紫水すみれと桃瀬さくら2

 あれは魔法ではなく呪いだったのかもしれない。

 何にも興味がないおかげで、まったく興味のないライブに行く羽目になり、まったく知らない少女に呪いを掛けられた私は、そのせいでよくわけのわからないことに巻き込まれてしまった。

 私が予想外にライブで飛んだり跳ねたりしていたので、ミキちゃんはそれからも何かと私をライブに誘ってくれるようになった。今更アイドルに興味がないとは言えず、私は誘われればその度にライブについていった。

「まさか更紗が姫に落ちるとはね。我が姪ながらお目が高いわ」

 ミキちゃんはそう言って、感慨深そうに二回頷いてなんとかフラペチーノをずるずると飲んだ。

 姫というのはあの日、私たちの目の前の花道で踊っていた少女のことで、如月撫子という名前らしい。姫というのが愛称らしく、なんでも有名な芸能一家の一人娘なのだという。あまり意識をしてテレビを見ていなかったので私は知らなかった。

「きっと姫はそろそろデビューするよ」

 そんなことを言われても、なんと答えれてばよいのか分からない。姫に落ちる、という言葉がずっと頭の中で旋回している。落ちる、というのはおそらく一目惚れと似たような部類の言葉だろう。

 そうではないと心底訂正したかった。けれど、なぜだか彼女が音の中で踊っているのを見ると、私の体は勝手に飛び跳ねてしまう。

 やはり呪いだ。

 それとも、私は彼女のことを好きなってしまったのだろうか。彼女がどんな人間なのか、なにも知らないのに?

 だいたい、私は彼女がどんな人間で、どんな生活をしていて、どんなことを考えているのかなんて、ひとつも知りたいと思わないのだ。こんな好きがあるだろうか。

「更紗もダンス部入るとか言ってなかった?」

「うーん。まぁそうだね」

 両親をがっかりさせたくないためのでまかせだと、はっきり言えればよかったけれど、それができないでもごもごとしていると、ミキちゃんは少し考えた様子をしてから、首をかしげた。

「でもダンスには興味があるんだよね?」

「あー、うん。まぁ」

 そう頷いたことに大した意味はなかった。落ちるとか好きだとか推しだとか、そんな言葉より、興味というこざっぱりとした語感の方が自分の心情に寄り添っているように思ったのだ。

 自分は姫と呼ばれるあの少女ではなく、ダンスに興味があるのかもしれない、とも思ったから。

 そっかそっか、とミキちゃんは簡単な相槌を打っただけだった。だから私は、その時の自分が大きな過ちを犯したことに気づくことができなかったのだ。それが人生を変えるような嘘だとは、考えもしなかった。

 一ヶ月後の日曜日。

 いつものようにミキちゃんに誘われ、いつものように何も考えずに電車に乗って、いつもとは様子の違う場所へたどり着いた。そこはアメリカの蜘蛛男がよく吸い付いていそうな背の高いビルの前で、とてもライブ会場とは思えなかった。

「ここ?」

「うん。ここ」

 ミキちゃんはそういってチケットではなく、茶色い封筒から白い用紙を取りだして受付の人に見せた。ビルの中に入って、やたらと若い女の子ばかりが乗っているエレベーターに乗り込んで、どんどん体が地上から離れていく。こんな高い場所にライブができる場所があるのかと、その時もまだ私は自分がライブに来たことを疑っていなかった。

「はい。これつけて」

 36という番号札を渡されたときも、チケットの代わりか何かだろうと思っった。けれど、なぜかミキちゃんは自分にその番号札はつけなかった。

 ふと周りを見回すと、小さな女の子たちが同じように胸に番号をつけて、歌声を上げたり柔軟をしたりしている。ミキちゃんと同じように大人の姿もあったが、その人たちは誰も番号をつけていない。

 その時はじめて、私は奥まった場所にある立て札に目をやった。

「オーディション」

 確かにそう書いてある。

「えっ! なんで?」

 自分でも驚くほどまぬけな声が出た。オーディションという言葉が今までの私の人生に登場しなさすぎて、実感がない。まったくもって事態を把握できないけれど、ライブが見られないということだけはわかった。ライブを見られないということに、自分がこんな複雑な感情になるのだということに、内心ひどく驚いた。

 ミキちゃんはいつもの無邪気かつのほほんとした顔で私を見た。

「いいじゃんいいじゃん。若いうちはなんでも経験しときなー? ダンスに興味あるんでしょ?」

「それは――」

 嘘だとはやはり言えなかった。

「それに姫に会えるかもしれないし」

「え?」

 ミキちゃんはお父さんの妹だけあって、得意げな顔が得意だ、と私の頭が無理をして関係のないことを考えはじめる。

「姫、試験官やってるって噂だから」

 それはオーディションの試験官ということだろうか。なぜデビューもしていないあんな小さな女の子が試験官をするのだろう。ミキちゃんは真偽不明の噂を信じすぎる。誰と誰が付き合っているとか、不仲だとか、性格が良いとか悪いとか。

 そんなことを考えているうちに時間が来たらしく、なんの準備もしていないのに背中を押され、ワックスの匂いが薄く充満している板張りの部屋へ放り込まれた。

 キュっと、前にいる女の子の足が鳴る。

 いかにも動きやすそうな、そうして高そうなシューズを履いている。私はといえば、一年以上ほとんど毎日履いている、元は白かった灰色のスニーカー。服だって母のお下がりの薄手のセーターで、袖が伸び切っている。

 周りは誰も彼も似たような動きやすそうな靴を履いて、洋服も明るかった。それに、みんな若い。

 14才という年齢で自分のことを若くない、というほどに世間知らずではないつもりだが、一緒に放り込まれたオーディション生たちは明らかに自分より年下だった。ほとんどが小学生で、中には明らかに低学年だろうという子もいた。

 自分だけ頭が飛び出ているのが嫌で、私はとっさに背を縮めた。

 その瞬間、あたりがざわめいた。

「姫だ」

 後ろから誰かの声がして、皮膚のすぐ横をちいさな女の子が通った。

 如月撫子。

 誰かが横を通ったというただそれだけのことを、こんな風に体で感じたのは初めてだった。気ままに泳ぐ金魚のように、如月撫子は群衆の間を縫って一番前にある長机の一番端の席へすとんと座った。

 彼女のすぐ横の席に座っていた女の子が、少ししかめ面で何事かを言っている。どうも如月撫子は遅刻してきたらしい。

 小言に少しも動じた様子を見せず、如月撫子はポケットからなにか小さな袋入りの食べ物を取り出して、開けようとした。

 ぺちん、と横の女の子がその手を軽く叩いてお菓子を取り上げる。すると彼女は餌が目の前からなくなった小動物のような顔をしたが、すぐにそのことを忘れた様子だった。足をぶらつかせて、よくわからない方向を見はじめる。

「それでは、今から番号を呼びますので呼ばれた方は前へ」

 それは私の一生で一番の耐え難い時間だった。

 呼ばれた子供たちは審査員らしい大人たちになにか言われるたびに自信満々に、あるいは個性的に言葉と身体を使って要望に答えていく。

 それは高らかな歌声であったり、激しいダンスだったり、けん玉やモノマネや体の一部の異様な柔軟性だったりする。後ろからその姿を見て、じわじわと自分の番が近づくのを待っている間、私はどう逃げ出そうかと考えていた。

 いますぐ透明になりたい。透明になっていなくなってしまいたい。

 けれどもちろんそんな能力はないので――人生でこれほどまで一つの能力を欲しいと思ったことはない――逃げ出してしまうことはできなかった。透明になることは無理にしても、逃げ出すことはできないだろうかとも考えた。

 でもそんなことをしたら目立ってしまう。私はどうしても目立ちたくなかった。ここに一人のなんでもない人間がいるということを、長机の端にいる如月撫子に知られたくなかった。

「36番の方」

 呼ばれてしまったので、前に出るしかなかった。よれよれのセーターの袖ぐりが急激に気になって体が斜めになる。少し小さいズボンの縫い目が腿に張り付いているのが気になる。皮膚がさわさわして、耳がそわそわして、喉がつまった。

 誰かから見られているという事態をこんな風に耐え難く感じたのは、生まれて初めてだった。

「お名前は」

「五反田更紗――です」

「おいくつですか?」

「14歳です」

「うちに入って一番にやりたいことはなんですか?」

 入りたいと思っていないので答えようがなかった。どうして並んでいるうちにそれらしい適当な答えを用意しておかなかったのだろう。考える時間なんていくらでもあったのに。

「特にないです」

 ん? と真ん中にいるスーツの男が首をかしげた。横にいるパーカー姿の女性は怖い顔をした。他の人は分からない。一番端は見ないようにしていた。

「歌やダンスの経験はありますか?」

 キャップを被ったおじいさんみたいな人が言った。

「ないです」

「少しも?」

「はい」

「じゃあ何か特技は?」

 あるはずがない。

 どうにかひねり出したかったが、私の体の中には一つも特技らしいものは入っていなかった。そもそも、特技も趣味も何もかも持っていないから、こんなことになってしまったのだ。

「何もありません」

 どんどん体が小さくなっていくみたいな感覚がした。このまま本当に小さくなれたらいいのにと思う。けれどそんなことは実際には怒らず、私の体はまだ人々の視線にさらされている。できることなら大声を上げて逃げ出してしまいたい。なんなら少しくらい怒られてもいいから、出て行けと言ってもらいたい。

 大人たちは私の顔をじろじろ見ながら、小声で何かを話し合った。そのとき、長机の端から声が聞こえた。

「ちょっと、撫子」

 見ると、端に座っている如月撫子の目がぱちんと開いたのが見えた。開いた、ということは閉じていた、ということで、つまり、彼女は居眠りをしていたのだ。

 急激に顔が赤くなっていくのを感じた。

 けれど大人たちは私ではなく長机の端に目を向けていて、その中のキャップのおじいさんは、あろうことか如月撫子に話を振った。

「なでちゃん、なにか質問あるかな?」

 幼稚園児に話しかけるみたいな口調だった。聞かれた彼女はすぐには答えず、聞こえているのかいないのか分からない様子でぼうっとしていた。隣の女の子にこづかれて、はじめて如月撫子は口を開いた。

「ない」

 するとまた隣の女の子が顔をしかめた。

「ないじゃないでしょ。なんでもいいから何か質問」

 しつもん、とただ彼女はちいさく繰り返した。

 まるで本当の幼稚園児のようだ。確かに彼女は子供だし、望んだのでなく請われてこのオーディションに参加していて、乗り気でないのかもしれない。だからといって、こんな受け答えが許されるものなのだろうか。

 どんな人間だって、子供だって、普通はもう少し生活に責任感のようなものを持っている。けれど隣の女の子以外、彼女の様子を咎める大人は誰もいないようだった。

「なんでもいいよ」

 キャップのおじさんに言われて、如月撫子はうーんとちいさく首をかしげてから、初めてこちら側に目を向けた。

 目を逸らそうと思ったときにはもう遅かった。

 彼女が私の目を見て、私も彼女の目を見てしまっていた。

 甘そうな薄い茶色をした大きな彼女の目は、やはりどことなく小さな愛玩動物を思わせた。けれど、それは私の知っている瞳ではない。口も鼻も耳も、髪の毛の一本一本まで、私の知っている如月撫子ではない。私が知っているのは、音を武器にして世界のすべてを薙ぎ払う、凶暴な獣みたいなステージ上の彼女だ。

「えっとー、じゃあ、すきなものはなんですか?」

 空気を引き伸ばすようなゆったりとした声なのに、場が固まったように感じた。やはり如月撫子の声にはなにか異様なものが混ざっている。

 耳から入ってきた彼女の声は私の喉を一気に硬直させて、それは徐々に体全体に広がっていった。とても声が出せるような状態じゃない。最初に会ったあの日から、私の体は彼女の前にいると思い通りに動かない。

 五反田さん、と試験官のうちの誰かが私の名前を読んだ瞬間、固まった空気が解けて、一気に呪いが解け、口が動いた。

「あなたのダンスが」

 そこまで言って、はっとして言葉を飲み込んだ。一体何を言おうとしたのだろう。あなたのダンスが? まさか、好きだとでも言うのだろうか。見ず知らずの人間に、しかもオーディション会場でそんなことを言うなんて、どうかしている。

 如月撫子はぽやぽやしたまま一切様子を変えなかった。

「わたしのダンス?」

 好きだと言われ慣れているのか、好きだと言われるとは思っていないのか、どちらなのかわからない。もういやだ。早く終わってほしいという気持ちで私は言葉を続けた。

「あなたのダンスは好きだと思います」

 彼女は首をかしげた。

「どのダンス?」

「全部です」

「ぜんぶ」

 よくわからない、というような顔を彼女はした。そして他人の視線が自分にどう向いているのか、知り尽くしている上でそんなものは私の知ったことではないとでも言いたげに、暴力的な愛らしい顔で首をかしげた。

「私のことがすきなの?」

 その言葉に、今まで抑え込んでいた感情が突然体の外へ湧き出ていった。確実に今じゃない。今じゃなさすぎる感情。

 嘘を訂正しなければという――。

「あなたのことはよく知らないので、好きではないです」

 その時の彼女の顔が忘れられない。

 犬が川に骨を落としてしまったときのような、鳥に突然サンドイッチを盗られたような、理解の追いついていない顔で、彼女はただ私を見ていた。

「そう」

 ただじっと見つめていた。

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