第17話 争いを望む男
十年前の事件、そして北岡翔こと三木博の壮絶な過去について話し終えた時、井寺の中に一つの率直な疑問が浮かんだ。
「でも、死刑宣告を受けているんですよね。それなら、この実験に参加するなんてできないんじゃないですか」
「井寺さんの言う事は尤もだ。でも、この名前を見たら落ち着いていられなくてね。だから、二人に確認してほしいんだ。この安達勝也が僕の憎むべき相手なのか、それとも同姓同名の別人なのか。まあどうせ、僕が頼まなくても探しに行くんでしょ」
「もちろんです」
井寺は、大きく張った胸を強く叩いた。ドンという低音が響き、体に痛みが走る。少し力加減を間違えたらしいが、せっかく憧れの人物の前で格好が付けられる今、たとえ自分の骨が折れていたとしても、我慢することにした。
「でも、気を付けてね」
三木の心配そうな顔が、こちらを覗き込んでくる。
今ので、頼りないと思われてしまったのかもしれない。そう思う井寺だったが、一先ずその心配の内容がなにか確認してみることにした。
「なにを、ですか」
「もしこいつが、僕の家族を殺した安達勝也なら、人間と話していると思わない方がいい。あいつは、死ぬ間際の人間が一番美しいという理由だけで人を殺せる、正真正銘の化け物だから」
そう語る三木の瞳には、恐怖と憎しみの色が滲みだしていた。
「しかし、困ったな。もし本当にこの安達勝也って男がその十年前の犯人で、司法取引かなんかで釈放されているなら、きっと改正受刑者保護法で名前が変わってるはずだし」
「そうだろうな。だとしたら、探す手がかりはない」
井寺と桜井がそうして考えを口に出すと、今まで黙って見ていた今水木が荒い口調で、突然話に割って入ってきた。
「なんでそう考えんのかな、ちげえだろ。このメールには、公表してない師匠の本名が書いてあるんだ。だから、この安達勝也も本名だと考えるほうが自然だろ。つまり、改正受刑者保護法で名前が変わっているはずの、あの安達じゃないってことだろ」
「ごろうちゃん、二人は僕と一緒に真剣に考えてくれてるんだから、そんな言い方しなくても」
「いえ、師匠。この際だから、はっきり言わせていただきます。もう復讐に囚われるのは止めてください。今までずっと過去のことを忘れて、今と向き合って生きてきたじゃないですか。それがなんですか、あんな悪戯メール一通で気持ちを乱されて。十年も前のことですよ、忘れてください。全部忘れて、師匠は師匠の人生を生きてくださいよ。今の師匠は……見てられません」
涙ながらにそう語る今水木を見て、三木は口を噤んだ。井寺も、そんな二人の気持ちを汲んで口を開かなかった。しかし、桜井だけは違った。桜井だけは、今水木の言葉でかえってヒートアップしているようだった。
「あんた、ふざけてるのか。何が悪戯メールだ。それで実際、人が死んでるんだぞ」
「それが噓だって言ってるんだよ。体内に埋め込んだ機械から火を出すなんてB級映画みたいな話、誰が信じるか!」
「それを遺族の前でも言えるのか」
「うるさい! 純粋できれいな心を持った師匠は騙せても、この目は誤魔化せないぞ。ネットで炎上したからって、人が死ぬわけない」
「この分からず屋」
そうして言い合っているうちに、遂に桜井と今水木は取っ組み合いの喧嘩を始めてしまった。慌てて止めようとする三木だが、その時には既に、一人で止めるのは不可能なほどに喧嘩の激しさが増していた。
三木は井寺も喧嘩の仲裁に入るよう叫んだが、井寺は一切身動きが取れなかった。だがそれは、喧嘩の激しさに腰が抜けたわけではない。もっと重要なことに、気付いてしまったからだ。
「嘘だろ。まさか……あの人が安達勝也なのか?」
井寺が呟いたその一言で、桜井と今水木の喧嘩は止まった。
その頃、富摩昭雄を乗せた車は、千葉県の海を望める道路にやってきていた。富摩は何か悩み事があると、いつもここに来て海を眺め、心の平穏を取り戻すようにしているのだ。一昔前は有料道路だったこの道も、自動運転が普及してドライブという概念が廃れた今となっては、車通りの少ない一般道へとなり果てていた。
「ところで鈴木、どういうことだ。私が命令を出してから、まだ一人しか死者が出てないじゃないか。それも、お前が画策したわけじゃないんだろ」
「すいません。あの井寺ってやつは、品行方正という言葉そのもので。炎上の種になりそうなものが、全くもってないんです」
「言い訳はいらない。人間の価値は、行動の結果で決まる。結果を出さない今のお前は、価値がゼロだということだ。分かるか」
富摩の厳しい言葉を聞いて、鈴木はハンドルを握る手に思わず力を込めてしまう。
「おい、いつまでスピードを出してるんだ。もうすぐ、いつものスポットだろ」
「はい。今日はいつもの駐車場が混んでいるとの情報が入っているので、途中で富摩さんだけ降ろします。だからいつでも降りられるように、シートベルトを外しておいてください」
「はあ……分かったよ」
富摩は深く溜息をつき、鈴木に促されるままにシートベルトを外した。窓から外を眺め、海を眺める。今日の海は、最近見た中では一番荒れていた。
「あの海は、今の俺の心を映しているようだな」
そう感慨に耽っていると、ある異変に気付いた。先ほど鈴木は、間もなく到着するいつもの景色を眺めるスポットで車を止め、富摩だけを降ろす。確かに、そう言った。
だが、どうだろう。窓の外を流れる景色は、その速さをどんどん増していく。海が荒れているからではない。明らかに、この車が加速している。
「おい鈴木、なにしてるんだ。ブレーキをかけ――」
「駄目です、ブレーキが利きません!」
鈴木がそう言った瞬間、車は電柱へ激突した。シートベルトを外し、運転席の方に身を乗り出していた富摩は、フロントガラスを突き破って宙を舞う。
富摩自身は、何が起きたのか全く理解できない。一瞬の出来事。ただ気付くと、自分は道路の上で力なく横になっている。体を起こそうとするが、全身に走る激しい痛みがそれを邪魔する。ふと横に目をやると、地面に真っ赤な血が広がっていることが分かる。そしてその向こうには、ボンネットに電柱をめり込ませた愛車の姿がある。
今の状況を理解するまでに、普段の富摩からは考えられないほどの時間がかかった。
「やっと死ぬのか」
富摩がそう呟くと、頭の上から声が聞こえた。初めは何の声か分からなかったが、やがてその声の主が目の前に顔を覗き込ませてきた。それは、目に生気の欠片もない鈴木だった。
「鈴木、何見てるんだ。動けるなら、早く助けろ」
「なんでですか。やっとあなたのことを殺せる絶好の機会がやってきたというのに、なんで助けないといけないんですか」
「悪かった。今までのことは、全部謝る。不当な扱いも是正する。だから――」
「何も心配する必要はありませんよ、富摩さん。既に、手配済みですから」
そう言って、鈴木は富摩にスマートフォンの画面を向けた。その言葉を聞いて心から安堵した富摩だったが、その画面を見て、安堵の感情は一瞬で消え失せた。
そこにはジャッジメント田崎が、富摩敦の経営している中古車販売会社で損失隠しが行われているという投稿を、重要な証拠書類の写真と共に行っていた。
無論、首謀者として富摩昭雄が名指しされている。
「これで火葬の心配はありませんね。だって、今からあなたは燃えるんですから」
「なに言ってるんだ、鈴木。待て、待ってくれ」
「もう投稿しちゃったから、後は世間があなたを許してくれるかですよ」
「投稿……しちゃった……?」
「ああ、そう言えば言ってませんでしたね。ジャッジメント田崎って、私のことなんですよ」
「……いや、この際そんなことはどうでもいい。頼む助けてくれ。敦の損失隠しなんて知ったことか。あの会社と富摩グループは、何の関係もない。私の責任なんて、何一つないじゃないか」
「そうは問屋が卸しませんよ。あんたが親である限り、子どもの犯罪行為の責任から逃れることはできません。それが世間の声です」
「子どもって……敦はもう三十三歳だぞ。立派に成人した大人だ」
「そんなこと、世間は考えてくれませんよ。有名人の息子が罪を犯したなら、それは親の教育の責任だ。そう、あなたが出来損ないだと蔑んで、突き放し続けたことで、敦さんは歪んでしまったんですよ。あなたは! 息子に愛を注がないという、罪を犯した。その報いです」
「そんな……そんなこと――」
「聞こえてきましたか、時計の音」
気にしないようにしていた。でも、鈴木に指摘されたことで気になってしまった。富摩の耳には、はっきりと、時計が時間を刻む音が聞こえる。どんどん早くなっていることも分かる。
「あ、あああ。助けてくれ、助けてくれ」
「無理ですね」
「わ、分かった。じゃあせめて、最後に頼みを聞いてくれ。これだ。このネクタイを、息子に」
そう言って富摩は、先代から受け継いだあの赤いネクタイを鈴木に差し出した。鈴木は微笑みながらそれを受け取ると……胸ポケットから取り出したナイフでずたずたに切り裂いた。
「な、なんで……」
「うん、いい顔ですね。それじゃあ、僕はこれで」
そう言って、鈴木は富摩に背を向けて歩き始めた。しばらく歩いたところで富摩の断末魔が鈴木の耳に届いたが、その時には既に、鈴木の興味は富摩から離れていた。
「やっぱり、死ぬ間際の人間が一番美しいですね」
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