第15話 サイン

「なあ、井寺。サインって、どうやって貰うものなんだ」

 北岡翔のサイン会に向かう道中、突然桜井が口を開き、何とも間抜けな質問をしてきた。井寺は思わず声を漏らし、足を止めてしまった。

「えっ、それ知らずに行くって言ってたの」

「当たり前だろ。俺は、芸能人の追っかけなんてやったことないんだ。北岡といか言う奴のファンでもないし」

「おいおい。歩はまなちゃんのためなら何でもやるとか言っときながら、まなちゃんの推しの一人も知らないのかよ」

「それくらい、当然知ってる」

「はあ? さっきは知らなそうな口ぶりだったじゃん」

「なに言ってるんだ、俺はまなのことなら何でも知ってる。まなの恩師は、山田先生だ」

「恩師の話なんてしてねえよ。推しな」

「十年位前に流行った、あの名作アニメの?」

「歩が芸能人の追っかけをしない理由が、なんとなく分かった気がする。とにかく、今は本屋さんに行こう。多分そこに、サインをもらう条件とかがポスターで出てると思うから」

「そういうものなのか。さすが、アイドルオタクはよく知っているな」

「アニメオタクに言われる筋合いは無い」

「オタクを馬鹿にするな」

「歩が先に馬鹿にしたんだろ」

 そんな犬も食わないような言い合いをしていると、いつの間にか件の本屋さんに到着していた。今飛ぶ鳥を落とす勢いの北岡翔のサイン会が開催されているだけはあって、お店の前には長蛇の列が出来上がっていた。

「おい、まさかこれに並ぶ気じゃないだろうな。あまりに人が……」

「ああ、少なすぎるな。こりゃあ、もう整理券とかの配布が終わってて、後からは参加できないタイプかもしれないな」

「……俺はお前と協力体制になれたことが奇跡だと思う」

「なに訳わかんないこと言ってるんだ。とにかく、まずは店員さんに話を聞いてみよう。ひょっとしたら、まだサイン会に間に合うかもしれない」

 そう言って井寺は、百人はいようかという人の波を掻き分けて進んでいった。桜井も、その後に続く。店の前にあれだけの列ができているのだから、さぞかし店内も込み合っているのだろうと思ったが、予想に反して店内には店員以外の姿がほとんど見られなかった。

「なんだ、ガラガラじゃないか。外の列が嘘みたいだな」

「まあ、今の時代に紙の本を買う人の方が少ないからな。もう、こういうサイン会に参加できるとかの特典が無いと、わざわざ本屋さんに来る人なんていないだろうな」

「俺、未だに部屋の中が紙の本で埋まってるんだけど」

「……歩、本なんて読むんだ。何読むの」

「ほとんどは新書かな。自分が知らない知識を学ぶと、成長してるって実感が得られるよな」

「勉強熱心なんだな。もっと育ちが悪いと思ってた」

「お前、今すぐ炎上したいらしいな」

「じょ、冗談だって。あ、それよりもほら、あの店員さんに話を聞いてみよう。出遅れたけど、まなちゃんのためにも、サインをもらうの諦めるわけにはいかないだろ」

 井寺はうまく話を逸らし、近くにいた女性店員に声をかけた。そしてサイン会への参加条件を尋ねたところ、北岡翔の写真集を三冊購入することだと判明したが、同時に既に写真集が完売済みであるということまで伝えられた。

 井寺は肩を落とし、桜井の方へ顔を向けた。そこには、むしろあの行列に並ばなくて済んだことを喜んでいるような、桜井の安らかな表情があった。

「歩。お前は、まなちゃんのためなら何でもするんじゃなかったのか」

「ああ。そのつもりだったが、写真集が完売となってしまっては仕方がない。ここにいても時間の無駄だ。早急に帰ろう」

「そんな簡単に諦めていいのかよ! 愛しいまなちゃんからの頼みを、そんなに簡単に諦めていいのかよ」

「なにが言いたいんだ」

「俺に考えがある。その作戦を実行するためには歩、お前の協力が必要だ」

「お前の考えなんて、嫌な予感しかしないんだが」

「俺に任せろ。とにかく、このサイン会が終わるまで、どこかで時間を潰そう」

 桜井はなにやらつらつらと文句を垂れていたが、井寺は一切取り合うことなく、近くの喫茶店に移動した。そして本屋の様子がよく見える位置のテラス席を確保し、優雅なコーヒーブレイクの時間を楽しみ始めた。

「井寺。サイン会に参加するぐらいならゲームを止めるために動きたいと言ったお前が、何故参加できないサイン会が終わるのを待っている。それは所謂、矛盾というやつじゃないのか」

「まなちゃんのために何でもすると言った歩が、写真集が完売しているだけで帰ろうとし、あまつさえ安堵の表情を浮かべている。お前、人のこと言えないだろ。まあ、落ち着け。すべて俺に任せておけ。何も心配はいらない」

「お前の考えた作戦というだけで、心配しかない」

「それより歩、作戦のために練習といこう」

「練習?」

「取り敢えず、あのレジにいる女の子を口説いてきてくれ」

「……まさか、お前の作戦って」

「これもまなちゃんのためだ。歩言ってたよな、まなちゃんのために自分にできることは何でもやるって」

 そう言って井寺は、あまりにもわざとらしい作り笑顔を桜井に向けた。桜井は井寺のことを思い切り睨みつけたが、井寺は表情一つ動かさない。そうした膠着状態がしばらく続いた後、桜井は深い溜息をついた後、まだ頼んだドリンクも来ていないのにレジへと向かった。

 井寺は桜井が席を立ってすぐに届いたホットコーヒーを片手に、桜井とレジの女の子とのやり取りを見守った。最初は表情の堅かった女の子だったが、時間を経る度にどんどん柔和な表情となり、最後には紙ナプキンに何かを書き殴って桜井へと手渡した。

 それを受け取ると、桜井は頬を赤らめながら席に戻ってきた。そして井寺の方にその紙ナプキンを差し出し、気恥しそうに顔を逸らしてから、頼んでおいたオレンジジュースを一気に飲み干した。

「まさかこれ、あの子の電話番号か」

「ああ」

「やっぱり、悪い男の方がモテるって言うのは本当なんだな」

「協力が必要って言ったのは、そういうことか」

「眉間に皺を寄せても、何も怖くないぞ。まずは、そのリンゴのように赤いほっぺたをどうにかするんだな」

 井寺がそう言うと、桜井は再び顔を逸らした。

 そうして何とも気まずいコーヒーブレイクで二時間ほど時間を潰すと、本屋の前にあった行列は消え失せ、店内に十名ほどの人影が見えるだけとなった。

「サイン会って、こんなに時間がかかるものなのか」

「北岡翔のサイン会は、ファン一人一人としっかりとコミュニケーションを取とることで有名だからな。まあ、だからヒノボルのアカウントが無くてもあれだけ人気なんだろうが。それより、早く行くぞ」

 そうして井寺は徐に立ち上がり、まずはカフェの会計を済ませ、再び本屋の方に戻った。そして先ほどサイン会の参加条件を尋ねた女性店員を探し出し、桜井をけしかけて口説かせる。桜井にはナンパの才能があるのか、これまた女性店員と親しくなることに成功した。

「今日は、何時までバイトなんだい」

「きょ、今日は閉店までいるんです。ごめんなさい」

「いや、構わないよ。それじゃあ、バックヤードに入れてくれないかな。君と過ごす時間を、少しでも長くとりたいからさ」

「で、でも……バレたら店長に怒られるし」

「こんな素敵な女性が懸命に働いている姿は、さぞかし美しいんだろうな。そんな姿を見てしまったら、きっと僕は心をときめかせてしまう」

「すぐにご案内します」

 こうして桜井はバックヤードにうまく潜入し、隙をついて井寺も中に誘い込むことができた。

「なんとか、サイン会が終わるギリギリのタイミングで潜入できたな。後は、北岡様の控え室を探すだけだ」

「はあ、本当にこんなことして大丈夫なのか」

 ノリノリの井寺に桜井が苦言を呈すると、井寺にとっては聞き馴染んだ、しかし桜井にとっては全く聞いたことのない声が聞こえてきた。

「いいわけないよね。ここ、関係者以外立ち入り禁止なんだけど」

 二人が振り返ると、そこには北岡翔とその付き人である今水木大五郎いまみずきだいごろうの姿があった。北岡の姿を見た井寺は微笑みを携えながら一先ず握手を求めたが、隣にいた今水木によって跳ね飛ばされてしまった。

「痛いな。なんだよ、何も突き飛ばさなくてもいいだろ」

「師匠に気安く触れようとするな。ファンサービスが欲しいなら、ちゃんとルールを守れ」

「いいよ、ごろちゃん。ちょっと羽目を外し過ぎっちゃっただけなんだからさ。二人共、もうこんなことしちゃ駄目だよ」

 そう言い残し、北岡は二人の間を通り抜けて関係者通路の奥へと進んでいった。

「待ってください、そんなにお時間取らせませんから。ここに井寺良平さんへって書いて、サインしてほしいだけなんです。こっちも、桜井まなちゃんへって書いてサインしてほしいだけなんです。お願いします」

 井寺がそう叫ぶと北岡は足を止め、素早く踵を返して二人に正対した。

「ごめん、よく聞こえなかった。もう一回、君たちの名前教えてくれる?」

「不肖、井寺良平であります」

「俺は、桜井歩。でも、サインを欲しがっているのは病気でここに来れなかった妹です。来れなかったことを不憫だと思うなら、ぜひサインをお願いします」

「二人は、どういう関係なの」

「勿論、友達です」

「今だけ仕方なく一緒に行動してるだけの、ビジネスパートナーみたいなものです」

 桜井の冷めた答えに苛立った井寺が掴みかかろうとしたところ、北岡が大きな声で笑いだした。突然ことに驚く井寺と桜井だったが、その後の一言には更に驚かれた。

「分かった。サイン、書くよ。二人とも、僕の後についてきてくれる?」

 そう言って北岡は再び歩みだし、その後ろを井寺は意気揚々と、桜井はそんな井寺から半歩ほど引いた位置を普通に歩きながら追いかけた。

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