第6話

 教室に風は吹いていない。きっと室温も変わっていない。

 だけど、今の僕は猛吹雪の中にいるようで、目を開いて、そこに崩れ落ちないようにしているので精一杯だ。

 それでも、僕は伊橋さんから視線を逸らせない。今、見つめなければいけないもの、それが伊橋さんなんだ、という確信があって、僕はその場に踏みとどまる。

 世界から隔絶されるような寒さ、恐怖。

 僕の世界との接点として今、唯一残っていてくれているものが伊橋さんなんだ。


「伊橋さん、助けてください」


 声を振り絞る。僕は何も出来ない。この恐怖に抗う力を持っていない。

 でも、自分のことなのだ。他の誰でもない、僕の恐怖で、孤独なのだ。

 何も出来ないならせめて、助けくらい自分で求められる自分で在りたい。


「状況判断と頼むって姿勢は正解。少し痛むわよ。我慢しなさい」


 そう言うと、伊橋さんは思ってもいなかった動きを始める。自らの右手を顔の前にかざす。それと同時に僕にもそれが視えるようになる。

 伊橋さんの左目は左目ではない。その瞳があるはずの場所――そこにあるのは孔だった。僕の胸のものと同じ、孔。


「偽装現実、解除。孔、顕在化」


 そして、伊橋さんは手を入れる。自らの右目に位置する孔へと。何かを、取り出すかのように。

 ゆっくりと、彼女は孔から手を抜いていく。

 そこから光るものが見える。彼女の視線を彷彿とさせる鋭さを伴った煌めき。

 果たして人体に彼女が取り出したものを収納できるスペースなんてあったのだろうか?

 伊橋朱音さんの手にはナイフが握られていた。


「な、ナイフですか!?」


 思わず声が出てしまう。銃刀法違反! とか思うけど僕もそういう理屈でない世界に入ってしまっていることはわかっている。でも、彼女が右目に位置する孔から取り出したその存在によって、僕をどうしようというのか、それがわからない。


アウトホールは人の想像力が作る。この世界からズレてしまった想像力が」


 彼女が近づいてくる。淡々と、冷静に。焦っていたり、勢い余ったりすることの方が悪いような優美な歩きだった。


「想像力、それは本来世界の成り立ちと一致しているの。腹に落ちる。腹を割って話す。人の心はお腹にいくものだってイメージがあって、それと世界を一致させている。ストレスが溜まって、体に良くない異変が起こると人が想像する時、それは胃袋みたいなイメージの集積場に向かう。胸にも気持ちは集まるけど、胸に穴が新たに出来たら死んでしまうから、大抵の人はそのイメージを信じられない」


 彼女がナイフを宙に奔らせる。

 それは見惚れるくらいに鮮やかで、僕の胸の孔の前を掠めていく。


「だから、アンタみたいな胸に孔を作って、それでいて気づいていない、生きている人間ってのはズレている。だからこんな風に――」


 ナイフが掠めただけで、僕の孔が疼く。さっきまでの寒さとは打って変わって、熱すら感じる、何かが溢れていくのを感じる。


「アンタの孔が喰われていても気づかない」


 それは鮫だった。無数の小型の鮫が、ナイフの軌道によって引っ掛けられたかのように宙に舞う。


「さ、鮫!?」


 思わず驚愕する。何故鮫!?


「別に不思議なことじゃないわ。アンタと私がいるのは現実でありながら想像イマジナリの世界。現実の物理法則、価値尺度はこの世界で飛躍するための材料に過ぎない。どんな存在だって起こりうる。その想像の主が強く想うのならね。そして、こうして現実を侵食する想像を想像顕現アウトホールイマジナリ、と呼ぶ」


 僕はこれでも映画オタク。空中を飛ぶ鮫もありえない挙動をする鮫も見慣れている。でも、僕が現実と認識する今ここで見るとひたすら驚愕の感情だけが僕に溢れている。

 宙に跳ねた鮫を視認する。コバンザメのようなフォルムだ。でも、牙やその顔つきはデフォルメされていて、「わかりやすく」凶悪な印象を僕に与える。

 鮫達が反転して、伊橋さんを睨みつける。


「ゴアアアアアアア!」


 これが想像! 叫ぶ鮫! そんなのアリですか!? とツッコミを入れたくなるけど伊橋さんは真剣そのものといった様子で彼女を取り囲むように回遊するそれらを睨みつける。


「アンタは安心しなさい。宿主を殺そうとはしないはずだから。今コイツらが外敵と認識しているのは私だけ。そこでただ、見ていれば良いわ」


 上空に存在する彼女の敵、鮫は七匹だった。それぞれが手のひらサイズ。そこまで大きくは無いものの、僕の胸の孔の中で彼らが巣食って僕を食べていたというのはどういうことなのだろう?


「想像顕現の主が近くにいないのに既にそれぞれが顕現し続けている。もうとっくに独立しているみたいね。在校生か何かが主なのかしら……いや、教師の可能性もあるわね」


 伊橋さんはそんな風に呟きながら鮫を見つめている。その姿に油断はない。彼女の張り詰めた空気感がより一層鋭利なものになっているのを感じる。

 鮫が彼女へ向かって突撃を始める。七匹同時ではない。それぞれ時間差をつけて、前から来れば次は後ろ、右からくれば次は左、といったように彼女の視点を振り回すような、群体として知性をもっているかのような軌道の攻撃だった。

 彼女が舞うように、それを交わしていく。僕はそれに見惚れてしまう。バレエダンスの発表会を見ているかのような心地。

 伊橋さんには僕には見えない鮫の軌道が見えているようだった。完全に、空気の流れを読んでいる。それぞれの鮫の噛みつきを時に見つめながら、時に視線もやらずに回避する。

 外れた鮫の牙が教室の机に直撃する。一匹一匹の噛みつきは即座に致命傷にならない程度のサイズだ。それでも、直撃をしたのなら伊橋さんの行動が止まるであろうことは容易に想像が付く威力の攻撃だった。

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インプットガール/アウトホールイマジナリ 吉野奈津希(えのき) @enokiki003

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