紫水すみれと桃瀬さくら1

 人生が重たいとはじめて感じたのは小学校六年生の春、四時間目のパソコン室の繊維の匂いがする絨毯の上でだった。

 窓の外で音が聞こえるくらいに桜がばらばら落ちていて、突然、こんな風に終わっていけるのは特別なことなのだと思った。私は別段桜を美しいとは思わないが、大勢の人間が桜を美しいという。そのように美しいものが、美しいまま終わるなんてことは、有り得べからざることで、それは選ばれたものだけに許された散り様で、そうでないものは美しくも醜くもなく、ただ過ぎて、ただ終わるだけなのだ。

 そう思うと、途端に自分の人生が重く感じた。

「では実際に動かしてみましょう」

 パソコンの画面の中では、雑な作りの曖昧なもぐらが人間の操作によって上に動かされたり、潜らされたり、ハンマーで頭を叩かれたりしていた。

 遠くで誰かが楽しそうに声を上げている。隣の席の子は、こんなものには興味がないということをアピールするために勝手に立ち上げたゲームをはじめている。

 その横で私は、ただ言われたとおりにもぐらを動かしていた。もぐらを右に動かすことに興味はないが、それに反抗するための気力も情熱もなかった。だからといって、もぐらを動かすことに真剣にもなれない。

 こんなにも何もない人生をあとどれくらい生きていかなければいけないのだろう。せめて桜のように短い間に散っていければよかったのだ。もぐらは取り決めどおりにハンマーを避けて、小さな家に帰っていく。家にたどり着いたもぐらはうれしそうで、きらきらとしたエフェクトをつけていつまでも両手をあげて笑っている。

 それが小6の春。

 あれから一年しか経っていないのに、私は老人のように疲れ切っていた。なにもない人生を生きるのには、人間の寿命はあまりにも長い。

「更紗は部活入らないの?」

 家に帰ると母が出し抜けにそんなことを言った。

 兄はサッカー部に入っていて、妹はバレエを習い始めていて、それでなくとも二人とも遊ぶのが好きで、家にいる時間が短かった。私はというと、いつも家にいるけれど、特に何をするわけでもなく見ていないテレビの前でぼうっとしているだけ。

「特に考えてないけど」

 いくつか部活見学には行ったが、誰も彼もがなにかに期待している目をしていて、それに耐えられなくてすぐに帰ってきてしまった。新しい生活が始まるのはこれがあるから憂鬱だ。

 進学とか、クラス替えとか、席替えとか、誰もが浮足立って未来を受け止めようとしている。未来になにもない私は手持ち無沙汰を通り越して絶望に近い気持ちになる。でも絶望ではないから、ただこうして横になっている他ない。

 その新生活の中でも、残念と心配をないまぜにした母の顔つきを見るのが、もっとも苦痛だった。

「まぁ、どこかの部活には入ろうかなと思ってるよ」

 考えてもいないことを口にするたび、体が重くなっていく。それでますます体を動かすのが億劫になる。母が私の言葉にちいさな期待を抱いたのがわかった。

「どこが面白そうだった?」

「うーん。ダンス部とか? ちょっと楽しそうだったかな」

 それはまったくの嘘で、部室がやたらに色彩が散乱していて印象に残っていただけだった。どちらかといえば悪印象に近い。でもなにか具体的なことを言ったほうがいいような気がした。ただそれだけ。

 それだけだったのに、床に無造作に寝転がっていた父が急に起き上がって私たちを振り返った。

「思い出した!」

 そう言って二階へ駆け出していった父はすぐに戻ってきた。その手に細長い茶色の封筒があって、なぜか父はそれを私に差し出してきた。

「え、なに?」

「チケット」

 開くと確かになにがしかのチケットが入っていた。

 字面を見ても何もピンとこない。ライブと書いてあるのだからなんらかのライブなのだろうが、それ以外の感慨がなかった。しかし父はどことなく誇らしげだった。

「上司の知り合いの親戚の子が参加してるとかしてないとかでもらったやつなんだけど、ダンスに興味あるならちょうどいいし行ってきなよ」

 上司の知り合いの親戚の子なんてブラジルでサッカーをしている子供くらい私とは関係がない。だからそんなものに行く義理はない、といつもなら言う所だが、言えなかった。

 両親は私が何にも興味を持たずただ家にいて何もしていないことを、少しは気にしているけれどそれほどは気にしていない、と装わなければならない程には気にしている。

 なにより、今までの人生でなにも獲得してこなかった私は、断る理由さえひとつも持っていなかったのだった。もたもたしているうちに両親が付き添いの人間まで手配してしまっていて、さすがに行かないとは言えなかった。

 土曜日の午後4時という謎の時間に始まるそのライブは、女の子のアイドルが歌ったり踊ったりするものらしい。調べてみたが知っている名前は一つもなかった。会場もそれほど大きなところではなかった。

 けれど、付添いで来てくれたミキちゃんはやたらに興奮していた。キミちゃんは父の妹で私たちにとってはおばさんということになるが、外見も性格も若いので少し年の離れたお姉さんといった感じだ。

「マジでありがとう。研修生のライブ行ってみたかったんだけど全然あたらなくてさ~」

 いつもより気合の入ったメイクのミキちゃんの説明をまとめると、このライブはアイドルとしてデビューする前の修行時期のような子たちが出演するものらしい。デビューしているグループの名前を聞くと、さすがに私も知っている名前がいくつかあった。

「更紗が興味もってくれるなんて! もーうれしい!」

 お父さんがお母さんかどちらがそう言ったのか知らないが、いつの間にか私はその子たちに興味を持っている人間にされているようだった。一緒にライブに来られて嬉しい、と子供のようにはしゃぐミキちゃんを前にすると、綿毛ほどの興味もないとは言えなかった。

「誰が推しなの?」

「いや、まだそういうのは」

「あー、わかる! わかるよ! 推しが定まってない時ってめちゃくちゃ楽しいよね! でも今日で推し決まっちゃうんじゃない? 一目惚れもあるかもだしね!」

 笑おうと思ったが、うまくできなかった。

 好きも嫌いもないぼんやりとした私の人生の中で、もしどうしても嫌いなものを一つあげろと言われれば、愛だの恋だのの類と答えるだろう。クラスの子がしているそういった類の話、恋バナとか呼ばれるものの中でも特に、一目惚れという言葉がきらいだ。なんだかその言葉を聞くと、耳からミミズが入ってきたようなぞわぞわした気持ちになる。

 一目惚れって。

 その人がどんな人間か大して知りもしないくせに、どうやって好きになるというのだろう。そんな風に勝手に好きになったり嫌いになったりされている人間のことを考えると可哀想だし、そういうことを疑問なくおこなっている人間が大勢存在するのかと思うと憂鬱で、やはり人生が重たく感じる。

 でもアイドルという仕事は、勝手に好きになられたり嫌いになられたりするのが仕事のうちの大部分を締めるのだろう。そう考えると興味どころか、恐怖の対象に近い。この会場を埋めている人間たちだって、ステージに出てくる子たちと知り合いでもなんでもないのに、みんな目を輝かせてその登場を待っている。

「やば、花道前!」

 ミキちゃんの瞳は光で湿っているように見えた。なんだか蛇に似ている。

 会場が暗転すると、数々のざわめきがふっと息を飲んだのが分かった。何かが始まる、全員が何かを待っている。私は舞台の上にこれから立つだろう人たちのことを考えた。こんな風に他人に熱狂的に期待されて、その前に立とうとするなんて、どう考えても普通じゃない。

 そのとき、突然青白い光の光線が会場を切り裂いた。爆音と共に視界が一気に明るくなる。

 ダン、と目の前に落ちてきた衝撃が何なのか、最初は分からなかった。

 感じたことのない暗がりと明かりの明滅に体がひきつけを起こしたのだと思った。けれど、やけに激しく明るい音が響き始めて、それと共に影が動いて、目の前に人間が立っているのだと気がついたとき、この音は違う、と思った。

 音楽でもない。人の声でもない。光の音でも、特効の音でもない。

 その音は、目の前の人間が立てている。 

 目の前の花道にいるその人影が、会場のどんな音楽よりもはるかに大きな音を立てて、動いていた。

 それはおかしいことだ。こんな爆音を人間が立てられるはずがない。実際にそのとおりで、私が感じている音は、遠くのスピーカーが立てている重低音だったのだ。それなのに、何度注視しても私にはそれが目の前の人間によって立てられている音に感じられた。

 たった一人の小さな少女が、会場中の音をすべて飲みこんで、解き放している。

 近くから遠くから、人間たちの雄叫びが聞こえる。期待の声、期待が現実となったことへの歓喜の声、さらなる期待の声。騒々しいすべての声々。様々な蛇の目の光。それらすべてを薙ぎ払うように、その少女は踊っていた。

 小さく華奢な体で、リボンのついた甘ったるい衣装で、人形のように出来すぎた造形の顔で。

 すべてのものを無視して、音とだけ踊っていた。

「あ」

 自分の口から漏れた声が、こんなにたくさんの音の中にいるのに、自分のその声がすごくよく聞こえて、こんな声は聞いたことがなくて、体がさわさわ震えた。体の中のものが、全部外に出ていってしまうような――。

 少女の細い、ちいさな爪の指先が、私の体に向けられた。 

「飛べ!」

 そのとき、魔法にかかったように、私の体は勝手に宙に飛び跳ねた。

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