第5話


 さっき歩いてきた学校の道のりを戻ると殆ど時間は経過していないはずなのに雰囲気は一変していた。階段や廊下では入学したばかりの一年生や、入学式シーズンの雰囲気で楽しそうな上級生がいて、雑談など、教室では親睦を深める人々の姿もいた。放課後の時間をそれなりに楽しんでいそうな空気がそこにあったのだ。

 でも、僕が手紙を見て戻った時にはその空気はない。というか人がいない。

 昇降口からUターン、階段を登っている時は違和感程度だったのに、廊下にくるとそれは確信に変わる。


 変だ! 


 さっきまであちこちで談笑していたはずの生徒がいなくなっている。放課後に次回の授業の準備で教室に訪れていた先生もいない。まるで学校から皆がいなくなってしまったかのように、僕は自分の教室、1年2組に近づくほどにその異変は強まっていく。

 何か、決定的な、自分の望む理想の学校生活を送るにはやってはいけない過ちを犯している気分になってくる。


『話があります。放課後、1年2組の教室でお待ちしています』


 そう、手紙には書かれていた。

 教室の前に立つ。扉は閉じられている。僕がもらったものは本当にラブレターだったんだろうか? 丁寧な文章ではあったけどラブレターというには簡素すぎないか? もしかして、単純にカツアゲとかいじめなのでは……! と思うけど、僕の体はそんな懸念とは反対に扉に手をかけている。好奇心のような、何か「この扉を開けないといけない」という直感が僕に訴えかけていた。


「し、失礼します」


 おそらく同じ生徒からの呼び出しというのに職員室に入るようなテンションで挨拶をしてしまう。

 扉は少し重く感じた。

 ガラッと横に開かれた扉の先に、僕を呼び出した手紙の主と思われる人が立っている。


「伊橋さん?」


 そこに居たのは今朝、僕が最初に声をかけたクラスメイト――伊橋朱音だった。


「来たのね。扉、閉めて」


 教室に入る。わざわざ扉を閉めるように言われたことが僕の緊張を高まらせる。人にあまり聞かれたくない話をしたいってことなんだろうか?

 教室は閉め切られている。カーテンも閉じられていて、まだ昼を少し過ぎたぐらいだというのに薄暗い空間になっていた。


「どうして急にこんな場所に?」

「その前に、アンタに聞きたいことがあるわ。もう一度、私の名前を言ってみて」

「名前?」


 そんなの簡単だ。あんなに印象的だった人の、というか今日一日の僕の思考リソースを殆ど食い尽くした人の名前を忘れるわけがない。


「伊橋朱音さん、です。同じクラスの」


 同じクラスの、というあたりに「だから出来れば穏便な話にしてくれませんか?」と願いを込めたのだけど、僕の願いとは裏腹に伊橋さんの表情が険しくなる。

 ああ、許して! 何が悪いのかもわかっていないんですけどとにかく許してください!


「私の名前を正しく認識しているのか。何かミスった? いや、偽装は確かに成功していたし……」


 でも伊橋さんは僕にどうこう感情がある、という感じでもなかった。僕自身が何かをやらかしてそれにネガティヴな感情を持っているというよりは僕をきっかけに何かに気づき、その「何か」について思考を巡らせているようだった。

 そんなシチュエーションとは裏腹に僕は少しだけ高揚感もあった。直接的に僕に対して嫌悪感を持たれているわけではなさそうだ、というのと、これをきっかけに友達になってもらえるかもしれないという淡い希望があったからだ。

 彼女の考えている何かに手助けが出来れば、それは一気に現実的な線になるんじゃないか?


「私の偽装現実は確かに維持出来ている……コイツが原因? いや、それだとしたらこの距離ならもっとはっきりわかるはずだし……」

「あ、あの伊橋さん!」

「ごめん、ちょっと黙ってて」

「あ、はい。すみません。黙っています。貝になって海に沈みます。光の当たらない深海こそが僕の生きるべき場所です。地上に出てきて申し訳ございませんでした……」


 完全に僕は沈黙する。少しの静寂。考え込んでいる伊橋さんを見るとさっきまでとはまた違った緊張感が湧いてくる。印象的な金色の髪と制服、そして真剣な表情の彼女は端的に言って美しかった。

 こんな美人と二人で同じ教室にいるのか……! と、僕の精神状態が揺れ動いていたタイミングで彼女が口を開く。


「アンタ、寄生されているわよ」


 寄生? 

 急に健康診断でも始まったのか、それとも彼女なりのジョークなのかと考えるけど、伊橋さんの表情は真剣そのものだ。


「そいつらがアンタをゆっくり食べ始めている。まだ気づいていないかもしれないけど、時期に不調になって現れるでしょうね」


 状況が飲み込めない。伊橋さんが動く。


「アンタが私に声をかけられたのもそれがきっかけ。世界とズレているから同じズレている私を認識できた。初めはアンタも私と同じかと思ったけどそういうわけでもない」


 僕の方へ、歩いてくる。


「このまま放置しても寝覚めが悪くなる。サービスでやってあげるわ。少しスースーするのは我慢しなさい」


 僕が何かを言う前に彼女が僕の方へと手を伸ばす。


「胸にあるとはね。アンタ、相当に変わり者ね」


 僕の制服のシャツが捲られる。その途端、さっきまでは認識していなかった寒気が僕の全身を襲う。


「あ、あああ……」


 ここは、寒い。極寒の中に裸で放り出されたかのような感覚。

 そして、思う。気づいてしまった。今こうして生きていること自体が間違いだったと思うほどに、この状況が当然だったということを直感的に理解する。

 むしろこの寒さ、恐怖に気づいていなかった今までこそがおかしかったのだと。僕はわかってしまった。この震え上がる感覚は、他のクラスメイトは持っていないのだろう。僕だけが持っている恐怖なのだろう。自分だけ、という恐怖。他人に理解してもらえない、という恐怖。そして他人とズレた世界に自分がいるという恐怖。


 存在の不安。


 全てがないまぜになって僕はパニックに陥る。思考ではなく感覚が先行して僕の感情を掻き乱す。その寒さは僕の胸からきていた。

 僕の胸の中央に、穴が出来ていた。いや、ずっと前からあるようだった。僕が気づかなかっただけだ。


「いい? よく聴きなさい。世界には《空白》があるの。この世界で不可視になっているあらゆるもの。それは不可視であるが故に、全てが可視化された世界において《見えない穴》という形で浮き上がってくるの。それがとして浮かび上がる。アンタの胸にあるのはそれよ」


 伊橋さんが僕に語りかける。その口調は突き放すような口調なのに、それとは裏腹に僕は今いるこの世界でその言葉だけに暖かさを感じている。この世界で誰にも分かち合えない空白の存在を伊橋さんだけが唯一、その存在を認めてくれているという安心感。


「一つだけ安心していいわ。アンタの今感じている寒さは半分だけ外側から来た異常事態。半分はアンタ自身のもの。私は半分の異常事態だけなんとかしてあげる。残りはアンタで抱えなさい」

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