自由落下

まとわりつく生ぬるい空気。騒がしい蝉の声が遠のいていく。


陽が落ちる。意識がはっきりしてくる。世界はもう暗闇に包まれていた。


扉を開けると岩肌が目の前に広がった。


今夜もそろそろふけてくる頃だろう。明日は一体どんな太陽を見られるのだろう?正方形の太陽はそろそろ見飽きたな。


私の住んでいる街には大きな、大きな獏が横たわっている。私たちが夢を見ないのはそのおかげ。今夜そいつが飛び立つらしい。


頬を汗が伝う。全身を燃えるような暑さが包み込んでいる。そろそろ覚悟を決めなくてはならないようだ。


岩にヒビが入り、地鳴りが響く。山肌はかつての面影すら見られないほど削げ落ちている。一山を踏み抜いたであろう、かの足はもう見えない。


あいつが口を開く。ありったけの機関車が一斉に汽笛を鳴らしたかのような凄まじい咆哮が空気を、そして世界を、そして、それから。


日陰は気持ちがいい。でも力の限り降り注ぐ太陽の光を全身で受け止めようとするかのように立つ木の下で木漏れ日を浴びるあの瞬間が、どうしても思い出せない。暑さの中に確かな涼しさのある、あの感覚は、俺の中に残っていない。


大地を蹴って、虚空を蹴って、その不可視の翼を広げ、大きく羽ばたいて、もう一度絶叫する。


カーテンを開けると、奴が覗き込んできた。自分の身長よりも大きなその瞳は、私を、私の脳を、私の夢を貫く。その思考は、私の夢を穿つ。


ビールの缶を放り、ベッドに倒れ込むと、睡魔がやってくる。今日は大きな鎌を持っている。死神がよく持っているようなアレだ。薬の副作用はこんな細かいところに現れる。この絶妙な嫌さにも、もう何も感じない。


お母さんはもう仕事に行ってしまった。今日も冷えたご飯をかきこむ。お父さんはいつ帰ってくるんだろう。あと一年で僕の世界は無くなっちゃうのに。もう一度でいいから、会いたいな。


奴は、夢を噛み砕いた。そして全てを飲み込んだ。


飛翔。それは決して空を飛ぶということではない。飛び立つことだ。いうまでもないが、やつが。この地を遥かに見下ろすものたちは、高らかに、卑しく笑っている。それがわかる。


飛び立ったはずの巨大な獏は、目を覚ました私を見つめている。私はやっと夢を見られた。きっとこの街の人たちは今頃現実を手放し、現実から目を背け、現実を蹴って、思い描いてきたその虚空に、あの獣の如くその身を躍らせている。

空を泳ぐ獣は、高く天を目指す。大いなるものを食らうため、一心不乱に羽ばたく。食われんとするものたちは、それを見下ろしている。あるものは剣を、あるものは槍を、またあるものは弓を取った。唸りを上げる獣は、それを知らない。


半覚醒の朧げな意識の中、君の艶やかな黒髪に指を滑らせる。穏やかな寝息には、微かな軋みが混じっている。規則正しいその声に耳を傾けながら、君の身体のきめ細やかな舌触りに思いを馳せる。


日の当たる縁側はとても気持ちがいい。膝の上の猫が喉を鳴らす。騒がしい蝉の声は陽の光がもたらす陽炎に揺れている。あの子はまだ元気でいるだろうか。膝の上でか細く鳴いていたあの頃は遥か昔。今となっては思い出せない遠い過去。


目の前の坂を見据え、ペダルを踏み込む。ハンドルを握りしめると拳に汗が落ちる。自転車に乗るのは奴が横たわった頃以来だ。


矢が放たれ、槍は投擲され、剣は来るべき瞬間に備えてその身を輝かせた。獣は未だ何も知らない。


駅に止まった電車から溢れ出した群衆は我先にと階段に向かう。なんて不快な光景なんだろう。一つの場所にこんなに人を集めるなよ。いろんな犯罪があの人混みの中で行われているのは事実だろう。なんとかしてほしいものだ。誰か、なんとかしてくれ。私がその恩恵を受けてやるから。


獲物を喰らわんとする獣に、その射線上にあるもの全てを屠ろうとする狩人たちが突き刺さる。獣の騒々しい悲鳴が響き渡る。虚空に冷酷な光を投げている剣は血の香りを嗅ぎつけその煌めきを一層鋭くする。獣は少しでも足掻こうと最後の力を搾り出し、己を見下ろすものたちに牙を突き立てようとする。夢が、意識を取り戻しはじめていた。


背中に感じる畳の感触。大きな窓から吹き込んでくる生ぬるい空気が肌を撫でる。四方から射す日光は、歪な影を編み込まれたいぐさに映す。この畳、捨てられちゃうのかな。そりゃ、こんなに大きな染みがあったら、もう使えないよね。それにしてもこの包丁は失敗だったな。無機質すぎて可愛くない。もう刺さってるからどうもできないけど。


初めて手を繋いだ時の胸の高鳴りと幸福感。その笑顔がくれた、どんなものにもにもかえ難いあの愛しさ。さて、次はどうしよう?


坂を駆け降りると大きな館が見えてくる。蔦に覆われたその外見と雰囲気がとても好きだった。しかしは恐怖に勝てず、中に入ったことはなかった。それでも最近になってからなんの躊躇もなくその扉を開けられるようになった。尤も、それは私の意思ではない。断じて、私の意思ではない。


明確な殺意を漂わせる白銀の刃が、獣の心臓を躊躇いなく貫いた。溢れる野蛮な血液が地上に降り注ぐ。天を睨みつけていた双眼に光は残っていなかった。覚醒の時が来たことを悟ったのか、夢がその思い瞼を上げようとしていた。


朝起きて、起き上がって、ベッドから降りるために踏み出した右足は椅子を踏み抜いた。机を朝食にして床を目玉焼きにしよう。


下へ、下へ、下へ、下へ、下へ、下へ、


地震か?にしては大きいか?それにこんな音がする地震があるか?

その時、外の景色は何も変わっていないのに、窓枠が砕けた。次に壁にヒビが入った。さらにその後、自分の体が吹き飛ぶのを感じた。意識が飛ぶ寸前、一瞬だけ見えた街の中心には、大きな肉の塊が鎮座していた。そして俺は砂嵐に飲まれた。

目を覚ますと、脇腹に鉄骨が突き刺さっていた。

屍と化した巨躯が弾けたのは朝日が昇るのとほとんど同時だった。肉と、内臓と、血と、骨が町中に降り注いだ。民家の屋根には巨大な肉塊が点在し、時計台は真っ赤に染まった。眼球が坂を転がり落ち、役所に突っ込んだ。紅を纏った人々は、次々に溶解していった。参事の中心たる街の心臓の残骸の変貌に気づくものは一人もいなかった。


目を覚ますと慣れ親しんだ天井が見当たらなかった。何度瞬きをしてもそれは変わらなかった。私は思い切り悲鳴をあげた。そうしてやっと目を覚ました。視界の中に見覚えのあるものは一つとしてない。私はいつからこんなだだっ広い草原で眠っていたと言うのだ。この水に溶いた絵の具のような空はなんだ。ここは、一体何処だ____


視界が、感覚が、感情が、記憶が、自分を構成していた儚く、常に揺らめいているものたちが、外側に、赤に溶け出していく。


そこは森だった。その昔、森にはたくさんの生き物が住んでいた。森の中心には樹齢を数えるのも不可能に思えるほど長生きで巨大な木が生えていた。世界で一本しかない木だった。木は常に葉を茂らせ、生き物たちの住処となり、傘になり、時には餌となった。木は森の心臓だった。


一面の赤、一点のもゆる緑。


森が端から端まで行くのに何週間かかるほど大きくなった頃、人間がやってきた。人間は草木を刈り、生き物を殺し、森を壊して行った。止められるものは何一つ存在しなかった。やがて人間は木の元にたどり着いた。森は跡形もなくなっていた。木は一年と四ヶ月かけて切り倒され、細かくされ、木材になり、人間の世界に持ち出された。美しく丈夫だと大変に人気で、高額で取引された。


獣の血を糧に芽吹いた若葉は恐ろしい速度で成長した。

その木で作られた椅子を手に入れたから見にこないか、そう言って友人は私を家に招待した。何せ美しいと評判で、高級な物だったから、一目見たいと思い、二つ返事で承諾した。中々予定が合わず、訪問は一ヶ月後に決まった。


胃液の味を口内で転がしながら幾度目かの吐き気を飲み下す。全身からは気持ちの悪い汗がとめどなく溢れている。焼けた石の如く熱を発する体に反して、奥深く、芯の部分は真夜中の氷海の様に凍てついている。


一ヶ月後、私は日没と同時に彼の家に到着した。家は静まりかえっていた。物音の一つもしなかった。念の為電話してみたが、反応はなかった。玄関のドアには鍵がかかっていなかったので中に入る。もう夜だと言うのに電気もついていない。彼自慢の豪邸は闇に沈んでいる。携帯のライトをつけた。スイッチをみつけ押したが照明はつかなかった。どうやら電気が停められているようだ。彼はこんな環境で暮らしていて、椅子を買ったのだろうか。


天を穿とうとする芽吹は突き出た骨から血液が滴る一瞬の内に大いなる者に傷をつけた。神の血は新たな芽に力を与える。天上を覆い尽くすかのような勢いで枝をあらゆる方向に伸ばし、贄となった血の怨みを晴らすかのように見下す者どもを逃さなかった。


果たして、彼は椅子に座っていた。きっと、かなり前から。彼は身動きもせず、呼吸さえせず、美しい椅子に抱かれていた。

私は彼を観察した。どう考えても餓死や病死では無いことが明らかだった。彼の口からは瑞々しい緑が芽吹いていた。


赤に染まった大地に再び鮮血が降り注ぐ。緋色を飲み込んでいく地表には、少しずつ萌が見え始める。居場所を奪われた血液は斜面を流れ、飛散し、血溜まりをつくる。赤の中からは新しい生命がこちらの世界を覗き込んでいた。


あれからだいたい十年が経っただろうか。彼の家があった場所には見上げるような巨大樹がそびえている。おそらく世界の色々なところでこんなことが起きているだろう。あの木材はたいそう人気だったのだから。

今でも森は広がり続けているのかもしれない。


燃えるように赤い世界で目を覚ましたそれには過去の生物にはあったあるものがなかった。千古の昔より命あるものを苦しめてきた、感覚の終わり。そう、それには終わりがなかった。それが死ぬことはなかった。


あの日彼の家で私の指に刺さった小さな木の棘は、今では腕に根を張り、私を痛めつけている。まるではるか昔に失われた自然の尊厳を叫ぶかのように。                                                                       


聳える巨大樹の根本にある計り知れない大きさの肉の塊は、人知れず朽ちていく。

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