第14話 平和な時間
井寺は、心から安堵していた。
ゲームを止めたいと思って行動してから一度も、彼は誰も救ったことが無かったからだ。ゲーム参加者に会えても、炎上が始まれば一度も止めることができなかった。ただ燃えていく人を見て、見送る事しかできなかった。
それが今、確実に炎上を止めて、一人の命を救うことができた。もっとも、井寺が直接炎上を止めたわけではないが、それでもよかった。ヒノボルの中には、ちゃんと良心的な人たちがいる。人間に対する信頼が揺らぎ始めていた井寺にとって、これはなによりも嬉しい報告だった。
「……
井寺の腕の中で小さく縮こまっている中峰海が、小声でそう告げてきた。
中峰和美――まだヒノボル運用前の匿名SNSの時代、不倫報道で炎上し、朝のニュース番組の生中継で自らに火を点けて死ぬことを選んだ女性。あのニュースは世間を震撼させ、日本政府をヒノボル運用に動かした。
そうしてその後の一年間、非匿名性SNSのヒノボルによって、誹謗中傷の全く無い平和な世界が実現した。だがそれは、とある人物の登場で脆くも崩れた。
ジャッジメント田崎。非匿名性SNSのヒノボルにおいて、唯一偽名登録であることが明示されているアカウント。このアカウントが政治家や警察官僚の不祥事をマスコミ各社よりも早く取り上げ始めたことで、人々はその投稿に注目し、投稿の中に出てくる人物への攻撃を開始した。
事実に基づいた批判だから。
こいつらは悪人だから。
様々な言い訳が散見されたが、結局攻撃を介した人々の行動は、前時代的な誹謗中傷と何ら変わりがなかった。むしろ社会正義という大義名分を得た分、その攻撃の鋭さが増しているようにさえ思えた。
一時はジャッジメント田崎の投稿で起こった炎上に加担することで、自分は社会のために貢献しているとアピールできると考えた就活生たちが、就職活動の一環としてヒノボルへの炎上加担投稿を行うという事態にまで発展した。当然この動きはその後に下火となったが、悪人を懲らしめるために精神的に追い詰めようとする文化は残った。
もちろん、それでもヒノボルは過去にあった匿名性SNSに比べて圧倒的に誹謗中傷の数が少ない、比較的安全なSNSであることに変わりはない。悪人でなければ、炎上することはないとさえ言われている。
それでも、最近はその悪人の基準が徐々に下がってきているように思える。犯罪者だけでなく、日常生活で過失的に起こしてしまったモラルに反した行為でさえ、まるで人殺しでもしたかのように過剰な攻撃を受けている。
中峰和美が最後に伝えたメッセージは、もう人々の心から忘れ去られている。そう思えてくるような現状が、今の日本には広がっていた。そして、それが井寺や桜井、海を苦しめることとなっている。
「中峰さんがずっと匿名のSNSで活動を続けたのは、お姉さんのことがあって、名前や顔を出すことが怖かったのか。そんなことも知らずに俺は――本当に、ごめん」
「井寺さんが謝る必要はありません。結果的に、私は助かりました。それに、あれ以来ずっと信じられなかった人間というものを、少しは信じてみてもいいかもしれないと思えてます。井寺さんのおかげです、ありがとうございました」
「そんなことない。中峰さんが、ファンを大切に思って活動を続けてきたからだよ。ファンとの絆を育み続けてきたから、それが今花開いたんだ。全部、中峰さんの力だよ。でも……今度からはもう少し我儘を言ってみても、人に頼ってみても、いいんじゃないかな」
井寺がそう言うと、海はこちらを真っ直ぐ見つめながら、大粒の涙を流し始めた。誰かの前で泣くのは初めてなのか、それとも誰かの前で泣くことは悪いことだという呪縛に縛られているのか。海は泣き始めてすぐに体を捻り、井寺のお腹に顔を埋めた。
海にとっては永遠とも、一瞬ともとれるような奇妙な感覚を起こす出来事だっただろう。しかし実際は、あの炎上騒動があってから三十分程度が経過している。そんな長時間の間、海は自分が死ぬかもしれないというカウントダウンを聞き続け、それでも出来るだけ感情を押し殺していた。周りにいる人を巻き込みたくないと考え、家を出ようとさえした。
井寺には、そんな海の優しさが痛いほど伝わっていた。いや、きっと桜井兄妹にも伝わっていたはずだ。だから海が再び顔を上げるまでは、誰も言葉を発しなかった。
静かに時間だけが流れるが、そこに時を刻む音は聞こえなかった。
「はあ……ふぅ。皆さん、ありがとうございました。もう、大丈夫です」
「本当に大丈夫? 俺はいつまででもこのままでいいけど」
「井寺さん、どさくさ紛れにうみちゅい様のことを口説こうとしていませんか」
「そんなわけないじゃん」
「いや、あいつのことだ。まなが駄目と分かったから、早々に標的を変えた可能性はあるな。中峰さん、だったか。こいつには、気を付けたほうがいいよ」
「ふふ、はい。会うときは警戒するようにしますね」
「中峰さんまで……冗談きついよ、ほんとに」
井寺は肩を落とすジェスチャーをしながらも、その口角は上がっていた。海やまな、桜井もそれを見て更に囃し立てている。さっきまで静かで、絶望に包まれていた家の中に、日常が戻ってきた。井寺には、そう感じられた。
「あ、今ならみんなに頼み事しても聞いてもらえるかも」
そんなほっこりした空気感の中、まながあっけらかんとそう言って、ベッドの脇に置いてあったサイン色紙を掲げた。
「サイン貰ってきて」
「え、まなちゃん。さっき中峰さんからサイン貰ったでしょ」
「うん、うみちゅい様のサインはさっき貰った。世界に一つの私の大切な宝物だから、大事に、厳重に保管しておくんだ。そうじゃなくて、今度は皆にイベントに行ってほしいの。私の代わりにね」
「あのまなちゃん、俺たち今それどころじゃ――」
「どこであるんだ、そのイベントは」
井寺がまなの願いを却下しようとしたところ、横から重度のシスコンである桜井が話に割って入り、誰にことわりを入れるでもなく、全員がイベントへ出向く方向で話を進めた。
「新宿の本屋さんに、写真集の発売を記念して北岡翔様が来てサイン会するんだよ!」
「分かった。今すぐに行こう」
「おい、勝手に話を進めるなよ。俺はまだ、行くって言ってないぞ」
「私だって、そんなところに行くのはごめんよ」
「え……行ってくれないんですか」
勝手に話を決めた桜井に文句を言う井寺と海だったが、まなからつぶらな瞳で見つめられたことで、その口を閉ざして家の外に出た。
「おい歩、俺たちこんなことしてる場合じゃないだろ。早くゲームを止めないと」
「俺たちが生と死のギリギリを綱渡ししているように、あいつだっていつ死ぬか分からない恐怖に怯え続けてるんだ。体調の問題でもう外に連れ出すことはできない。なら、俺が代わりにできることは何でもやる。俺は、あいつのために生きる」
そう言う桜井の目には、覚悟が見てとれた。だから井寺も、それ以上何も言わなかった。
「ごめんなさい。やっぱり、私は帰る」
二人の少し後ろを重い足取りで突いてきていた海が、突然足を止めてそう言った。
「中峰さん……」
「無理もない、あんなことがあったんだ。あんたは早く家に帰って、休んだ方がいい。妹のために色々巻き込んでしまった。申し訳ない」
「いえ。私もどうしたらいいか分からなかったから、こうして信頼できそうな人たちと出会えてよかった。私たちが協力すれば、このゲーム、絶対止められるよね」
「……ああ、絶対止める。俺は妹のために、このゲームを止めなきゃいけないからな」
桜井がそう言うと、海は安堵したよう微笑んた後に踵を返し、二人とは反対方向へと歩いていった。
「あの、歩さん? 俺はもう行く感じの流れになってる気がするんですけど」
「当たり前だ」
「行きたくないって言ったら、どうする」
「お前、北岡翔のファンじゃなかったのか。それとも、あれは俺たちに近づくための噓か」
「いや、本当だけど。それよりもまずは、ゲームを止めることの方が大事で――」
「一応、色紙は二枚持ってきたんだがな」
「お供させていただきます」
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