第十四章 一人
私が進藤さんから話を聞いた後、すぐに櫂人に連絡したが繋がらなかった。心配なので家を訪ねようかと悩んでいた時、メッセージの返信があった。私は彼から指定された場所へと向かった。茹だるような暑さの中、アスファルトからの熱気を避けるように日陰から日陰へとなるべく移動しながら、目的地に辿り着いた。
この河川敷にはあの頃のようにキャッチボールをしている子供もいなければ、難しそうな本を読んでいる男の子も居ない。ただ一人、大人の男性が橋の下の日陰で座っているだけだった。
「お待たせ、ごめん遅れちゃって」
予定の時刻より五分ほど遅れた事を詫びた私に対して、それとは違う返答を口にした。
「ここは、あの頃の河川敷とちょっと似てるよね」
爽やかな顔付きのこの人は、私の親しんでいる表情では無かった。しかし私は特に驚きもしなかった。既に分かっていたからだ。
「そうだね。もうちょっと自然があったかも。田舎だったしね」
私もつられて標準語になる。地元に帰省する時以外は、馴染む為にも普段は標準語を使っているが、彼の前で使うとどこか他所他所しく、本音を隠した喋り方のように感じて気持ち悪かった。だがやめる事もしなかった。
「進藤さんから色々聞いたんだって?」
どうやら既に進藤さんと私が会っていたことは聞いていたらしい。隠すつもりも無いし、進藤さんだって、聞かれて嘘をつく事はしないだろう。
「再会出来て良かったよ」
「うん、私も」
「櫂人は喜んでたよ」
「どうして過去形なの?」
「ごめんね。僕の事、おかしいと思う?」
「思わない」
ジリジリと照りつける日差しが辛かったはずなのに、この河川敷の、橋の下は驚くほど涼しい。とっておきの避暑地だ。日陰と水辺に、ちょうど風も吹き抜けて気持ちが良かった。
「類、ごめんね。私、貴方に気づくことが出来なかった」
「分かるわけないさ」
「私、進藤さんから話を聞いて……今日まで色々考えたの」
「うん」
「私は櫂人が好きだけど、櫂人は類で、類も櫂人……なんだよね」
何をどう話すか予め考えてきたはずなのに、この台詞はやっぱり混乱しそうになる。
「櫂人とこれからも一緒にいたい」
「勝手だよね」
「え?」
類は本を取り出すと、栞を挟んでいたページをそっと開くなり静かに読み進めていく。そして目を伏せたまま言葉を繋いだ。
「僕は母達が作った、死んだ子供の幻影なんだよ」
彼は哀しいと言うより、どこか諦めたような表情を浮かべる。
私は見つけたい。あの頃見つける事ができなかった、彼の本当の姿を。
「母親の理想の子供になろうと努力したよ。性格も似せた。当時の父親からは『類はこんなこと言わない』だの『類ならいつもこう言ってた』だの、あれこれ言われて来た。関西弁だってやめたしね。僕だって本当は関西弁なんだよ。いつも怒られるのも僕、殴られるのも僕。本当に狂った両親だった」
私は何も言い返せず黙って聞いていた。彼の声には力がなかった。
「母親は昔から、僕に対して親らしい一面は見せなかった。今になって思うんだけど、愛し方が分からなかったんだろうね。そんな女の元に、子供を失った抜け殻のような男が現れて、僕を代わりに見立てて元気を取り戻した」
彼は足元の砂利を軽く蹴りながら俯いた。どうやら小説は読んではいないらしい。落ち込んでいる様子は見られなかったが、抜け殻なのは彼の方だと思うほど、どこか生きている気力が無いように感じた。
「母はね、愛に生きる人だったんだよ。人生が恋愛中心で回ってるから。僕が恋愛の役に立って、初めて嬉しかったんだろうね。そしてそれを親心だと勘違いした」
やっと顔を上げて、私としっかり目が合った。澄んだ瞳が綺麗だなと思った。これは初めて思った事では無い。
「僕はずっと君に会いたかったよ」
「どうして?」
「僕は当時、誰からも優しくされたことなんてなかったんだ。外では櫂人って呼ばれるし、殴られたりしないから僕が変わる必要もないしね。」
「……うん」
「なのに君はあんな暗い、一人でいるような櫂人に話しかけた。僕も君の事が好きだったんだよ。でも僕は君には会えない。だって僕は体が無いんだしね。戸籍もない。存在できるのはあの両親の前だけ」
さらりと告白しながら、何事も無かったかのようにページの隙間に栞を挟み、隣に本を置く彼の所作はまるで映画のワンシーンのようだった。
「……私は櫂人の」
「もうやめてくれよ。櫂人櫂人って……うるさい」
突然冷たい口調で言い放たれたので、私はドキリと胸が飛び跳ねた。
「やっとこの名前を聞かずに普通に生活できると思ったのに。君のせいだ。君と偶然出会ったりしなければ……僕は……」
これが彼の、粟津類の本音だ。先程までとは違い、こっちの方が人間らしいなと思ったのが私の正直な感想だ。
「私は……」
咄嗟に彼の手を取った。今にも壊れてしまいそうな彼を捕まえて、しっかりと目を見据えた。
「貴方がどうあろうと、粟津類でも粟津櫂人でも、それ以外の名前でも、ここに居る貴方が好きだよ!」
感情が昂って声を荒げてしまったと同時に、彼の瞳孔がほんの一瞬だが揺れた。彼は悲しい過去のせいで、こんな事になってしまったけど、現代を生きる人間はきっと皆、自分が何者かなんて分かっていない。
「私だってそうだよ。上司の前での私、友達の前での私、好きな人の前での私、嫌いな人の前の私……。多分どれも全然違う。どれが本当の私なんてない。全部私。それが貴方は、他の人と少し深く違ってしまっただけ」
彼より先に、私の顔が歪んだ。
「……どうして凛が泣くの?」
「だって……うっ……そっちが泣かへんから……」
うっかり関西弁が混じってしまった。でも取り繕った喋り方をする余裕は、私にはもう無い。
「……」
彼は少し華奢な両腕で私を包み込んだ。こんなにも暑苦しい気候だというのに、彼と抱き合うのは不思議と心地が良かった。
どのぐらい時間が経ったのだろうか。あたりは暗くなりかけていた。私は静かに類から離れると彼は私の頬を撫でる。
「僕を見つけてくれてありがとう。僕も君といていいのかな? 一人の……粟津櫂人という人間として」
少しだけ瞳にかかった類の水滴を私は指ですくった。
「いいよ。つらい過去を……今まで櫂人を守ってくれてありがとう。これからはずっと一緒にいよう」
類は私の顎を持ち、唇を近づけた。私は咄嗟に顔を下に向ける。同じ体、根本は同じ人間だとわかってはいても、私が好きなのは……
「……なんで避けんねん。傷つくわ」
「え⁉︎ あれ? 櫂……」
私が顔を上げて慌てているうちに強引に唇を奪われる。私は櫂人の背中に手を回して、受け入れた。その口付けは今までで一番激しく、ふわふわと地から身体が浮いてしまいそうなほど気持ち良かった。
あれから月日は流れ、櫂人は以前よりも明るくなった。というより、私が知らなかっただけで元よりこうだったんだ。しばらくは受け入れるのに時間がかかったものの、櫂人だった頃の面影も多く感じられたので、私の不安は少しずつ無くなっていった。
「じゃあ式場は本当にここでええの? 決めるで?」
「ええって。凛はほんまに慎重やなぁ」
私は仕事の休みを利用して櫂人の働く喫茶店に来ていた。いつものカウンター席に座り、結婚式場のパンフレットを広げている最中だった。
「櫂人が適当過ぎるんやん‼︎」
私は頬を膨らまして見せた。くすくすと笑う進藤さんは、こちらを見かねて櫂人に話しかける。
「もう時間だから上がって大丈夫だよ」
「じゃあ、焙煎機の方見てきますね」
「おぉー気合い入ってる! さすが、来月から店長になるだけあるなぁ」
わざと私が茶化すと、櫂人は恥ずかしそうにあしらいながら裏方へと姿を消した。
「それにしても、二人が結婚するなんて本当に嬉しいです」
相変わらずの和かな笑顔で進藤さんがしみじみと呟いた。まるで独り言のように呟くので、一瞬私に話しかけられている事に気が付かなかった。
「そう言って頂けて私も嬉しいです。それに、ここまで来れたのも進藤さんのお陰です。本当に色々と……ありましたけど」
会話の流れにワンテンポ遅れた私が返事をする。
「相手が凛さんで良かったです。解決して良かったですね」
進藤さんの言う解決とは、恐らく全ての事が含まれている。一番大きな問題は櫂人と類という二つの人格について。あれ以来、櫂人は類としての記憶も感情も全て自分が背負って生きていくと決めた。正解かどうかは分からないけど、結局どちらも同じ一人の人間なんだから、どちらも自分として生きるという事で間違えていないと私は思う。
櫂人がそう決心してから「類」だけの感情を持つ彼は現れていない。その様子を見る限り、きっと「類」も今の彼なのだろうと私は思っている。
この話を仲の良い友達に話そうかと考えたが、櫂人の過去について触れなければならないので気が進まなかった。更には精神的な話なので人によっては理解し得ない部分もあるだろう、そう考えた私は特に誰にも詳しい話はしていない。
そしてもう一つの問題は……城崎さん。先述した問題よりも、こちらの方が私は引っかかっていた。あれからは櫂人は城崎さんと話したらしい。聞いた話によると、彼女は類の婚約者では無かったようだ。ただ本気で類のことを愛していたらしい。それでもけじめを付けて櫂人は別れを告げてきた。相当泣き崩れられて、今でもきっと類を好きだろうと私は思う。しかしそれについて櫂人に尋ねてみても「彼女には一番近くで支えてくれる人がおるから大丈夫や」と返されるだけだった。それ以上深く聞けないでいたけど、この問題について私はまだ解決したとは思っていない。いつか城崎さんが結婚するとでも聞けば……やっと気にせずに居れるのだろうけど。
「お待たせ。何ぼーっとしてるん」
いつの間にか櫂人が私の横に立っていた。どうやら焙煎機の様子はとっくに見終えていたらしい。
「あ、ごめん。お疲れ様! 行こっか」
私たちは進藤さんに挨拶をして、喫茶店を後にすると近くの役所へと向かった。
「せっかく婚姻届出すっていうのに仕事なんて……」
「せやから早よ終わらせたやろ」
お互い軽口を叩きながら役所に入り、持ってきていた婚姻届を鞄から手に取った。
結婚するんだなぁ……
そうしみじみ思いながら私は婚姻届に書かれたお互いの名前を見つめた。
「早よ行くぞ」
ムードのかけらも感じさせないのが櫂人らしいといえば、らしいけど。せっかくなので、もう少し何か言ってくれてもいいんじゃ無いかと私は不満に思った。窓口に向かう類と婚姻届を見比べて、私はため息をついた。
「……ん?」
どうして今そう思ったのかは分からない。櫂人が役所の窓口にいる姿を見て、思い出したのだろうか。当時の姿を実際見たわけではないが、私は聞いた話をよりリアルに考えようと、脳内で思い浮かべたりする。だからそれできっと、思い出したのかもしれない。
「ねぇ、櫂人」
「何?」
「あの……今聞く事じゃ無いんやけど」
「どうしたん?」
「私が家に初めて行ったときあったやん? あの時手紙を見つけたんやけど……」
窓口に向かう櫂人の動きが一瞬ぴたりと止まったように見えた。
「あの時見つけた手紙、たぶんエステか美容院かなんかのダイレクトメールやって、宛名が粟津類やってんけど……」
私は頭が冴えた時、油に水が入ったようにパンと弾けて脳内が回転し始める。というより何故だろう。今までは頭に蓋をしていたような感覚だった。どうして疑問に思わなかったんだろう。
「その時名前……気づかへんかったんかな?」
恐る恐る櫂人の様子を伺う私とは裏腹に、櫂人は気丈な態度ですぐに返事をくれた。
「昔から身体が見慣れているからっていうのもあるやろうし、粟津類って名前も自分であったから、思い込みでわからんかったんやろな」
「あーなるほど……そんなもんなんかな?」
「そんな事どうでもええから、早よ出そうや」
「うん」
私はぎこちない違和感を感じながらも、早足で窓口に向かった。
「あ、届いてたんや。忘れてたわ」
「何が?」
最近引っ越したばかりの新居に帰宅するなり、櫂人はポストに入った不在票を手に取った。
「ソファー買ってん」
「あぁ、友達から買ったんやっけ?」
「そうそう。うっかりしてたわ。また持ってきてもらわんと」
不在票に書かれた送り主の欄には「速水」と書かれていた。
「前のソファーはボロボロやったもんね」
「あと、この人が家で使ってるソファーの座り心地がええねん。頼んだら安く売ってくれたわ」
「そうなんや。良かったやん! 座るの楽しみやわー!」
私は玄関の鍵を回しながら答える。
「限定品らしいで」
「え! そんなんよう売ってくれたなぁ……どんな人なん?」
「バーのオーナーしてんねんで。今度紹介するわな」
「ほんま! 櫂人の友達かぁ。会うの楽しみやわ!」
私たちは櫂人の家……今はもう二人の家となった部屋へと向かった。
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