「壁」を超えても

「壁」に突入する少し手前くらいで、集団の先頭、横風に応じて斜めに展開した部分から道の反対側の縁に入るあたりの位置ポジションで落車が発生した。路肩を走ろうとして、雪でぬかるんだ路面にタイヤを取られたらしい。

 これで先頭15人ほどと後続との間にわずかな空隙ができた。15人はこれ幸いと暗黙のうちに一致了解してメイン集団プロトンを引き離しにかかる。置いて行かれた集団の先頭にも、15人の中にチームメイトを送り込んでいるチームが立って、ペースを支配コントロールしにかかる。これは逃げが決まるな。幸いにも15人の中にいた俺は、さらにペースを上げるべく先頭交代に加わった。……が、俺が先頭に立ったのもつかの間、すぐにその前をライバルが塞いできた。

日本人ジャポーネ……トーゴ? お前が先頭に立つとペースが落ちて集団プロトンに捕まる。大人しくついてこい」

 フランスが語が飛んできた。名前もろくに覚えてないあたり、やっぱり日本人はこの自転車界せかいで軽く見られてる。一瞬ムカっと来たが、そいつの姿を見て考えを改めた。

 肌の色が黒い。自転車で黒人とは珍しい。金銭的に敷居の高い競技なので、まだ黒人選手の例がなくその実力は未知数なんだが。しかしどんなスポーツでも活躍している彼らを見てると、自転車でも潜在能力は高いと見た方がいい。ゼッケンから名前を思い出してみる……ベルナールと言ったか。要チェックだな。

 15人はそのままいよいよ「壁」に突入する。最大勾配25%とはいえ、距離はせいぜい2km。プロなら勢いにまかせて登れる道。

 ……なんて、百聞は一見に如かずだな!

 まず路面。ベルギー名物のいい加減な石畳が自転車マシン選手ライダーを揺さぶる。もっと石畳が荒れてる「パリ~ルーベ」でも、ひところ流行はやったサスペンション・フォークはすっかり影をひそめた。ましてや「ツール・ド・フランドル程度の石畳」じゃ、「極端に寝たシートアングル」も、「異常に長いリア~センター」も、「極太の耐パンクタイヤ」も使われない。普段いつもと同じ自転車でこの振動に挑まなければならない。

 ケツが砕けそうな衝撃には耐えればいいが……タイヤが跳ねて空転する! ペダリングパワーが路面に伝わらない! これは「軽いギアで速くペダルを回す」なんて言ってられない! 重いギアで、しっかりトルクを伝えないと!

 そして事前に調べていたが……この道幅。マジで自動車一台通るのがやっとしかない。

 俺は後方の大集団プロトンがこの先たどるであろう運命を思って少し同情した。この狭い道に、200人からで突っこむ。横に広がれる幅はない。ならあぶれた選手はどうなるか? もう走る場所がない。だったら「止まる」しかない。かくして大渋滞の発生だ。スプリンター、クライマー、ダウンヒラー、オールラウンダー、そんな言葉は関係ない。お前らの勝負レースは「ここで終わり」なのだ。

 ともあれ勝利への第一関門をクリアしたと安心する間もなく、今度は「壁」を利用して「いらない」選手を降り落とすべく、小刻みなアタック合戦が始まった。雪で体が冷やされた。風で脚を消耗した。正直どこまで行けるかまったく分からない。けど分かるのは、

「ここで置いていかれたら一巻の終わり」

 その厳然たる事実だ。

 だから雪に耐え、風に耐え、勾配に耐え、衝撃に耐え、泥濘に耐えて、先頭に食らいつき続ける。もちろんチャンスがあれば自ら先頭に立つ。その使命に耐えきれなかったライバルが一人、また一人と脱落していく。

 外野が「最大の難所」と称する「コッペンベルフの壁」に至るころには、先頭は5人まで絞られていた。

 いよいよ来た。最大勾配25%。ここを制すれば……っ!

 振動と冷たさで、手先足先にはもう感覚が残っていない。もうまともに思考する能力もない。ほとんど根性だけで重たいペダルを踏み抜く。

 俺を含めて5人。一人の脱落者もなく、この難所を抜けた。

 ゼッケンから名前を思い出す。アメリカのグレッグ、イタリアのファウスト、フランスのベルナール、ベルギーのメルクス。

 ……って、メルクス~? なんつー名前だよ? 名前だけでビビッちまうじゃないか!

 思考が一瞬絶望感に支配された、その瞬間。

 俺を除く4人が、示し合わせたかのように一斉に加速した。

(なっ……こいつらコッペンベルフを抜けて、まだこんな余力が?)

 俺は泡を食ってサドルから立ち上がり、4人に続こうとする。……が、その脚は、そして腕は、意思に反して力なくがっくりと折れ、もはや胴体を支える力すら残っていなかった。

日本人ジャポーネ。お前の走りは、しょせん『自転車が好きな奴』だ」

 ベルナールが捨てていったフランス語が、いつまでも耳にこびりついて離れなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る