フランドルの序盤

 パレード走行から正式なスタートが切られてしばらくすると、チームメイトの塚本が寄ってきた。なにか作戦があるとかトラブルがあるとかいう雰囲気じゃないから、退屈しのぎの軽い雑談でもするつもりだろう。

「昨日ニューマシンが届いたんだよ。ガチガチの前後サス。ダウンヒル仕様だぜ。百万したけどな」

「お前またMTBマウンテンバイク買ったんか。何台目だ?」

 案の定。いつもの愛車自慢が始まった。俺はテキトーに相槌を打ちながらも内心いい加減うんざりしていた。

 とにかくこいつの、いや日本人選手の自転車好きにはほとほと愛想が尽きてる。

 日本人の自転車サイクルロードレース選手というのは――基本的に「競輪選手になれなかった連中」だ。

 競輪ピストで食っていくにはレベルが足りなくて、でも自転車は好きで離れられなくて、だからロードに「流れる」。

 だから稼ぎギャラ自転車を買う・・・・・・

 これが他に道がなくて食うためにロードをやってるヨーロッパの選手だと、「シーズン・オフの間は自転車は見たくもない」という連中が大半だ。「イタリア人ならまず車、ベルギー人なら家を買う」とは誰かが残した名言だが。

 ちなみに日本人でロードでも生き残れない連中はと言うと……現在いまならMTBマウンテンバイクに「流れる」。俺の見るところ、塚本も5年後くらいにはMTBに行ってるな。

 ひと通り自慢話を追えて満足した塚本が離れるのと入れ違いに、神山が近寄ってきた。今度はなにかトラブルを抱えた顔だ。

「なあ……」

 ちょと口ごもってから、言葉をつなぐ。

「小便したい」

「すれば」

 俺はこともなげに言い放った。

「だってレース中だぜ?」

 まだぐずる神山に、俺はいい加減呆れて答えた。

「お前ここまで走ってきて分かってないんか。走りながらするんだよ」

「走りながらって、お前そんな?」

 狼狽する顔色がいっそ面白い。

「じゃあ止まってすれば」

「止まったら集団プロトンに置いてかれるじゃないか。誰か連れ戻してくれよ。俺を引いてくれよ」

「甘ったれんな。このチームのエースは俺だ」

 それで神山は止まってすることを選んだらしい。集団から離れて後退していった。

 ……と、そんな話をしてたらこっちももよおしてきたな。

 有言実行。よっこらせっと。

 レーサーパンツの裏地からサドル、そして内ももへと、生暖かく濡れた感触が伝わっていく。それもこの雪風にさらされて、瞬く間に身を切るような冷たさに変わっていく。俺にとっては日常のことだ。


 済ませるものを済ませて、補給食も腹に入れて、戦闘態勢を整えたタイミングで、いい感じに風が吹いてきた。

 もちろんサイクリング日和のそよ風、なんてのどかな意味ではない。隣のオランダでは重たい風車を軽々と回す、ちっぽけな人間+自転車なんてひと吹きでぎ倒してしまうような、猛烈な強風だ。

(さて、いよいよ戦闘開始っと)

 俺は日本人チームメイトを相手にしてすっかりふにゃらけた思考を投げ捨てて、早くも動きを見せ始めた集団の先頭へとペダルに力を込めた。

「お、おい東郷、この強風でなにトチ狂って先頭なんて行ってるんだよ?」

 後ろにいた三浦の戸惑った声が聞こえてきた。

「そのうち解る。お前も『レース』する気があるんなら、今から先頭に立つんだな」

「俺はクライマーだぜ?」

 三浦は呆れたように手を広げた。馬鹿め。呆れたのは俺の方だ。

「こんな強風で俺に何をしろってんだよ? 俺は『壁』に備えて脚を貯めてるんだよ」

「ならせいぜいたっぷり脚を貯めとくんだな」

 俺はそれだけ言い捨てると、あとはもう甘ちゃんアマチュア連中など振り返らず一目散に先頭へと駆けて行った。『壁』の本当の怖さを解ってないのはお前の方だよ。お前のレースは「ここで終わり」だよ。

 一人日本人が先頭争いに加わって来たのに反応して、ヨーロッパの選手たちの好奇の目が一瞬俺に集中した。

(一人日本人が上がって来たぜ)

(ツール・ド・フランドルを、少しは解ってるみたいだな)

(けど先頭にしゃしゃり出てきて、はたしてどれだけ走れるんかね)

 わずかにそんな会話が囁かれる。あとは「やれるものならやってみな」くらいの態度で、とりあえす定石とは逆の「後ろから前へ」の先頭交代ローテーションに加えてくれた。誰も俺の着るジャージに注意を払う者はいない。

 そう、俺も意識していないので忘れていたが、俺の着るジャージは他のチームメイトとは違っている。

 白地に赤。日本の国内ナショナルチャンピオンを示すジャージだ。

 しかしこのジャージに、本場でどの程度の価値があるのかははなはだ疑わしい。正直日本選手権のためにわざわざ帰国するのも時間の無駄だとすら、俺は思う。しかし「日本チャンピオンはること」というのが、ヨーロッパに行くのと引き換えのチームとの契約だった。

 だから「このジャージは誰にも渡せない」とか、「このジャージに恥ずかしくない走りをしなければ」とかいう思考は、俺の中には存在しない。こんなもん、欲しい奴にはどうぞくれてやる。その代わり俺を本場メジャーで走らせてくれ。

 その日本チャンピオンジャージを、おあつらえ向きの雪と強風が汚していく。ウィンドブレイカーもウォーマーも役に立たず、容赦なく肉体が冷やされ体力が奪われていく。

 それでも、今先頭を離れてはこのレースを「戦う」権利はなくなってしまうんだ!

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