それはつい先月の出来事。目にかかった前髪を耳にかけてから彼女は口を開き、都内にあるファミレスの奥まった四人がけの席で一連の出来事は語られた。

怪談師をしている私はインターネット上の某掲示板にて「本当に怖い目にあった」という書き込みを目にし、ネタになるかもしれないと声をかけた。書き込んだのは首都近郊に住む三十代の女性、水地さん(仮名)。会ったこともない私たちの取材に快く応じてくれた彼女は現代では物珍しい着物姿で現れた。隣でえなが「トライフォース、懐かしいね」と呟いた。一瞬何のことかわからなかったが、彼女の帯の柄のことだと気づいた。あとで調べたところ、鱗紋という模様らしい。本当にゼルダなのでぜひ調べてみてほしい。

閑話休題、彼女が語ってくれた物語はネタにするには十分なものだった。


「これはつい先月のことです。私は高校からの友人と北関東のとある山に登るため、去年買ったばかりの軽自動車のハンドルを握っていました。流行りのポップスを口ずさみながら高速を飛ばし、その山の麓にある駐車場に着いた時、その時なんですよ。全ての原因となった出来事が起こったのは。」

「ほう、それは一体どんな?」と私が尋ねると彼女は少し身震いをしてこう続けた。

「目の前に突然横たわった木が現れたんです。どんって大きな音と衝撃が体に伝わってきて、ぶつかったんだと気づいて。私たちの目前で木が倒れたのだとしか考えられなくて、慌てて辺りを見渡しました。麓とはいえ山は危険で溢れていますからとりあえず倒木の原因を見つけようとしたんです。しかし車から降りても木が倒れる理由になるような何かは一向に見つかりません。友人と一緒に四半時ほど辺りを見てまわりましたが、地に伏した大木と凹んだ愛車のフロントだけが事実として残されているだけ。私が途方に暮れ天を仰いだ、その時です。生い茂る木々の葉をかき分けて山の方へ向かっていく巨大な影を見たんです。私は思わず友人の方を振り返り、今我々の頭上を通り過ぎた何かを見たか尋ねましたが怪訝な顔をされてしまいました。今考えるとあれほどの大きさの物体が木々の上を移動しているのに、全く音がしなかったのが不思議なのですけど。

その後何も知らない友人に押し切られ登山を決行しましたが何事もなく山頂に到着。私はこの辺りで何か見間違えをしたんだと思い始めました。いや、そう思いたかっただけなのかもしれないです。そのまま、頭の中にいる影を気にしないようにしたまま山を降り、かわいい顔が凹んでしまった愛車を飛ばして帰宅しました(もちろん友人を送りとどけてからです)。」

正直私はここまで聞いておいて、退屈だとしか思っていなかった。内容はありきたりだし、肝心の謎の存在についての情報が少なすぎる。もうこれ以上聞いても無意味だ。私は話を止めるために口を開いた。

「それは怖いですね____

「いえ、怖いのはここからなんです。」

 私の言葉に被せて発言した彼女の目には怯えの色が見てとれた。続きを聞くほかないようだ。

「私が掲示板に書き込んだ怖い出来事というのは、この日帰宅してから起きたことなんです。登山の疲れからくる眠気に抗い、玄関に荷物を投げ出して風呂に直行しました。そこでです。玄関の方から、人が何かに躓いたような物音がしたんです。私は独り身ゆえそんな音がするはずがありません。鍵をかけ忘れていたのか。一体誰が。なぜ。一気に眠気が吹き飛びました。慌ててシャンプーを洗い流して外の気配を探ります。風呂の扉につけた耳にはしっかりと、実態のある音が聞こえてきます。私はその正体を探るべく、とりあえずシャワーを止めました。今度は物音がリビングの方から聞こえてきました。何かが、家の中を移動している。二本の足で体を支えた生き物、おそらく人間が。私は恐怖のあまり生暖かい浴室の床に座り込みました。床を踏み締める足音は一歩ずつ近づいてきます。跳ね上がる心拍数を必死に抑えて自分の存在を気取られぬよう息を殺してそれが去るのを待ちました。どうしていつかはいなくなると思ったのか今となってはわかりません。でもそう思わなければおかしくなってしまいそうで。私は悪夢なら目覚めるよう強く願っていました。しかし脱衣所のドアが開く音はどう考えても現実なのです。やがて私が寄りかかっていた浴室のドアに人影が映りました。私はもうお終いだと目を閉じました。遥か永い時間(実際には二分ほどだったのですが本当に永く感じられました)人型の何かは薄い半透明のドアの向こうに直立していましたが、やがて(恐らく)来た道を辿って去っていきました。やっと緊張から解き放たれ、弾けんばかりの勢いでドアを開けた私の耳に玄関のドアが閉まる音が聞こえてきました。安心と同時に頭が冴えてきて、私は侵入者が人間ではないことに気付かされました。部屋についた泥の足跡。右足と左足の間、人間であれば何もないはずの其処に。何か足と同じくらい太いものを引き摺ったような跡が、はっきり残っていたんです。ああ、山で見たあれだと直感しました。」

私は何も言えなくなってしまった。

 

一通り話を聞いてふと横の席に目をやると、随分と退屈そうな横顔が見えた。

「えな、お前怖くなかったのか?」

すると私の片割れは表情を変えずに呟いた。

「随分と礼儀のいい神様だね」

一体全体何を言っているのだろうか此奴は。私はこの混乱を共有するべくテーブルの奥へ目線を移した。そこに座る今日の語り部はひどく怯えた顔をしている。

「あの、そこに誰かいるんですか?」

彼女は自身の斜向かいの席に置かれた手付かずのグラスの方を指さしている。あれ、えなは一口も飲んでないのか?

「そういえば紹介していませんでしたね。私の双子の弟ですよ。もしかして見えていないとでもおっしゃるんですか?」

彼女は少し震えながら頷く。

「そりゃそうだよ」

と隣から声がする。どうやらその声もテーブルの向こう側には届いていないらしい。何やら化かされているような気分だが今はそんなことどうでもいい。少し脚色すれば次のライブで披露できる。早く帰って原稿を書きたい。貴重なネタを提供してくれた水地さんには丁寧に礼を言い、謝礼を渡した。

えな、帰るよ、ってあれ?今日結構寒いけど上着着てこなかったの?



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