52 ガルーシュ伯爵領へ⑤ ~逃亡~

エマは、ひっそりとテントの中で一人で涙を流し嗚咽を堪えながら、全ての状況を目撃していた。


(決して目を離してはならない。決してこの状況下から目を逸らしてはならない。皆ただ私の為だけに命をかけて散っていった)


ノアと呼ばれる魔族は、兵士エマを追って姿を消した。話を聞いていると、どうやら、村人たちと魔族は繋がっているのだ。ここにいるのは危険だ。早く逃げないと。


あれだけ心を通わせる交流をしたのにもかかわらず、村人たちに裏切られるとは。本当に辛いが、これが今のエルフ族国の現状だ。悲しみと悔しさで歯噛みをしながら、周囲を警戒しながらテントを脱したのだが、そこには状況を確認しに来ていた村人と遭遇してしまった。


(しまった!!!)


「エマがいるぞ!!!ここにいるぞ!!みんなここだ!!!」


私は必死になって、自分の持ち物も何も持つこともなく、着の身着のままで村の外へと飛び出した。


広大な草原を私はただ一人走っていた。青々とした草が風にそよぎ、星月が空に輝いていた。私はその草原に一人裸足で走っていた。風が私の肌を撫で、草の感触が足の裏に広がっていた。胸の鼓動が速まり、汗が額から滴り落ち、涙が眼から溢れてくる。


エマの後ろから村人たちの叫び声が聞こえてきた。彼らはエマを追いかけている。彼らは怒りと恐れに満ちた表情を浮かべ、村を逃げ出した彼女を捕まえようと必死であった。


(魔力のある貴族の私を、魔力がほとんどない村人が追い付くなど、ほとんど有り得ない。そんなことは子供でも分かっている。それにも関わらず、村人たちがそこまで必死ならなければならない様子を見ると、考えうるに魔族に脅されているのかもしれない。彼らもまた、被害者なのかもしれないわ)


そんなことが脳裏を過ぎりながら、エマは全力で草原を駆け抜けた。足元の草が彼女の肌を刺激し、時折石が足に当たって痛みが走った。目の前の風景が涙で霞む。しかしエマは逃げ続けた。止まるわけにはいかない。風が私の髪を乱し、空気が肺に刺さるようだったが、エマは踏ん張った。


村人たちの叫び声がだんだんと遠くになっていく。エマの足は草原を駆け巡り、体は汗と泥でドロドロになっていた。時折、彼女はつまずきそうになったが、何とか立ち上がり、逃げ続けた。


眼が届く限り草原が広がる中、獰猛な野獣たちの存在が遠くに感じられた。遠くから聞こえてくる吠え声がエマの耳に届き、心臓の鼓動を速めた。涙が頬を伝う。護衛の兵士たち皆、命を散らした。彼らの為にも生きなければならないが、彼女にはもう生きる術は残っていないかもしれない。そう思うと、情けなさと悔しさで再び目に涙があふれてくる。


警戒を強めながら野獣との遭遇をなんとか避けながら、エマは小さな川のほとりで休憩することとした。川の水は清冽で、彼女は渇いた喉を潤し涙で溢れる目を洗った。心機一転ここから頑張るしかない。劣勢でいることなど遠の昔に分かっていたことじゃないか。そう自分を奮起させていた、そのとき彼女の後ろから低い唸り声が聞こえた。エマはすかさず立ち上がって、いつでも戦えるように警戒を増した。


低木の陰から、巨大な獰猛な獣が姿を現した。それは毛並みの黒い熊で、黄金の瞳がエマを睨みつけている。彼女は恐怖に心臓が締め付けられたが、逃げなかった。背を見せて逃げれば、確実にやられる。そんな気がする。


その熊は毛並みが茶色で、恐ろしいまでに筋肉質だった。エマは足を軽くステップをし、自分が恐怖で動けないことはないことを確認し、両手に魔力を集中させ臨戦態勢になった。慎重に熊に相対しながら、熊の突貫に対処するべく少しずつ後退した。熊は低い唸り声を上げ、エマが後退するごとにゆっくり前進して迫ってきていた。


エマの心臓は激しく鼓動し、冷や汗が額から流れていった。しかし、彼女は恐怖に負けず、冷静さを保った。熊が襲ってきた瞬間、エマは手を振りかざし、熊に向かって叫び、必死に反撃を試みた。熊の荒々しい爪撃を、両手で防ぎ、熊の伸びた腕の下を滑りこんで、熊の懐まで潜り込んだ。熊の体に向かって猛突進して、片方の手でわき腹辺りを突き刺す。熊は咆哮し、エマに向かって巨大な掌を振り下ろしてきた。彼女はその攻撃を躱し、熊の体に少しでもダメージを蓄積させようと魔力で纏った手足を振り回し、小さな切り傷を熊の体に増やしていった。


戦いは更に激しさを増していった。エマは噛まれたり、爪で深い傷を負ったりしながらも、決して諦めなかった。否、諦められなかった。こんなところで死んでたまるか!!熊もまた執念深く、その力強い体を使ってエマを攻撃してきた。しかし、彼女の生きる意志は決して揺ぐことはなかった。


巨大な獰猛な熊との戦闘は、壮絶な生存闘争へと発展した。草原を照らす月と星の光が、戦場を照らし出した。エマは両手、両足に魔力を発現させて立ち、熊は唸り声を上げて迫ってきた。お互い、そろそろ体力の限界に達しようとしていた。血だまりが周囲にできており、お互いの体は無数の傷で覆われていた。


熊の目は怒りに燃え、その巨大な体は土煙を巻き上げながら地面を踏み鳴らした。エマは一歩も引かずに立ち向かった。熊の巨大な掌が空中を切り裂き、彼女を押し潰そうとしたがエマは身を躱した。そして、彼女は大きく上空へ跳び、両手を振りかざし、クマの頭部に、両手の鉄槌打ちを放ち、熊の毛皮に食い込んだ。頭蓋骨に達したが、固い骨に阻まれた。しかし、熊の頭から鮮血が噴き出て、熊は苦痛の咆哮を上げている。エマは更なる追撃と決意し、熊の頭部にしがみつき、何度も頭部を叩き続けた。しかし、エマの足を振り払られ、地面に彼女は投げ出された。うまく着地をしたエマに向かって、熊は牙をむき出した。


戦闘はどちらかが死ぬまで続く。熊とエマは攻防を繰り返した。時折、クマの巨大な爪がエマの身体を切り裂き、体に激痛が走った。しかし、エマはどんなことがあっても死ぬつもりはなく、生きるために闘い続けた。負けない気持ちがある方が、勝つ。勝つと決めた方が勝つのだ!!!


最終的に、エマが熊に与え続けた傷から流れる血が、致死量に達したのか、熊の力が急速に衰え、地面に倒れ衰弱した姿を晒していた。エマは倒れた熊の首辺りに飛び掛かり、首の頸動脈辺りを切り裂き、確実に熊を屠った。


戦いの後、エマは息を切らしながら、クマとの壮絶な闘いに勝利したことを喜びながら、このままここに留まれば、村人に追い付かれることを危惧し、草原を星と月明りを頼りに倒れそうになる体に鞭を打ち、歩き続けていくことにした。

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