紫水すみれと桃瀬さくら3

 なんでこんなことになってしまったのだろう。

 きゅっきゅと床を鳴らすシューズの音の中で、もうやめよう、と数分置きに考える。そのたび、彼女に会うまではと留まる決心をして、数秒後にはやっぱりもうやめようと思う。

 好き嫌いのないのっぺりとした私の人生は、あの日から急激に変わってしまった。

 レッスン場のワックスの匂いが嫌いだ。自己紹介のあとに続く経歴の話が嫌いだ。バスケをするわけでもないのに履かれているバスケットシューズの色彩が嫌いだ。やたらにリズムを刻む音楽が嫌いだ。

 なにより、すべての音に一呼吸遅れて動き出す自分の体が嫌いだ。

 オーディションのあと、もう二度とライブには行くまいと決めた。どうしてあんなことを言ってしまったのか、そもそもなぜ言われるがままオーディションなんか受けてしまったのか、毎分毎秒後悔して、煩悶する。

 オーディションだと気がついたその段階で帰れなかったのは、如月撫子の姿を間近で見られるかもしれないという下心があったからだ。それを考えると恥ずかしさで気が狂いそうになる。さらにその後の出来事を思い返して叫びだしたくなる。

 もう何も考えないようにしよう、と考えた次の瞬間にはもう脳裏に彼女の顔が浮かんでいる。

 誰だって、たとえ相手のことをなんとも思っていなくても「あなたのことは好きではない」なんて言われたら最悪な気分になるだろう。それを、あんなに大勢の大人や子供の前で言うなんて、本当にどうかしていた。

 考えたくない、忘れたい。

 病んだ獣のように煩悶を続ける私の耳に電話の音が鳴り響いたのは、土曜の昼下がりだった。母が出て、いつもより高音の外行きの声と早口で、何か受け答えした。

 私は食べたくもないぬれせんべいを食べながら、オーディションの一件のせいで自分の人生の重みが別のものになっていくのを感じていた。消えたいを通り越して、死んでしまいたいとさえ思う瞬間があった。

 どうしてあの時あんなことを言ったのだろう。どうしてあのときオーディションなんて嫌だと言わなかったのだろう。どうしてあのときライブになんていったんだろう。どうしてあのとき、あの人に――。

「更紗! 車出すから準備して!」

 電話を切った母親の声が耳に突き刺さってきて、体が震えた。なにやらひどく慌てている。

「え? なに」

「あんた受かったんだって、これからレッスン」

「は?」

 受かった、という言葉に何も思うことができなかった。なにが? という言葉に母の急き立てる声が被って、言われるがまま着替えて、車に押し込められた。

 車が進んでいって、交差点を右に曲がった時、急激に気がついた。

「え! 受かったって、オーディション?」

「それ以外なにがあるのよ! あんたちょっとぼーっとしすぎ!」

 そういいながら、運転席にいる母の瞳はライブの前のミキちゃんと同じよに輝いている。私はまた、どうやってここから逃げようかとデジャブのような焦りを感じていた。ここで逃げなければ今までとなにも変わらない。同じ過ちを起こすに決まっている。

 けれど、母の色めき立った言葉が、私をそうさせなかった。

「更紗はね、やればなんでも人並みにできる子なんだから。自信もちなさい。やっとやりたいこと見つけたんだから」

 ありふれた言葉がこんなにも胸に刺さったことはない。

 それは、決して私の人生を軽くさせる類のものではなかった。むしろ、ひどく重い。これもまた今までとは別の重さだ。人生とはどうしてこんなにも重たいのだろう。

 私は母や父の期待を蹴り飛ばして逃げてしまうことができない。すべて、今までの過ごし方が悪かったのだ。自分の人生を軽くさせるような、特別な何かを探してこなかったから。

 それに、こんな時になってもまだ私は、また彼女に会えるかもしれないと考えていた。それこそ、以前のような浮ついた下心ではなく、衷心から。ただ会って、謝りたかった。

 けれど、どうやって何を謝るのだろう。あなたを好きではないと言ったのは嘘だとか? 本当はひと目あなたに会いたくてオーディションに行ったのだとか? なにも好きではないけれど、あなたのダンスだけは好きなような気がするとか? 

 どれもこれも、正しくない。

 たったひとつだけ、明確な事実があるとすればそれは、私の人生を変えたのはあなただ、ということだ。

「はい、じゃあ休憩はさみます、次は15分から。あと二曲やります」

 オーディションに受かったといっても、ライブで見ていた彼女たちのようにすぐにステージや雑誌に出るということではなかった。

 立場としては研修生の研修生といったところで、今の所、いつどこで披露するのか分からない曲を覚え続けるということだけをしている。レッスンと銘打ってはいるが、何かを教えられているという感覚はないし、ただひたすら、見て、覚えて、体を動かすように強いられるだけの時間を過ごしている。

 ダンスなど授業でも踊ったことがないのだから当然だけれど、私はひどい落ちこぼれだった。レッスン場にいるのは、ほとんどがアイドルになることを人生の目標としているような子たちで、それも年下ばかりだ。

 最初のうちは私と同じようにダンスをしたことのない子も何人かいて、励ましあってレッスンを受けていたのに、それも段々と姿が見えなくなっていった。研修生の研修生、ということだから、研修生にさえ適さないと判断されれば、即刻レッスンに呼ばれなくなるらしい。

 それなら早く切り捨てられたい。

 でもまだ彼女に会っていない。

 毎日、毎日同じ言葉が頭の中でループしている。辞めたい。でもまだ会えてない。辞められない。辞めたい。会えない。でも――会いたくない。

「更紗! 音! ちゃんと聞いて!」

  振付師のいつもの声顔を上げると、小さい子たちの後ろで見様見真似で動いている自分の姿が目に入って、吐き気がする。

 大人はいつも同じことを注意してくる。これだけ大きな音で流れているのだから、音楽なんて聞きたくなくても耳に入ってくる。だとすればそういうことを言っているのではないのだろう。けれど、一体どうしたら音を聞いていることになるのだろう。それを教えてくれないのだから、やってみせることもできない。

 今日のレッスンはダンスだけで終わりだからまだいい。大勢の人間の中であれば、まだ多少は隠れることができるからだ。

 でも歌のレッスンは、自分の奇妙な声に打ちのめされて、それだけならまだしも、周りの人間にもそれを聴かれてしまう。体が膨張していくような耐え難い羞恥心に毎回気が狂いそうになる。

 でも、今日がダンスだけということは、次は歌だけのレッスンなのかもしれない。そう考えると、やっと今日のレッスンが終わったというのに、体が重くなって動けなかった。

 帰りたくない。

 今、数分、数十分帰るのを遅らせたところで、次の日が同じ時間に来ることは分かりきっている。何かをする時間を引き伸ばしたところで、時間そのものが伸びたり縮んだりはしないのだ。そんなことは分かってる。わかってはいるが、動きたくない。進みたくない。

 そんな風に堂々巡りの思考に陥りながら、一ミリずつ靴紐を引っ張ってほどいていると、にわかに出入り口の方から色めき立った声が上がった。

 ほとんどの場合私はいつも一番最初に帰るので分からないが、みんなレッスンが終わってからもだらだらと話したり、中には自主練をしている子もいるみたいだった。顔をあげると、それらのほとんど全員が入り口で誰かを囲んでいる。

 信じられないくらいのスピートで、また体の中を血が湧き上がっていった。見えはしないけれど囲んでいる人間たちの顔つきを見るに、名のある研修生が来ていることは間違いない。

 問題は、誰が来ているのかということだ。まさか、彼女のような人間が研修生の研修生のレッスンになど顔を出さないだろう。でももしかしたら、と自分の行動と矛盾した願いにも似た憶測で頭がいっぱいになる。

「はいはいはいはい、みんなありがとー!」

「レッスンがんばってるねー、えらいえらい」

 でも本当に違うみたいだった。

 彼女はこんな明るい声を出さない。どの映像を見ても、ステージにいないときには間延びした、小動物のあくびのような喋り方をしている。

 帰ろう、と一気に靴紐を引っ張ったとき、その囲みの中から新しい声がした。

「ご五反田更紗ちゃんって、いるー?」

 靴から足がすぽんと抜けて、そのすぽん、という音と同時に囲みの人間たちがこちらを見たのがわかった。

「え」

 見ると、囲みの輪の間から平野ここみが顔をのぞかせている。

 彼女は研修生の中でもっともデビューに近いと言われているグループの一員で、やっぱり今日もほやほやとした表情をしていた。

 平野さんの所属するグループはともかくダンスと歌のスキルが高く、可愛さというより格好よさを売りにしていて、彼女も勿論すべての技術が高いけれど、配信などで見る普段の様子はつねにぽやぽやしていて、本当にあの舞台に立っている人と同じ人間かと不思議に思っていた。

 本物だ、などと悠長に眺めていると、ここみちゃんはもともとたれている目をもっとたれさせて、体ごと首をかしげた。

「君が更紗ちゃんかい?」

「そう、ですが」

 客席から見上げるだけだった存在が自分に話しかけている、という事態に脳の処理が追いつかず、ものすごくぶっきら棒な答え方をしてしまった。けれど平野さんはその様子を気にする風もなく、そっかー、とこちらに歩み寄ってくる。

 と、その後ろから小さな子が二人飛び出てきた。

「どれどれどれ!」

「どこどこどこ!」

 短めのツインテールがぴょこぴょこと二人分見えて、わ、とまた私の口が勝手に声を上げた。

「バ、バッカス探偵団!」

 でも、さすがにこれは叫ばないほうがどうかしている。

 国民的教育テレビ『バッカス探偵事務所』の子供探偵リーリとミーミ。私たちの年代の人間ならば、誰もが幼い頃彼女たちに夢中だったはずだ。私も毎日テレビに張り付いて見ていた。双子の女の子が探偵行為と称して、大人の価値観をめちゃくちゃに壊していく、歌あり踊りありドラマありのエンタメ詰め放題のあの夢のような時間。

 まだ幼く好きとか嫌いとかの感情にわずらわしい自我がかかわってこなかった時代、考えてみれば、私のような人間が、唯一純粋に好きでいて夢中になったものが彼女たちだった。

 それが今、目の前に。

「な、どっ」

 急激に心が幼児に戻って、混乱する。この事務所にいるらしいというような話は聞いていたけれど、私の知る限りステージには立っていなかったので、半信半疑だった。

 すると元気ときらめきのリーリが私の顔を観察しながら言った。

「なるほどなるほど!」

 よく知ってる声だ。大人になってはいるけれど、ちゃんとリーリだった。

 元気とひらめきのミーミが同じようにじろじろと私を見ている。

「ふむふむ!」

 やっぱりすごくよく知ってる声だった。

 なにが起こっているんだろう。なぜ、こんなスターたちが私の名前を呼び、私の顔を眺めているのか。

 リーリが大きな口を大きく開けながら言う。

「なでちゃんに告白したってほんとー?」

「へ」

 ミーミもにやにやと笑っている。

「すごい勇気あるね! あの人、私たちでもこわいのに」

「いや、えっ、あの」

 はいはい、と二人の間を平野さんが割って入ってくる。

「その話はあとでね」

「えー、いま聞きたーい! 公開告白公開失恋!」

「し、失恋!?」

「なでちゃんをごめんなさいするなんて大物だよ」

「してない、してないです!」

 なにがどうなってそんな話になっているんだと喚こうとしたとき、急に周りの視線が肌をびりびりと刺してきていることに気がついた。何が起こっているのかなんて私が一番わからないのに、みんな私が何かを重大な不正をしていて、それを今まで隠してでもいたみたいな顔をしている。

 私が一人だけ年上で技術も気概もなくて、オーディションに受かったこと自体がおかしいと思われていることは知っていた。でも、そんなことは自分が一番にわかっている。わかっているのに、わかっているということを、誰も認めてくれない。

 平野さんは私の置かれた状況も周りの目も、まったく気にせずにゆったりのんびりと喋った。

「更紗ちゃん、今から一緒に事務所いこ~」

 けれど、にっこり笑ってゆるい声を出しているその目は、固く硬直している。

「どうして、ですか」

 やっとのことでそう声を出したが、平野さんは諦めたように笑うだけだった。その顔に、彼女もまた私と同じように、自分の意思だけでは抗えない何かに人生を変えられてきた人なのかもしれないと感じた。

 彼女は今、誰かの命令を伝えているだけなのだ。

「わかりました」

 でも私にはここから逃げ出せるのならば、理由なんてなんでもよかった。

 研修生たちの戸惑いと詮索と礼儀の入り混じった「お疲れさまでした」という声に包まれてレッスン場を出て、事務所とよばれる場所へ向かう。レッスン場の正面でなく裏口から出るのも、警備員に丁寧に挨拶されるのも、ミニバンに乗るのも私には初めてのことだった。

 けれど、なにも感じることはない。

 もうずっと、何もかも私にはわからない。

 事務所と呼ばれるのはレッスン場から15分ほど離れた古臭い雑居ビルの三階で、レッスン場はあれだけ高いビルの一角にあるのに、ひどく薄汚い。もちろん、研修生の研修生などという地位の低い私は、事務所のトップが働いているという事務所が別にあることも、そこへ足を踏み入れることも初めてだった。

 カビ臭い階段を登って、ぎぃぎぃなるドアを引いて、書類で埋まっているデスク間をぬって、その最奥。社長室へと向かう途中の、デスクの上に人影があった。書類の上に座っている。女の子――。

「あ」

 また私の口からはバカみたいなアホみたいな、どうしようもなく間の抜けた声が出る。もう、こんなことばかりだ。本当に、私はどうしようもないアホなのかもしれない。

 薄ら汚い事務所の最奥に、明かりが灯すように彼女はそこに存在していた。

 如月撫子。

「お、揃ったね! じゃあ君たち今日からグループだから」

 私は社長らしき人物が発した言葉にうまく驚くことができなかった。

 如月撫子が、じっと私の目を見ていたから。

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