第8話 救世主

 都内にある、もはや絶滅危惧種と言っても過言ではない昔ながらのアーケード街。井寺はその真ん中に立ち、ある人物を待っていた。

 周囲を見渡す。そこには、お客さんと楽しく話す八百屋のオジサンや初めてのおつかいに挑戦中の子ども、今日の生活費のために必死に声を上げてアピールしている魚屋の店主の姿がある。

 井寺は、そんな光景に愛おしさを覚えていた。ネットでしか通じていない友人の方が多くなった昨今では、こうした対面でのコミュニケーションに憧れを持っている部分もあった。だがそれ以上に、このありふれた日常のありがたみが、今の井寺には痛いほど分かった。

 明日も同じ場所に店があり、同じ店主が出迎えてくれる。これがどれほど尊いことか、いつ明日が来なくなるかも分からない井寺には、よく分かった。

「ああ、井寺さん。どうしたんですか、こんなところに呼びだして」

 そんな風に考えていると、背後から声が聞こえてきた。どうやら、待ち人がようやくやってきたようだ。井寺がゆっくり振り返ると、そこにはいつもと同じ風貌の木村の姿があった。服装まで同じなので何日か着替えられないほど忙しいのかとも思うが、特に嫌な臭いがしてくるわけでもなく、清潔感には気を遣っているようだ。

「いえ、あの集合場所が燃えてしまったので、新しい場所を決めておこうかと思ったんです」

「それにしても、こんなに人通りの多いところでは、あんな物騒な話できませんよ」

「その点はご心配なく」

 そう言うと井寺は、木村に背を向けて歩き始めた。木村は少し首を傾げながらも、渋々後をついてきた。しばらくアーケード街のメインストリートを歩いた後、井寺は突然右に曲がった。

 そこはいわゆるシャッター街と言われるようなところで、先ほどまでとは打って変わって、静寂に包まれていた。メインストリートでの賑わいが噓のように、まるで周辺の世界から取り残されたように。

「もともとはあの商店街もここまで賑わっていたらしいんですが、流石に時代には勝てなかったという事なんでしょうね。時が流れれば、いつか終わりが来るものです」

「……なんだか、いつもと様子が違うようですね。井寺さん、なにか言いたいことがあるのなら、はっきりと言って頂きたいんですが」

「では、単刀直入に言います。木村さん、警察手帳を見せてください」

 井寺の言葉に応じて、木村は胸ポケットから警察手帳を取り出し、その表面に書かれている旭日章きょくじつしょうを見せた。

「まさか、私が本物の警察官かどうか疑っていたんですか。馬鹿馬鹿しい。私は井寺さんに、警察署の中で話しかけたんですよ。それに、警察しかアクセスできないような情報も持っている。一体、どうしてそんな疑いを持ったんですか」

「僕が見せてほしいのは表紙ではなく、中身です」

 井寺のその言葉を聞いて、木村の動きが止まった。それまでの勢いや雄弁さは姿を消し、静かにこちらを見つめている。

「どういうことでしょうか」

「ですから、開いて中身を見せてください。刑事ドラマの知識ぐらいしかないので本当かどうかは知りませんが、中身には顔写真と名前が書いてあるはずです。そこを見せてください」

「……個人情報なので、お断りします」

「警察官は求められれば、身分を明らかにする必要があると聞いたことがありますが。あれも、フィクションの世界だけに通じる噓なんですね」

 井寺が木村を睨みつけながらそう言うと、木村は大きく息を吐いて肩を落とし、観念したように警察手帳を開いて見せた。そこには木村の顔写真と、氏名が記載されていた――佐藤文吉さとうふみきちと。

「やはり、あなたが橋野基薫さんを炎上させた張本人でしたか」

「はあ。どうして分かったんですか」

「最初のきっかけになったのは、あのゲーム開始のメールを他の人に転送しようとした時です……できなかったんですよ。あのメールには何か特殊な仕掛けがされているようで、他人に転送することができなかったんです。俺ができないということは、おそらく他の人も同じでしょう。であれば、あなたがこのゲームのことを知るきっかけになったという、人体発火の被害者遺族がそのメールを転送してもらっていたという話は、噓だということになります」

「なるほど。なのにゲームの内容を知っているということは、ゲームの参加者の可能性が高いと考えたわけですか。でも、それだけでは偽名にまで気付くことはできませんよね」

「そこは運が良かったです。最初に店を訪れた時は気付きませんでしたが、あそこでは、以前のアルバイト先で一緒だった女子大生が働いていました」

「あのコンビニ炎上の時に一緒だった子ですか」

「はい。コンビニが燃えた後、すぐにあのカフェでアルバイトを始めたそうです。だから、裏事情を教えてもらうことができました。薫さんは、店長がカフェのお金を横領している証拠を掴んだ。だが店長も、薫さんが美人局をしている証拠を掴んだ。そのせいで、互いが互いに手出しできない緊張状態にあった」

 そこまで話したところで、佐藤は手を叩いて笑い始めた。

「まさか、その話を信じるんですか。その話が本当だとして、どうして薫さんはアルバイトを始めてすぐの、信頼関係の欠片もないその女子大生にそんな重大な話をするんですか。おかしいですよね。私ならむしろ、その女子大生を疑いますがね」

「いえ、むしろ信頼関係が無いからこそ話せたんでしょう。店長と繋がっている可能性が低いその子なら、自分の裏工作が明るみに出ることはない。薫さんは、そう考えたんでしょう。それに、その問題はもうすぐ解決するはずだったんですから」

 井寺のその言葉を聞き、佐藤が一層険しい表情となった。

「もう誤魔化せませんよ、佐藤さん。あなたは僕が富摩さんと会っている間に、薫さんと接触しましたよね。そして、こう持ち掛けたんじゃないですか。あなたの美人局には目を瞑るから、店長の横領の証拠を渡してほしいと。薫さんからすれば、あなたは救いの手を差し伸べてくれる救世主に見えたことでしょう。でもあなたの本当の目的は、ゲーム参加者であることを突き止めた薫さんの命を絶ち、自分の勝率を上げることだった。だから横領の証拠を持って、今度は店長へ接触した。薫さんとは、真逆の条件を提示して。こうしてあなたは薫さんを炎上させる材料を手に入れ、それをヒノボルに投稿した。違いますか」

 井寺が話し終えると、佐藤は大きく手を叩いた。

「あーあ、完璧な作戦だと思ったんだけどな。まさか当事者が、自分の後ろめたい話まで含めて他人に話すなんて、思わないだろ。普通隠すだろ。せめて、店長が逮捕されるのを見届けるまではさ」

「あの時注文を取りに来た薫さんが硬直したのは、店長を逮捕しに来たはずのあなたが、すぐに退店すると言ってきたからですね」

「ああ、多分そうだろうな。このまま全部話されたらどうしようかと内心焦ったけど、あんたが俺のことを木村さんって呼んでくれたから、他人の空似だって思ったんだろうな」

 井寺は唇を嚙み締め、拳を強く握った。やり場のない怒りをどう処理すればよいのか、分からなかった。

「どうして……どうしてこんなことを」

「どうして? こんな状況で、自分が助かるため以外の理由が必要あるか」

「俺は、彼女を助けるためにこのゲームを止めたいんだ。佐藤さん、あんただってゲームを止めたいって、そう言ってたじゃないか。なのにどうして、わざわざ死人が出るように仕向けたりしたんだ」

「あんた、つくづく馬鹿だな。俺は最初から、俺が生き残ること以外考えてないよ。あんたを富摩に会わせたのだって、こんな状況で協力体制なんて結べるわけもなく、お互いがお互いを炎上させようとして、二人同時に消せると思ったからだよ。そううまくいかなくても、あんたはすぐに死ぬと思っていたよ」

 井寺の心には、暗く分厚い暗雲が立ち込めていた。もう立ち上がれないかもしれないとさえ思うその重圧感は、いつの間にか井寺から冷静な思考能力を奪っていた。いや、あるいはもっと前から立ち込めていたのかもしれない。嫌なものを見たくないと思う井寺の心が、それを見て見ぬ振りしただけで……。

 ともかく、井寺は冷静ではなかった。だから人の命を平然と奪える佐藤の前に何の策もなく対峙し、人通りのないところへ自ら案内までしてしまった。その愚かさに気付いたのは、井寺への誤魔化しを諦めた佐藤が、懐から拳銃を抜く姿を見た時だった。

「な、なにをするつもりですか」

「決まってるでしょ、あなたを殺します。幸いあなたは、あのコンビニ炎上の一件で警察からマークされたことがあります。それなら、実はあなたが放火犯だったと私が突き止め、それを追及されて逆上したあなたをやむなく射殺した、というストーリーが成り立ちます。付近には人通りの多い商店街もあり、多数の市民を巻き込むような危険が予想された。これで、問題になることはないでしょう」

「また噓をつくんですか」

「大切なのは、本当のことを話すことではありません。周りの人が、本当だと信じてくれることです」

 銃口を真っ直ぐこちらに向けて、にじり寄る佐藤。井寺に対抗する術はなく、ただ目を閉じて、岬への謝罪の念を考えながらその時を待つことしかできなかった。

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