病気の関係で、生理現象に気を配る必要があるだけです。自分の体の色々なところにずっと気を配って、これまで生きてきましたから。それに、誰かにずっと看病してもらう生活を続けていると、周りにいる人の微妙な変化に敏感になるんです。この看護師さんは私の看病を面倒に思ってるなとか、このお医者さんはどうせ治らないんだから早く退院してほしいって思ってるなとか。そんなこと、ずっと考えながら生きてきましたから」

 まなの顔の辺りから、何か光るものが落ちた気がした。

「だから、分かっちゃうんです。今のお兄ちゃんが無理してるのも」

 まなは語気を強めてそう言うと、キラキラと輝く目で井寺のことを見つめ、井寺の右手を両手で握りしめた。その姿に、思わず井寺の心が締め付けられた。

「井寺さん。お兄ちゃんと本当は何をしようとしてるんですか。私と家で会った後、カラオケでお兄ちゃんとなにを話したんですか。お兄ちゃんは、病室で私と二人きりになった時も、目を見て話してくれませんでした。お兄ちゃん側たちと目を合わせてくれないときなんて、私の病気が悪くなってる時か、自分がなにかに追い詰められている時しかありません。やっぱりなにか、お兄ちゃんと一緒に、とても危険なことをしてるんじゃないですか」

 まなに質問攻めされる井寺の脳裏を、桜井の言葉がかすめた。


 本当のことを教えないのは、優しさじゃなく嘘だ。いつか、それできっと痛い目を見る


 まなに本当のことを話すべきか。

 今のお兄ちゃんは体の中に発火装置を埋められて、ネットで炎上すれば、その発火装置が起動されるようになっている。生き残るためには他にもいる同じ境遇の人を皆殺しにし、最後の一人になるしかない。それに連続殺人鬼の安達勝也という男にも目をつけられていて、炎上しなくても殺されてしまう可能性がある。

 こんなことを、今も病気と闘い続けているまなに言うべきなのか。それにありのまま全てのことを話すなら、まなが憧れているうみちゅいこと中峰海や、北岡翔こと三木博まで同じ境遇にあることを話さないといけない。勿論、井寺や岬についてもだ。それを話して、まなは正常な精神状態を保っていられるだろうか。

 考えれば考えるほど、井寺の上唇はどんどん重くなった。こちらを真っ直ぐ見つめてくるまなに、何の言葉も返すことができなかった。

 そうして膠着状態が続いていると、やがて後ろに並んでいたカップルから、列を詰めて並ぶようにと注意を受けた。二人が気付かない内に幾分か時間が経っていたようで、ジェットコースターの搭乗を待つ行列は進み、二人の前に人が十人ほど入れるスペースができていた。

 井寺は後ろのカップルに何度も頭を下げて謝罪すると、まなの肩を抱いて前に進もうとした。しかしまなの呼吸が過呼吸になっているように感じられたので、井寺はまなを連れてそのまま列から抜けた。人ごみの中を抜けて開いているベンチを探し、そこにまなと一緒に座った。

「まなちゃん、大丈夫?」

 井寺が背中を擦ると、まなはその手を払い除けた。前屈みになり、口元を自分の手で覆って呼吸を制限する。しばらくすると、荒かった呼吸音は落ち着きを取り戻していた。

 でも、まなは井寺と目を合わせようとしなかった。前屈みのまま口を閉じ、ただじっと虚空を見つめている。井寺も最初はまだ体調が万全ではないのだろうと考えたが、あまりに動かないまなを見て、やがてそれが井寺からの言葉を待っているのだということに気付いた。

 しかし井寺の頭では、こんな時に言う気の利いた一言など、考えられるはずもなかった。今だけ、桜井の頭と中身を交換したいと思えた。

「……スマホ、鳴ってるよ」

 ようやくまなが口を開いたかと思うと、井寺の顔を全く見ずに、ぶっきらぼうにそう告げた。井寺は気まずさを感じながらも、その着信に応答した。

「はい、もしもし」

「井寺さん、浮気はいけませんね。九条岬さんというかわいい彼女がいるのに、その隣にいる儚げで可憐な女性は誰ですか」

 電話口から聞こえてきたのは、安達の声だった。井寺はすぐに辺りを見渡す。すると正面に、こちらを真っ直ぐに見つめる安達の姿を認めた。

「……何の真似だ」

「いえ、言ったじゃないですか。あなたのせいで、これから二人の人間が死ぬって。その始まりの合図を直接お伝えしようと思ったのですが、浮気とはいえデートの邪魔をするのは野暮かと思いましたので、電話にて伝えようと思った次第です」

「お前、誰を狙ってるんだ」

「――今に分かりますよ。もう、私のヒノボルのアカウントについては、ご存知でしょう。この電話を切ってすぐ、私はとある投稿を行います。すぐに見てみてください」

 そう言い残り、安達は直ちに電話を切った。そして何やらスマートフォンを操作し、こちらへ笑顔を向けて、手を差し出してきた。井寺は促されるままにヒノボルを起動し、軌道を待つまでのわずかな時間に再度顔を上げた。そこには既に、安達の姿は無かった。

 少し狼狽える井寺だったが、安達の後を追うより先に、ジャッジメント田崎の投稿を確認することにした。内容によっては、早期に対応して炎上を食い止められるかもしれない。そんな希望を抱いての行動だったが、その時点で、時すでに遅しだった。


 ネットアイドルとして一躍有名となった“うみちゅい”は、人気俳優“北岡翔”と付き合っている。当方はこの二人の恋を応援しようと独自取材を行っていたが、その過程で二人の本名の情報を入手し、驚愕の事実を発見した。

 なんとうみちゅいこと、本名・中峰海の姉は、中峰和美。三年前に自らの不貞行為を悔やんで、中継カメラの前で焼身自殺したお天気キャスターだったのだ。

 更には、北岡翔こと、本名・三木博の他にも、数人の男性と関係を持っていることが分かった。中峰海は、みんなのアイドル北岡翔(本名・三木博)を騙している。

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