第5話 笑顔の男
平日の毎朝八時。富摩グループの会長である私が住むにふさわしい、この都心の一等地にある高級タワーマンションには、これまた私にふさわしい黒塗りの高級車が止まっている。その横には、私が尊敬してやまない老紳士が、私の到着を心待ちにしている。
彼は私が来ると、入り口の自動扉が開くまで深々と頭を下げ続け、その開閉と同時に素早く体を翻して、後部座席の扉を開ける。この間も、常に頭は下げたままだ。その俊敏さは年齢には釣り合わず、全盛期のその活躍ぶりを思わせるものがある。
「ご苦労様です」
この言葉は、私が尊敬する老紳士の今日一日の仕事が全て終わったことを意味する。老紳士はかしこまった態度で礼を述べると、そのまま私と目を合わせることもなく、そそくさと姿を消した。
毎朝、私を迎えに来る車の扉を開ける。その仕事だけで給料を貰っていることに、少し引け目を感じているのかもしれない。
「会長、いつまであんな人を雇い続けるつもりですか。いくら先代の右腕だったとはいえ、毎朝会長が乗る車の扉を開けて見送るだけで月収四十万円なんて、無駄遣いが過ぎますよ」
「仕方がないだろう。あの人は守り神だ。いないと、会社はたちどころに倒産するだろうな」
「そんな馬鹿な話がありますか」
「君、秘書だからって、あまり私に意見しないでくれるか。君と私では、住んでいる世界も見えている世界も、なにもかもが違うんだ。凡人との会話ほど、無駄な時間の過ごし方はない。それとも、今ここで路頭に迷いたいのか」
「ああ、はいはい。分かりましたよ。それで、今日はどこに出社されるんですか」
明らかに不貞腐れた態度をとる秘書の鈴木だが、これ以上こんな会話を続けたところで不毛なだけである。だからそのことに関しては不問とし、鈴木の質問に端的に答えた。
「さて、今日は長男の働きぶりでも拝みに行こうかな」
「かしこまりました」
そう言って鈴木が車をゆっくり発進させると、私はいつもの日課に取り掛かった。カバンからタブレット端末を取り出して、全国紙から順にニュースをチェックする。私は特に意識したことが無いが、傍か見れば読み進めるスピードがとても速く、タブレット端末の画面についた汚れを指でこすり落とそうとしているようにしか見えないと驚かれる。
「いつも思いますけど、そのスピードで本当に読めるんですか」
そう、鈴木もそういった類のことを言ってくる輩の一人だ。私からすれば、この程度もできずにどうやってこの情報社会で生き残っているのか、そう尋ねたい気持ちで一杯だ。
だが尋ねたところで、こんなくだらない質問をしてくる人間たちから有益な話を聞ける訳がない。だからこれ以上話しかけてこないよう釘をさす目的で、相手に渾身の嫌みを言い放つのだ。二度と会話したくないと思わせるような、渾身の嫌みを。
「君たちのような凡人にはできなくても、私にはできる。凡人はのんびりと生きることが許されるが、私のような選ばれた人間には、そんなことは許されない。常に超スピードで動き、結果を出して社会に貢献しなければいけない。そうでないと、大多数の凡人が野垂れ死にするからね」
勿論こうして話す間も、私の手が止まることはない。五分足らずで一紙目を読破し、間髪入れずに二紙目へと突入する。
そうして今朝報道された国内全てのニュースに目を通し終えると、丁度私の長男である
「裏の駐車場から入られますか」
「いや、今日は孝彦の父親ではなく、富摩グループ会長として出向く。正面入り口から堂々と入るから、凡人は車でも止めておけ」
「かしこまりました」
鈴木に指示を飛ばすと、スモークガラスで自分の姿を確認しながら、首にかかる朱色のネクタイを再度締め直した。これは先代から受け継いだ形見のネクタイで、私にとって、何にも代えがたい宝物である。
先代の築き上げた会社を守り、やがてはこれを長男の貴彦へ譲る。それだけを夢見て、今日までの人生を歩んできたと言っても過言ではない。
そんなことをしみじみと思っていると、私の耳に、なにやら若者の叫び声が聞こえてきた。そちらの方に目を向けると、警備員と一人の若者が揉みあっているのが見える。
「
「だから、駄目だと言っているだろう。貴様のような小僧が、何の気なしに会える人間じゃないんだ。さっさと帰れ」
まだ、あの若者が何者か分からない。私は鈴木に車を止めるよう命じ、安全を確認するまでしばらく若者の動きを観察することにした。
「ライバル会社の御子息でしょうか、あるいは先日懲戒解雇にした社員の家族という可能性も」
「この人格者の私に、復讐などというお門違いな行為の手が及ぶわけがないだろ」
そんな馬鹿げた話をしている時、耳を疑う言葉が聞こえてきた。
「あの人だって、焼け死ぬのは嫌に決まってるだろ」
……なるほど。彼もまた、私と同じ運命にある人間のようだ。だが、敵意は感じられない。ひょっとしたら自分の運命に悲観し、この私に助けを求めに来たのかもしれない。そう言った凡人は、利用価値があることもある。
「鈴木」
「はい」
「あの若者に会いに行くぞ」
私がそう言うと、鈴木はすぐに車のエンジンを切って、車を降りた。そして正面入り口に近づきながら、さり気なく暴れる若者と私の間にいつでも割って入れる立ち位置を取った。さすが、こういう事にはよく気の回る男だ。
「そこの少年、私に何か用ですか」
「と、富摩会長。わざわざご足労頂き、ありがとうございます」
「あ、あなたが富摩さんですか。俺、井寺良平って言います。ちょっとお話したいことがありまして」
私の存在に気付いて深々と頭を下げる警備員たちとは対照的に、井寺と名乗るこの若者は、私を真っ直ぐ見つめている。見たところ、年の功は二十代後半といったところのようだが、中々年齢に見合わない気概を持っているように見受けられる。
あるいは、もし今名乗ったのが嘘偽りのない本名なら、この状況を何も理解できていない間抜けなのかもしれない。どちらにせよ、この若者に危険はない。なら、ビルの中でゆっくりと話を聞こう。
「どうぞ中へ。話はそこでお伺いします」
若者はビルの中で何かを目撃する度に感嘆の声を上げている。ひょっとすればまだ社会経験の大して無い、フリーターなのかもしれない。
そんなことを考えながら歩き、ビルの三階にある応接室へ若者を案内した。そして若者にソファへ座るよう促し、鈴木にはお茶を用意させた。こちらも敵意が無いことを示すためだ。凡人との無用な争いは避けたい。
「それで、私に用というのは何でしょうか」
「富摩社長」
「……私は、会長です。ここで富摩社長と言うと、私の息子のことになってしまいますよ」
「あ、これは失礼しました。富摩会長。会長は以前、区役所が公募していた実験に協力したとネットニュースで拝見しました。そこで確認なんですが、その実験というのは、体内に機械を埋め込むような――」
やはり、凡人に主導権を持たせると話が長くなる。貴様らはそれでよくても、私にはそれが許されないのだ。すべては端的に、スピーディーに終わらせなければいけない。知りたい情報だけを、端的に尋ねることこそ、この情報社会のスピードについていく秘訣なのだ。
「あなたは私の敵ですか、味方ですか」
私がそう尋ねると、想像通り、若者は慌てふためいた顔をしている。
「井寺さん、と言いましたか。まどろっこしいのは抜きにしましょう。君は数日前に届いた、ネットで炎上すれば人体発火を起こすという、あの奇妙なメールについて何か知っているんですよね。教えてください」
「……俺は国道一号線で達磨初四郎が乗った護送車の爆発炎上も、目の前でバイト先の店長が燃えるのも見ているんです。店長が燃えた時は、どこにも火の手が上がるようなものなんてなかった。あのメールに書いてあることは、本当です」
メールの内容については半信半疑だったが、この若者が二件も目撃したというのなら、おそらく本当なのだろう。後の問題は、今後の私の立ち回り方を決めるだけだ。
「それで、私にどうしろと」
「俺と協力して、このゲームを止めましょう。俺には他にももう一人、木村っていう刑事の仲間がいます。全員で協力すれば、きっとこのゲームを止められると思うんです」
この男は、ゲームを止めたいのか――それなら、私の答えは決まった。
「……なるほど、そういうことですか。分かりました、協力しましょう」
若者の方へ手を差し出すと、愚かな若者は狂喜乱舞しながらその手を取り、涙を流しながら感謝の意を伝えてきた。私はその間も笑顔を崩さないよう心掛け、若者の背中を見送るその時まで、自分は味方であることをアピールし続けた。
――当然、若者が消えてすぐに、その笑顔も消えた。
「あいつ、あの出来損ないに似てるな」
「四男の敦さんですか」
「あんな奴の名前を出すな! とにかく、お前はあの井寺ってやつの後をつけて、ヒノボルの炎上で殺せ。勿論、相方の警察も巻き込めよ」
「井寺君を、裏切るんですか」
「最初から協力するつもりなんてねえよ」
あんな凡人と協力しても、私にとっては何のメリットもない。それなら、私がこのゲームの主導権を握り、他の参加者を全滅させる。そして一人生き残り、炎上メーターを停止させる。それが、最も合理的だ。
どれだけ倫理的に許されないことでも、必要ならする――それが、私がこの世界を生き抜いていくうえで学んだ、最も大切なことだ。
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