緑間葉子と葛西夏乃2


 撮影が想定より長引き、一時間くらいしかいられないかもしれないと連絡したら、何の言葉もなくSNSで拾ってきたらしい私の画像が送られてきた。

 プロモーション時期になると、いつ、なんのために、どの媒体によって世に放り出す予定のものなのか、瞬間的にしか覚えていられない写真や映像を何度も撮る。

 そのあいだにも、オフショットという名の公用の写真も撮られているから、なにがなんだかわからない。

 これはいつ撮ったやつだろう。ライブ終わりっぽいけれど、衣装を脱いでるからわからない。髪型からして最近のだとは思うけど、ログを漁らないと思い出せない。ただピースしているだけのなんでもない写真だった。

 そんなことを考えながらカフェまでたどりつくと、その送り主はあろうことかオープンテラスに座っていた。

「えっと、この写真、どういう意味ですか?」

 スマホの画面を突き出してみせると、先輩はストローを加えたまま笑わずに目を細めた。

「角度がわるい」

「角度?」

「顔」

「かお」

 確認してみたが、今更自分の顔の角度のことなど何をどうすれば何になるのかわからない。強いて言えばやはりたぬきに似ているのかもしれない、と思う。それ以外は何も分からない。

 そういえば、昔もよく先輩に自分の顔に興味がないのはアイドルとして致命的だと怒られたような気がする。懐かしくなって心の中で笑っていたら、当の先輩は私の姿をまじまじと眺めて嫌そうな顔をした。

「またダサい私服着てる」

「これはちゃんと買い取ったやつです!」

「合わせ方がダサい」

 確かに、言われてみればいろんな現場でばらばらに買い取ったものだった。いつもなら、だったら一緒に買い物に行ってくださいと言うところだが、きっと無理だろうからやめた。

「そんなことより先輩、なんで外なんですか。危ないじゃないですか」

「は? なにが危ないの? あんたの顔バレ?」

「私が顔バレしないの先輩が一番知ってるじゃないですか」

 へっ、と先輩はいたずらが成功した小僧のように笑った。あの頃のまま少しも変わっていない。ちょっとずる賢くて、いつも面白いことを探していて、誰彼かまわずちょっかいをかけて、本当にいつも、少年のようだった。

 それでいてステージの上では、誰よりも強く鋭い大人顔負けの光線を放って、甘くきらめくのだ。それなのになぜ、今はこんな外のカフェで誰にも見向きもされずにいるのだろう。

「中、入らなくて平気ですか」

「へーきへーき」

 軽く言って、先輩はジュースをちゅるちゅると吸ってから、お前こそと笑った。

「死にそうな顔してるな」

 その言葉に、ふっと体の中を何かが通りすぎたような感覚がした。

 私は私がさほど深刻でない人間であることを知っている。人の前に出る仕事をしていると、意図しない場面で、意図しない表情や言葉を拾われることがあるけれど、それについてもあまり深く考えたことがない。

 無数の、親密でない、知り合いでない人間たちが、自分のことを自分以上に知っていて、愛しているという事実についても、今ではうっすらとした違和感でさえ抱かないようになっている。

 それでもときどきは、本当にときどき、夢の中で空から落ちたように、深刻ではない鋭い衝撃を受けることはある。目が覚めれば、ああ夢だったと安心するけれど、体の中にはずっと落ちた時の感覚が残っている。

 こんな私でさえそうなのだから、絶えず、真っ先に人の視線を受ける場所にいる人間は、日ごと、秒ごと、空から落ちているのかもしれない。落ちてきたのかもしれない。いや、落ちてきたのだ。

「苺の声がでないんです」

 私がいうと、先輩は絵画の前にいるみたいに静かにただそれを眺めた。先輩がただ眺めるので、私はそれに見合うなにかを描かなくてはいけない気持ちになる。でもインタビュアーにするように、出来上がった感情を差し出すことがうまくできない。

「そりゃそうだろうと思います。当たり前ですよね、大丈夫だなんて、どうしてそんなこと思えてたのかぜんぜんわからない。大丈夫なはずないですよ。だって、あんなことがあって、また人の前に立って、歌って、踊って、笑ってなんかいられないですよ、怖くて――」

 声に震えがまざってしまったような気がして、はっと顔を上げた。いま、先輩に迷惑をかけるわけにはいかない。心配させてしまうわけにはいかない。そう思ったけど、先輩はまたジュースをちゅーっと音を立てて吸って、あっさりとつぶやいた。

「そんで?」

「え?」

「え、じゃねえよ。事件のせいで苺の声が出ない。お前はそれを今まで立ち止まってそのことを考えてこなかった。でも7月にはバカでかい箱でライブが決まってる。今は3月。それで? どうすんの?」

「はあ」

 あまりに間抜けな声がでて、自分が出した声なのにびっくりしてしまった。いつでもそうなのだ。真剣にならなければならない時、その気配を感じるとなぜだか体から力が抜けていってしまう。ちゃんとしよう、ちゃんとしたほうがいい、そう思えば思うほど、どんどん体がちゃんとした場所から遠ざかっていく。

 事態を重く受け止める必要はないけど、真っ直ぐに受け止める必要はあると自分でも思っている。リーダーなんだからブレるな、と、言ってくれたのは誰だっただろう。いや、こんなことを私に言ってくれるのは、先輩しかいないだろう。

 けれど今その先輩は、だらだらとジュースを吸い込み、ぼんやりとした様子で、ただだらりと私を眺めている。

「やめんの?」

「それは、ライブをですか?」

「そりゃ知らないけど」

「知らないですか」

「知らないよ。だって私はお前と同じグループにはいないから」

 勝手に口が息を吸って、ひきつけを起こしたように肺が止まってしまった。もう永遠に普通に息をすることはできないんじゃないか、とそのことを思い返す度に感じる。だから、絶対にあらためて考えないように考えないようにしてきた。でも、さっきの取材でやけに昔のことを思い返したから、体が昔に引き戻されている。思いたくないのに、思い返してしまう。

 なぜ私だけデビューしてしまったんだろう。

 そう思ったとき、先輩が腹のあたりをゆっくりとさすったのが見えて、体の中が熱くなるのを感じた。

「私じゃなくて先輩が選ばれるべきだったんですよね」

 今まで一度も口にしなかった言葉が簡単に出ていって、それは絶対に外にこぼしてはいけない言葉だとずっと思ってきた言葉で、でも実際にはそれは私だけが私に科した呪いに過ぎなかったのだと気づいた。

 いつまでもそのことに苦しんでいるのは自分だけで、先輩の方はそんなことは思ってもいなかったのだ。そうに決まっている。そうでなければ、そんな風に腹をなでるようなことにならないはずだ。

 私はもうずっと、裏切られたような気分でいるというのに。

「先輩がデビューして同じグループになってれば、苺だってあんな風にならなかったですよ。歌も踊りも何もかも、先輩の方がうまかったし。私だってもっと苦しまずにいられた」

 落ち着け、という先輩の声が聞こえるような気がした。いつもそう言ってくれるのはこの人だけだったから。小さい頃から表情も感情もうまく外に出せなくて、自分の中で精一杯考えて、精一杯困っているときにも、ぼーっとしてるとか何も考えてないとか言われ続けてきた。

 でも先輩だけは、いつも私を見てて、ちゃんと分かってくれて、肩を叩いて声をかけてくれたから。

「ふざけんなよ」

 だけど今、先輩の顔は怒っているみたいに見えた。

「よく言えるな、私の前でそんなこと」

「だって」

「だってなんだよ。甘えんな。グループのことはグループでしか解決できないだろ。私はその中に選ばれなかったんだよ。学校の行事全部すっとばして、歌もダンスも毎日練習して、MCとか演出とか勉強しまくって、みんなが遊んでる時間もずっとレッスンにあてて。自分が凡人だって知ってたけど、それでもデビューしたかったから頑張ったよ。でも、いくらスキルがあったって、見目がよかったって、選んでもらえなきゃアイドルではいられないんだよ」

 知ってる。知ってる。

 そんなことは全部知っている。

 私が誰より先輩のことを見ていた。何十時間何百時間何千時間とその背中を見てきた。私の前で、その背中が跳ねて飛んで、苦しみながらきらきらしていたのを知ってる。どうして選ばれないんだろう。次こそは、次こそは、と自分のことよりも先輩のことを考えていた。

 だって、こんなに輝いている人が選ばれないなんてありえない。

 でも、私たちがいる世界は、努力が才能や運を上回ることがない世界だ。報われなかった数多の努力を目の前で見てきて、そういうものだと納得して、それでも努力をするしかなかった。そういう世界だ、という言葉は呪いでもあって時には祝福にもなりえたから。

 そうして、そんな世界に先輩が祝福されることは、私の中では決定事項だった。そのことを、一度として、疑ったことはなかった。

 なのに、私がデビューしてすぐ先輩はアイドルでいることをやめてしまった。 

「私だって、今でもお前の横で踊りたかったって思うけど」 

 その言葉は、私が今までずっと聞きたくて、今、一番聞きたくない言葉だった。体中から血が頭に駆け上ってきて、手が震える。

「でも先輩は子供産むんじゃないですか!」

 大きな声をだした私に、先輩は小動物みたいに目をまるくした。私は今まで本気で先輩に反対の言葉を吐いたことがない。だってそんな必要はなかったし、そんなことをしたくはなかった。でも、感情がくるしくて、もう外にださずにいられなかった。

「みんなじゃなくて、誰か一人を幸せにするんでしょ、先輩は」

 彼氏がいると聞いた時、うっすら嫌だと思った自分が嫌だった。子供がいると聞いた時、素直におめでとうございますと言えない自分が嫌だった。でも結婚はしないと聞いた時、喜んだ自分が嫌だった。

 女のアイドルなんて20才を過ぎたら賞味期限なんてとっくに過ぎていて、誰も口にしないけどみんながみんな毎秒終わりのことを考えている。絶頂が続けば続くほど、いつ下るか、いつ選ばれなくなるか、そのことばかりが気にかかる。それでも今は絶頂にいるから、私たちは誰も何もやめることができない。

 でも下るっていつからわかるんだろう。もう下ってるんじゃないか。

 涙がぬるりと頬につたっていって、そう言えばいつかどこかで誰かが、私のことを泣かないアイドルだと評していたことを思い出した。名前も知らない、私のことを知り尽くしている誰かが言っていたのだ。私のことを私以上に知って、愛してくれている、私の知らない誰かが。

「私たちは、誰か一人の幸せを願うことも許されないのに」

 アイドルはみんなに愛されるお仕事だから、みんなを愛さなくてはいけないのだ。誰か一人を愛するのは、誰か一人に愛されたい人間がすることだから。

 そうして私は、そんな信条とは関係なく、心の底から幸せを願いたい相手の幸せを願えない。私の心が狭いからという、ただ一点の理由で。

 目がどろどろで視界が悪い。視界が揺れてて先輩の顔もよく見えない。でも先輩はたぶん、私の目を見ているだろう。いつも、針が刺さっているみたいに私の目から目を離さないから。

 揺れている視界の中で先輩の口が動くのがおぼろげに見えた。

「私は、たった一人の幸せなんて願いたくなかった」

 濡れた声がして、はっとして顔を上げると、滲んだ視界の中でうつむく先輩の影が見える。私の目を見ないで、先輩は――。

「え」

 まさか。泣いているのだろうか。あの先輩が? 彼女こそ、研修生のころから一度として泣いたことがなかった。そんな機能は捨てたと言ってけらけら笑って、アイドルに必要ないものは全部捨てるのだと言って。私は、そのことにも強く憧れていたのだ。

 だから、私も泣かないと決めたのだ。

「あ、あの、せんぱい――」

 また私の口から間抜けな声が出るのと同時に、先輩は顔を上げた。

「ふざけんな、子供なんて産みたくねぇよ。私は、たった一人の幸せを願うより、一人でも多くの人間を幸せにしたかった! ずっと誰かのために踊って、笑っていたかった! でもできなかったんだよ。それはむりだって世間に言われたんだ。そしたらこうなるしかないだろ。だから――たとえそれが今そうじゃないから言えることだとしても、言うよ、私は、お前に! だったら変わってくれって! だって今、この瞬間に、お前みたいに泣いてばっかだったのにそんなこと忘れましたみたいな、馬鹿なたぬきみたいな顔してふにゃふにゃへらへら笑ってるリーダーのお前が、存在しているだけで救われてる人間がどれだけいると思ってんだ? お前の顔とか、声とか、存在そのものが、誰かが生きる理由になってるんだよ。そんなこと、選ばれた人間にしかできないだろ」

 選ばれた人間という言葉を、あるいは言葉にしなくてもその態度を、もう何度この体に受けただろう。こんなことは口が裂けてもいえないけれど、でも、なにかに選ばれるということは、他のものに選ばれないということだ。私だって週に二回の休みが欲しかった。カメラのシャッターの音にいちいち反応せずに暮らしたかったし、あなたは芸能人だからと、かってに線を引かれたくなかった。

 なにより、選ばれたかった、という大切な人の横で、引け目を感じずに過ごしたかった。私は選ばれた。あなたは選ばれなかった。この関係が永遠に続くなんて耐えられない。

 けど、それでも――。

「先輩はどうなんですか?」

 引っ込んだ涙が鼻の上に溜まっていて、水っぽい奇妙な声が出た。私の言葉に先輩は あ? と睨むように私を見る。いつもいつまでも、この顔だけはずっと変わらない。

「先輩は私が歌って踊って笑って、馬鹿みたいなたぬきの顔してたら救われるんですか?」

 選ばれた人間にしか与えられない素晴らしいものがあるのならば、それを与えるのが自分の使命ならば、私にはそれを与えたい人がいる。たった一人を選んではいけないのだとしても、与えたいと思うくらいは自由ではないか。

 涙目で私を睨んでいた先輩は、ぽかんと口を開けた。

「今、そんな話してないだろ」

「私が生きていて、存在していて、先輩が救われるというのなら、私はなんでも続けますよ」

「だからそんな話してないだろって」

「してるんです、私は!」

「なんでだよ」

「先輩が私のアイドルだからです! 私にとっては今でも先輩だけがアイドルなんです。今どうとかこうとか関係なく、先輩が笑っていれば私は嬉しいしがんばろうって思います。ずっと先輩だけを目標にやってきました。今も、この先もずっとです。だから先輩が笑ってくれるって言ってくれなきゃ、私はがんばれません!」

 なんだよそれ、と言って先輩は乱暴に涙を拭いて、私をまっすぐ見た。こうしていると、針が刺さっているみたいに、先輩の目を見ていたのは私の方なのではないかという気がしてくる。私はずっとこの自分より背の低い先輩のことを見上げていて、褒めてもらいたくて、笑いかけてほしくて、追いかけていたくて、ずっと見続けてきた。

 先輩は、鼻をすって、小さく呟いた。

「さむい」

 自分の口がぽっかり開く音がした。

「ほら! だから言ったじゃないですか! まだ3月なんだから!」

「声がでけえよ」

 またずずっと鼻を吸って、先輩は立ち上がった。なにかよくないことが起こったらと思うと恐ろしくて、私は中腰のままの姿勢でいることしかできなかった。その私の背中を、先輩が手のひらで強く叩いた。

「まぬけ顔」

 そんなのは当たり前だ。私は先輩の前ではただの一人のファンなのだ。好きな人の前では人間はいつだってまぬけになる。それはあなたが私の感情をすべてとってしまうから。感情を全部預けているから。

「しょうがねえからまだお前のアイドルでいてやるよ」

 店の中へ歩き始めながら、ぼそりと先輩は言った。

 いつだって先輩は誰か一人へ言葉を与えることはなかった。誰か一人を愛することはないかった。なぜなら先輩はアイドルだから。アイドルは平等にすべてを愛さなければならないというのが、先輩の信条だったから。だから、これはファンとしての私に与える最上級の言葉だ。

「がんばれ。見ててやるから」

 そのたった一言で、私の世界は一瞬できらめくのだった。 

 がんばろう。

 がんばらないと。

 私はリーダーなんだから。あのグループの。あの子たちの。

「おい、おいてくぞ」

「あ、はい!」

 どんな終わりでも、始まりでも、私だけは全部受け止めてあげないと。

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