第37話 幕間 救われた者と救われなかった者 前編

 追われている。見たことも無い奇妙な生き物に。


「はあ、はあ、はあ」


 社会人になってから二十余年、運動不足で毎年の健康診断で色々な数値で注意されていたものの、それを率先して改善しようとしなかったことをこれほど後悔したことはない。


 可愛い一人娘にダイエットするように言われた時に従っていればよかった。


 そうすればもう少し若い頃のように走れただろうか。


 もっと早く走れれば、あの見たことのない化物からもっと楽に逃げられただろうか。


「ぜえ、ぜえ」


 呼吸が持たない。


 明かりもない森の中を我武者羅に駆け抜けたせいでもうここがどこか分からない。


 いや、そもそも意識を取り戻した場所の時点で明らかにおかしかった。


 いつも通りの会社からの帰り道。

 残業したせいでいつもより少し遅くなっただけだ。


 それなのに気付いた時には見たことも無い森の中にいた。そしてそこにいた緑色の肌をした化物に襲われたのだ。


(意味が分からない。何故私がこんな目に?)


 噛みつかれた腕から血が滴り落ちるのが分かる。


 奴らはこの血の匂いを追って来ているのだろうか。


 それとももう撒けただろうか。分からないが恐怖から逃れるように走るしか今の私にできることはない。


「うわ!?」


 限界がきて足がもつれたのか、それとも暗くて見えなかった木の根っこに足が引っ掛かってしまったのか転倒してしまう。


 息切れも限界でその場で動けずに荒い呼吸をどうにか落ち着かせようとするしかない。


 息を整えながら座り込む。


 ふと自分の格好を眺めるとスーツが泥だらけだった。


 腕の部分は化物に嚙みつかれて破れてしまっている。折角の娘からの誕生日プレゼントだったのにこれではクリーニングに出してもダメだろう。


 腕が痛い。ズキズキとする痛みがこの状況が決して夢でないと嫌でも教えてくる。


「私は……死ぬのか?」


 その疑問に答えなんてある訳がない。


 この場にいるのは何も分からない私自身がいるだけ。


 もしかしたら近くに問答無用で襲い掛かってきたあの化物がいるのかもしれないが、奴らがその解答を教えてくれることはないだろう。


 いや、言葉では教えてくれなくても行動で教えてくれることはあるかもしれない。


「嫌だ、死にたくない」


 心の底からそう思う。

 死にたくない。


 高校生になって最近は口もきいてくれなくなった私のたった一人の愛娘。


 最後にまともな会話をしたのはいつのことだろう。それでも誕生日プレゼントを用意してくれる優しいところもある子なのだ。


 その愛娘を産んで育ててくれた妻。


 何十年の付き合いだから喧嘩もよくしたが、たいした稼ぎもない私を支えてくれている私なんかにはもったいない自慢の妻だ。


 そんな愛しい家族にもう会えない。

 それは嫌だ。絶対に嫌だ。


「ギイイ!」

「ひっ!」


 そんな私の思いを打ち砕くかのように茂みを描き分けるようにして化物が現れた。


 それも今度は一体だけではなく三体も。


 久しぶりに全力疾走した足はまだ足も震えていて息も全然整っていない。


 それでもこのままでは不味いとどうにか背を向けて逃げようとしたが、その前に化物が飛び掛かってくるのが先だった。


「うわ、やめろ! 離せ!」


 足に飛びついてきた化物が容赦なく爪をふくらはぎに食い込ませてくる。


 必死になって抑えられていないもう片方の足で蹴とばして引き剝がそうとするが中々上手くいかない。


「ギヒヒ!」


 その間に他の化物共がニヤニヤとした笑みを浮かべてこちらに近寄ってくる。


 その顔には隠しきれていないこちらをいたぶろうとする嗜虐心が浮かんでいた。


「この!」

「ギャ!?」


 渾身の蹴りが決まり、ようやくしがみついていた化物が離れた。


 その隙にどうにか立ち上がって逃げようとするが、傷つけられた足に力が入らない。


 必死に走っているつもりなのに実際にはゆっくり歩いているような速度だ。


 そんな速度で逃げられる訳もない。

 化物達はこちらに追いつくと今度こそ逃がさないとばかりに両足を抑えてくる。


「やめてくれ! いやだ! 死にたくない! 誰か、誰でもいいから助けてくれ!?」


 引きずり倒され腹ばいになった状態で必死に許しを請う。這って逃げようとしたその背中に化物が伸し掛かってきて、


――殺される――


 首を噛まれるのか、それとも背中を爪で切り刻まれるのか、その方法は分からない。


 だが確かに近づく死の気配を感じとった私の目から涙が零れた。


「茜、佳代子」


 愛する娘と妻の名が思わず口から漏れる。と次の瞬間だった。


 背中が急に軽くなる。


 馬乗りになるようにして背に乗っていたはずの化物がどいたらしいが原因は全く分からない。


 だが意味が分からない現象はそれで終わらない。


「ぎゃ!?」


 化物の悲鳴と共に足を引っ張られる感覚がなくなる。


 一体何が、そう思って振り返るとそこには先ほどまでは影も形もなかった人が現れていた。


 恐らくかなり若い男が手に刃物を持って化物達と相対している、ということが理解できた瞬間だった。


 その男の姿が消えたのは。


 いや消えた訳ではない。そう思うほどの速度で倒れている化物の一体の傍に移動したのだ。


 そして銀色の光が瞬いたと思ったら化物の首から血が噴き出る。


「ふう、こっちはなんとか間に合ったか。真力が十を超えたおかげかな」


 そう言いながら彼は手に持っていたナイフを振って血を払っている。


 血が付いているということは今の一瞬で化物の首を切り裂いたというのか。全く見えなかった。


 化物達もそれは同じようで、仲間の身体が地面に倒れたところでようやく彼に向かって威嚇するように吠える。


 だがそれを彼は意にも返す様子を見せない。


「うるさい、黙れ」


 その言葉と同時に今度はナイフを持っていた手がブレる。


 それとほぼ同時に化物の咆哮が止まって、よく見ればその額にナイフが突き刺さっていた。


 その強さは今の私にとっては救いだった。


 助かる、彼が助けてくれる。そう思って話しかけようとした私が反射的に口にしたのは別のことだった。


「あ、危ない!」


 悠然と立つ彼の背後に、私を追って来ていた最後の一体と思われる奴の姿を見つけたからだ。


 あの化物達は小柄な体格の割に力は強くて成人男性の私が抗うのがやっとなくらいだった。


 彼が幾ら強くても人間だし、無防備な後頭部にでも攻撃をくらったら致命傷になるかもしれない。


 だが目の前の光景はその普通を簡単にひっくり返してくる。


 まるで背中に目があるかのようにその場で回るように突撃を躱すと、それどころかまるでそうなることが分かっていたかのように逆に化物の足を引っかけてみせる。


 そして無様に転んだ化物の足を容赦なく踏み抜く。ボキっという骨が折れるか砕けるかする鈍い音に思わず身を竦ませてしまう。


 危ないところを助けてもらったのだが、その一切の容赦ない暴力は正直恐ろしい。


 真面目な学生から平凡なサラリーマンという荒事どころか激しい運動とはほとんど無縁な人生を歩んできた私にこんな荒事への耐性などない。


 だがそんなこちらの恐れに気付かないのか、それとも興味がないのか彼はこちらに目もくれずに足を折られて地面でのたうち回る化物の首を片手で掴んで軽々と持ち上げた。


 そこまで体格が良い訳でもないのになんて腕力だろうか。


 化物は必死になって暴れて首を絞める手から逃れようとする。


 腕に爪を立てたり、殴ったりしているがまるで効いていないのかビクともしない。


「これはある意味で八つ当たりだ。だけど他者を痛めつけて理不尽に弄んだお前達には相応の報いってもんだろ?」


 それが死の刑宣告だったかのように彼は腕に力を籠めるとまたしても骨が折れる鈍い音が響く。


 力が抜けてプラプラと揺れる化物の身体を彼は無造作に投げ捨てた。


 地面に落ちたそれは紛れもない死体だ。


 まだ痙攣しておりピクピク動いているが、もうすぐそれも終わるだろう。化物相手とは言え命を奪うことを躊躇なく行う彼にどう声をかけていいのか分からない。


「さてと、大丈夫ですか?」


 だがそんな心配は必要なかった。近寄ってきた彼は怪我をしている私の足を見ると取り出した液体で消毒をしてくれる。


「運が良かったですね、そこまで重い傷もないみたいです。ただゴブリン達に強力な毒はないですが爪や牙から雑菌が入ってると不味いですからね。とりあえずはこれでよしっと」


 それどころか包帯まで巻いてくれる。応急手当する様子からして手慣れているようだ。


 マジマジと手当をしてくれている彼を見るがまだ二十代前半の若者といったところだろう。


 こう言っては失礼かもしれないが、線の細い身体や丁寧な言葉遣いから先程までのような暴力的とも言える化物退治を行える人物には見えない。


「君は一体何者なんだ? この訳の分からない状況にも精通しているように見えるが」

「まあ多少他の人よりは詳しいですけど精通してるとは言えませんよ。まだまだ異世界については分からないことの方が多いですか」

「……異世界だって?」


 冗談を言っているようではない。

 それにあの化物は明らかに普通の生き物ではなかった。


「あれ、ネットニュースとか動画サイトとかでは結構取り上げられているらしいですけど聞いたことないですか?」

「いや、軽く見たことはあるが……」

「まあ普通は信じられないですよね。実際に体験でもしてみれば嫌でも信じざるを得なくなりますけど、そうじゃないなら妄言の類で片付けられて当然ですし」


 その通りなので頷くしかない。現に私も自分の身に降りかかるまでは全く信じていなかった。


 だがあの緑色の肌をした化物は明らかに尋常の生き物ではない。


 それに彼は奴らのことをゴブリンと、物語やゲームでよく出てくる現実世界に存在しない空想上の生物の名前で呼んでいた


 それに私は確かに殺されかけたし彼の助けがなければ間違いなく死んでいただろう。


 万が一、彼が嘘を吐いていてここが異世界でなかったとしても普通の状況ではないのは確実だ。


「さてと、応急処置も終わりましたし移動しましょうか」

「移動するってあてはあるのかい?」


 私には全くないから彼に頼るしかない。


「近くの村までの道は分かるので安心してください。それに上手くいけばそうする必要ないかもしれません」

「……と言うと?」

「すぐに元の世界に帰れるってことです。まあ間に合わなくてすぐには無理でも次の満月……二週間後には帰れるようにするので安心してください」


 その言葉には確かな自信が感じられ、私はホッと胸を撫でおろした。

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