第16話 十年前の事件

 北岡の付き人である今水木五郎に睨まれながら、井寺と桜井の二人は本屋の関係者通路内にある控室へと案内された。控室に入ると、北岡は素早い身のこなしで井寺たちの方に振り返り、満面の笑みで上座側にあるパイプ椅子を勧めた。

 控室と言っても、普段は倉庫か店員さんの休憩室として使われている部屋なのだろう。入り口は一つで、窓はない。照明は暗く、部屋の真ん中に申し訳程度に折りたたみ式のテーブルが一つとパイプ椅子が四つ置かれているだけだ。芸能人の控室というのは華やかなものだろうと考えていた井寺は、その風景を見て少しがっかりしなが、北岡に勧められた席に座った。桜井も、それに続く。

「それで、どっちから先にサインを書いたらいいの」

「歩、まずはお前からいけ」

「あ、ああ。悪いな。それじゃあここに、サインをお願いします」

「宛名は?」

「宛名? え、後で郵送していただく感じなんですか」

「馬鹿歩! そういう意味じゃねえよ。サインの上に、誰誰さんへって書いてあるの見たことないのか」

「ああ、よくお店に飾ってあるサインで見るあれか。あれ、個人名でも書いてくれるんですか」

「もちろん。確か、サインを欲しがっているのは妹さんだったよね。だから、妹さんの名前教えてくれる?」

 北岡が笑顔で優しくそう言うと、桜井は目を瞑り、腕組みをして何かを考えこみ始めた。そしてしばらく間を置いた後、きりっとした目付きで話を続けた。

「じゃあ、桜井さんへって書いてください」

「なんでだよ。そこは、まなちゃんへって書いてもらうところだろうが。なんで苗字なんだよ」

「いや、それは、その……」

「まさかお前、自分もサインが欲しくなったのか。だから自分にも当てはまるように、苗字で書いてもらおうと――」

「うるさい、それ以上何も言うな。とにかく北岡さん、桜井さんへと書いてください」

 桜井が井寺の話を強引に遮ると、北岡ははにかみながらも、しっかりと注文通りのサインを書き上げた。そしてその色紙を桜井に手渡すとすぐに井寺の方へ手を伸ばし、色紙を受け取った。

「俺は、井寺良平くんへって書いてください」

「分かった。漢字はどう書くの」

「井寺の井に、井寺の寺で、井寺です」

「お前、嬉しすぎて馬鹿になってるぞ」

「急に芸能人のサインが欲しくなった馬鹿に馬鹿と言われるのは、心外だな」

 そんな井寺と桜井の掛け合いを見て、再び北岡が笑顔になる。それを見た井寺と桜井は恥ずかしくなり、二人とも互いの顔から目を逸らした。顔を逸らした井寺の右耳にはしばらくペンの音が聞こえていたが、やがてその音が止み、目の前に北岡のサインが書かれた色紙が現れた。

 そこにははっきりと、“いでらりょうへいくんへ”と書かれていた。

「ああ、北岡様。本当にありがとうございました。こうして僕達のために特別に時間を割いて、サインを頂けるなんて、光栄です。今日のことは、一生忘れません」

 井寺は差し出された色紙を抱きしめるように持つと、涙を流しながら北岡にお礼を言った。

「ありがとうございました。これで、妹も喜ぶと思います。では、お忙しいでしょうから、今日はこれで失礼します」

 桜井も一応の礼儀と言わんばかりに少し雑にお礼を言い、席を立った。

 そんな二人の耳に、さっきまでとは違う、一段低い声北岡の声が聞こえてきた。

「待ってよ。本当に君たちにサインを書いてあげるためだけに、僕がこんなところへ呼んだと思うのかい。僕だって、暇じゃないんだよ」

 状況が飲み込めない二人。そんな二人に構わず、北岡は話を続ける。

「僕たち芸能人にとって、炎上は死活問題なんだ。でも、今は君たちも同じだよね。文字通り、炎上は死活問題だよね」

 しばらくの沈黙。井寺の頭は猛スピードで回転しその言葉の真意を探ろうとしたが、結局答えに辿り着くことはできなかった。パニックになる井寺。だが横にいた桜井の言葉を聞いて、ようやく井寺も状況を理解することができた。

「――あんたも、あのゲームの参加者か」

「いやいや、でもあの名簿には、北岡様の名前なんて無かった」

「井寺、お前言ってたよな。北岡翔は、今主流となっているヒノボル上での活動を一切していないって」

「ああ、そうだ……って、まさか」

「ああ。北岡翔は芸名。本名は別だってことだろ」

「話が早くて助かるね」

 北岡はそう言うと、パイプ椅子の背もたれに身を預け、顎を前に出すようにして二人の方を見つめた。その横柄な態度からは、普段の謙虚な北岡の雰囲気が全く感じ取れない。

 だが井寺は、むしろこれをチャンスだと捉えた。ここで北岡まで味方に引き込むことができれば、生存者のほとんどを味方につけることになる。そうなれば、少なくとも生存者同士の殺し合いを止めることができる。

「北岡様、僕たちと協力しませんか」

「協力?」

「はい。僕たちには既に、ゲーム参加者の多くを仲間にしました。こうして全員が仲間になって殺し合いを止めれば、このゲームで死ぬ人は誰もいなくなる」

「なるほど、人は顔見知りを殺すことに躊躇する。だから全員が互いのことを知れば、これ以上の死者は出ない。そういうことか」

「その通りです」

「……停戦協定を結んで平和状態を維持するのはいい考えだと思うよ。でも、その考えってさ、穴が多すぎると思うんだけど」

「どういうことですか」

「さっき、生存者の多くを味方にしたと言ったよね。つまり、まだ全員とは会えていないか、誰に協力を断られたんでしょ。もし前者なら、二人は多分まだ安達勝也に会えてない。でしょ?」

「どうして、分かったんですか」

「僕が最初に君たちに頼もうと思ったのも、そのことだからさ」

「そのこと?」

「うん。――安達勝也あだちかつやを殺してほしいってこと」

 北岡からの予想外の発言に、井寺と桜井の表情が固まった。互いの殺し合いを止めて全員が生き延びる道を模索することには賛成しているのに、安達勝也だけは殺してほしい。この矛盾をどう処理すればいいのか、二人には分からなかった。

 二人が沈黙していると、北岡は口を真一文字にして考えこんだ後、ゆっくりと言葉を続けた。

「もう大体察しがついてると思うから話すけど、俺の本名は三木博みきひろし。二人とも知ってるかな? 十年前にあった、都内連続一家無差別殺人事件の唯一の生き残りなんだよね」

 そう言われて、井寺は記憶を遡り始めた。あの事件はセンセーショナルに報道されたので、当時まだ子どもだった井寺の記憶にも残っている。その記憶と三木が話してくれた内容を総合すると、事件の全貌が見えてきた。


 都内連続一家無差別殺人事件、十年前に世間を騒がせた大事件の通称。この事件では都内の広範囲で、ただ質素に暮らしていただけの五人家族が次々と惨殺された。家族全員が必ず皆殺しにされ、それは女子供でも例外はなかった。

 事件現場には多数の証拠が残されていたはずなのに、警察は一向に犯人を逮捕することができず、遂には三か月もの間に七件も事件が起こってしまう。そんな時、交番にとある高校生が逃げ込んできたことで、事件は突如として解決することになる。

 その高校生こそ、三木博だった。三木は血まみれの制服で交番に駆け込み、家族が男に刺されたと警官に告げて意識を失った。知らせを受けた警官はすぐに応援を要請し、三木が持っていた生徒手帳から家の住所を割り出して、多数の緊急車両と警察官たちが現場へ駆けつけた。

 誰もが、犯人は既に逃亡している。そう考えながら踏み込んだが、現実は違った。犯人は、被害者たちを自分の座るソファの周りに並べ、その様子をじっくりと観察していたのだ。父親は既に絶命している様子だったが、母親はまだ息があるようで、犯人に向かって必死に、娘だけは助けてほしいと懇願していた。

 だが犯人は、そんな母親を微笑みながら見るだけで、何のアクションも起こさない。警察が突入してきたというのに、慌てる様子もない。ただ穏やかな表情を浮かべながら、ゆったりとソファに座っている。異様な光景。そんな言葉では、到底説明がつかなかった。

 ともかく、こうして犯人は逮捕され、裁判では三木の証言が決め手となって、一審の段階で死刑宣告がなされた。犯人は裁判中も穏やかな表情で、特に反発することもなくその判決を受け入れ、拘置所に収監されることとなった。その犯人こそ、安達勝也なのだった。

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