第九章 粟津 櫂人

 俺はしばらく立ち尽くした後、少しでも早くその場から立ち去りたくて過去最速であろう速さで着替えては、そそくさと店を後にした。家に帰ろうにも今は自分の家ですら何となく居心地が悪いので、俺は途方も無く暗くなった歩道をのろのろと歩いていた。

 あれから部屋を確認したが、泥棒に入られた形跡は無いし、家の鍵を落としたわけでも無かった。結局俺が注意を怠ったとしか思えないという結論に至っていたが、それにしても腑に落ちないので納得はしかねていた。

 しかし今はそれより先ほど起こった大きな問題について考える方が先だ。真っ白になった頭をどうにか奮い立たせて考える。何故母が進藤さんの電話番号を? 俺は進藤さんと元々知り合いだったわけも無く、ただ職場の上司というだけだ。そして母の話はおろか、そのような身辺的な話をした事もほとんど無い。どうにか落ち着きを取り戻すため、俺は近くにあったファミレスに入り、ドリンクバーだけを注文したものの、飲み物を取りにも行かずに暫くはただ席から動かずじっとしていた。店員からしてみれば、さも不自然な客だろうと気づいた俺は、やっと腰を上げてドリンクバーへと向かった。

 周りの目を気に出来るほど落ち着いた俺は、改めて自分のスマホを取り出して発信履歴を見た。一番上には登録されていない携帯番号が表示されている。俺は念の為スマホのアドレス帳を開いたが、やはり「進藤さん」の登録が一件そこにはある。勤め先のオーナーの携帯番号は知っていて当然だ。俺はこの携帯番号を随分と前から知っている。そして俺が見たあのスマホは紛れもなく進藤さんのスマホだ。いつも持ち歩いているのを見かけているので間違いない。つまり、この登録されていない方の番号は俺の知らない二台目の携帯番号ということだ。恐らく個人用と仕事用でスマホを分けていると考えるのが自然だろう。しかし進藤さんがスマホを二台持っている事は知らなかった。もう長く勤めているのに一度も目にせず気が付かないものだろうか。

「……」

 俺はドリンクバーで注いだホットコーヒーを持って席に戻った。先程よりは落ち着いたが、どうにもまだ混乱しているようだ。うまく考えがまとまらない。そして何処となく、何かが不自然でたまらなかった。そんな俺の思考を遮るように天井から冷たい風が強く吹いた。冷房が効き過ぎている。わざわざ店員に伝えるほどでもないが、全く気にせずにもいられない微妙な風量だった。

 そんな不快な風に煽られながら少し考え込んだ俺は、もう一度発信履歴に戻り、今度は別の番号に発信した。

 

 電話をかけて一時間が経とうとしていたその時、やっと彼女はファミレスに現れた。

「ちょっと待たせた? そろそろ連絡来るかなって思ってたけど」

 ちょっとどころか一時間待ったと言いたくなるところだが、突然呼び出したのはこちらなので辞めておいた。

「城崎さんこそ仕事やったやろ。突然で悪いな」

「全部片付けてきたから大丈夫。それで、何か分かったの?」

 電話の相手は城崎さんだった。彼女は生憎仕事中だったが、三十分で向かうと言われたので待っていたらこの有様だ。しかし呼び出したのはこちらなので何か文句をつけたい所だが、やっぱり辞めておこう。

「その前に言う事あるんちゃう?」

「何のこと?」

「……とぼけんといてや。あの、こないだの」

「こないだ?」

 ここまで来てまだ白を切るつもりの彼女に殆呆れた。。

「居酒屋の」                        

「あぁ……ええっと、何とかリンさん。何だったかしら」

 普通こういうのは名字の方が覚えているものでは無いだろうか。わざとらしい不自然な彼女の振る舞いに若干の苛立ちを覚えながら俺は会話を続けた。

「粟津くんの彼女ね」

「……」

 黙っている俺を見て城崎さんは少し目を見開いて、驚いた表情をしてみせた。

「え? 本当に付き合ってるの?」

「だったら何やねん」

「いつから? 最近よね?」

「そういうのええから……え、何で最近と思うん」

 確信を持っているような城崎さんの台詞を不思議に思い、俺は純粋に質問した。

「……だって粟津くん」

 少し考えて城崎さんは伏し目がちに言葉を付け加えた。

「童貞っぽいから」

 ちょうど三杯目の飲みかけていたコーヒーを口に含んでしまっていた俺は思わず吹き出しそうになった。

「や、そんな事はええねん」

 自分から聞いたくせに話の軌道を修正することに注力を注いだ。

「あれ、偶然ちゃうやろ」

「偶然よ。近くを歩いていたら粟津くんが見えて」

「これ」

 俺は自分のスマホ画面を城崎さんの目の前に突きつけた。

「いつの間にこんな設定したん?」

 スマホの画面は位置情報を意味する地図の表示が広がっていた。そしてそこには城崎さんの名前があった。

「……まぁ大方、俺がホテルで寝とる時やろうな」

「何だ、気づいてたのね。粟津くんは鈍いから問題ないと思ってたけど……彼女からの助言かしら」

 悪びれもせずあっさりと認める彼女に驚きはしたものの、それよりも薄れていた彼女への疑心が再び浮上したことに俺は落胆した。

 城崎さんの言う通り、この設定を見つけたのは凛だった。居酒屋で偶然を装って会ったあの日、城崎さんが店を出た後で不審に思った俺達はGPSが付けられているのではと推測した。そして凛は思いついたように俺のスマホの設定を確認すると、城崎さんのスマホが勝手に登録されており、現在地が確認できるようになっていたのだ。俺は機械には疎いので、この設定自体知らなかったが凛曰く、元々この機能はスマホを紛失した際に別の端末から探すためのものだという。それを彼女は俺の知らないうちに自分のスマホに設定していたのだ。そんなことが出来るのかと俺は驚いたが、ロック解除さえすれば出来るらしい。文明が日々進化し続ける世の中、無知とは恐ろしいものだと俺は思った。そしてわざと解除せず、彼女が何を企んでいるか見当がつくまで俺は泳がしておくことにしていた。しかし予想もつかないイレギュラーな展開が起こり続け、この不自然な状況の始まりも渦の中心核にいるのも彼女だ。このまま問いたださずにはいられず俺はこうして彼女の悪事を今、突きつけているのだった。

「あの時は気が動転してたから考えが及ばんかったけど、速水さん家にすぐ来れたのもこのお陰やったんやな」

「ロビーで貴方と悠を見たって人がいたのよ」

「……だったとしても来るんが早過ぎや。それに速水さんと一緒におるからって家に居るとは限らへんやろ」

「……」

 城崎さんは諦めたようにため息をつき、更にはテーブルに肘をつき頬杖さえついてみせた。

「私をストーカー罪か何かで警察に突き出すの?」

「理由を知りたい。こんな事して何の意味があるん?」

「……危ない目に遭わしたくないからよ。実際、悠みたいなのが居たでしょう。類は素行が良いとは言えなかったから……崇拝的な人も恨んでる人も少なくないの」

「やからってやり過ぎやろ。芸能人じゃあるまいし」

「私は過保護なの」

「俺に一言あるべき……ってか、あかん事やろ!」

 ここがファミレスということに声を荒げた後で気づいたので、視線を回避することは出来なかった。しかしそれでも俺の中では、反省の色も見られない彼女に対しての苛立ちが勝った。

「……全ては」

 ポツリ、と聞こえるかどうかの小さな声で城崎さんは呟く。

「類が見つかってから話すわ。それまで何も言えない」

「……は? 何やねんそれ……意味分からん」

「粟津くん」

 深くため息を吐く俺を見て、いつも通りの声のトーンで城崎さんが声をかけてくる。

「他に何か分かったことは?」

「……」

「この事だけならもっと早く私に言っていたはずだし、何かあったからこのタイミングで連絡してきたんでしょ」

 鋭い。そういえば彼女も勘が良い。凛といい何故相手の考えていることが分かるのだろう。女性は勘が良いとよく言うがどの程度のことを言うのか普段縁がない俺には到底分かりかねる問題だ。

「……母親に会った」

 一瞬言うかどうしようか悩んだが、隠していても仕方が無いので正直に話した。すると城崎さんは先ほどよりも更に驚いた顔をしていた。

「そんな驚く?」

「驚いてないわ。それで?」

 誰がどう見ても彼女の表情は驚いている。俺は城崎さんに母親と不仲という話はしていなかった。それなのに驚いていると言うことは類とやらから何かしらの話を聞いたのだろうか。しかしそれについて深く聞きたくなかったので突っ込まずに話を続けた。

「類と俺は多分父親一緒やで。やから連絡先知らへんか聞きに行った。んで、聞いた番号にかけたら……」


 ーーガタッ

 

 俺が言い終える前に城崎さんは席を立った。

「場所を変えましょ。続きは外で聞くから」

 この時俺は確信した。彼女は知っている。この全体的に何とも言い難い違和感と不自然な状況の真相に。やっぱり彼女を呼び出して正解だった。

 外に出るとさっきよりも夜は深かった。人通りがすっかり少なくて街頭だけが俺たちを照らしている。ただのコンクリートの上を歩いているだけなのに、いつもと違う足音を鳴らしているような気がしているのはきっと気のせいだ。

「その様子やったら知ってるんやろ? 電話の相手」

「……」

 先を歩く城崎さんは口を閉ざしたままだった。焦ったくなった俺は早足で彼女を追い越し目の前に立ちはだかった。

「頼むから教えてくれ。何を企んでるん」

「……」

 先程のファミレスとは違い、幸いにも時間帯のお陰で周りに人はいない。少々声を荒げたところで周りの視線は気にしなくて良さそうだ。

「あんたがこの話を持ちかけてきてから、おかしな事ばっか起こる。突然兄がいるから探せなんて見ず知らずの女に言われ、突然知らへん家に監禁され、GPSは付けられるし、挙げ句の果てに父親が……」

 そこで俺の言葉は途絶えた。確信じゃない、でも恐らく……いやまさか。しかし……

 俺は俯いたまま、そのばち立ち尽くした。そしてしばらくすると城崎さんは やっと口を開いた。

「貴方はどう考えるの?」

「……え」

「この状況を全て把握した上で、貴方はどう結論するの?」

 彼女の言葉が頭に入ってくるまでに、しばらく時間がかかった。まるで人工知能のような機械的な台詞にどう答えたらいいか分からず、俺はらしくも無く思ったままを口にした。         

「……もう、何が分からへんか、分からん……」

「そう。それが貴方の限界の結論ね」

 突然の貴方呼びによそよそしさを感じつつも、やっぱり彼女の言っていることが分からないので、俺はポカンと口を開けて言葉を失っていた。そんな俺に目もくれず、城崎さんは続けた。

「粟津くん、車の免許は?」

「……は?」

 また突拍子も無い事を言い始める彼女に俺は心底腹が立った。こんな状況でこれからドライブでもしに行こうと言うのだろうか。

「免許持ってる?」

 それでも城崎さんは問い続ける。

「今、それ何の関係があるん」

「いいから答えて」

「……持ってるけど」

「見せて」

 彼女の意図が分からない。それでも彼女の強い意志をひしひしと感じた。

 俺は仕方なくポケットから財布を出し、普段見ることも無い免許証をカード入れから探し取り出した。

「……は?」

 何の意図も無く思えたこの行動がたった今、意味を持った。俺が手に取ったその免許証。そこには俺の顔にパーツこそ似ているものの、金髪で少し笑う全く違う自分の顔がいた。この証明写真を撮った覚えがない。俺は髪を染めて撮影した覚えは無い。

「なん、だ……?」 

 俺は何度もその顔を見ては目を疑った。名前と生年月日を確認しても間違いなく俺の免許証だった。じゃあ誰だこいつは……

「この頃は髪の色、染めていて綺麗だったわね。普段の黒髪も素敵だけど」

 まるで突然熱でも出たんじゃ無いかと錯覚するほど背中に汗をぐっしょりとかき、不快感を覚えながら俺は城崎さんの顔をゆっくりと見上げた。

「類、ごめんなさい。やっぱりここまでが限界みたい」

 城崎さんは俺ではない他の誰かに語りかけている。しかし周りを見渡してもそれらしき人物はいない。それどころか人影一つも無い。

「まだ気がつかない? それとも……分からないフリをしているだけなの?」

 城崎さんの表情がぐにゃりと歪む。何かおかしい、この不自然な状況は何だ。

「紛れもなく貴方が『粟津類』よ」

 そう言えば彼女はいつも粟津くんと呼んでいた。俺のことを下の名前で呼んだことなんてない。それは速水さんも、そして進藤さんも同じだった。俺のことを下の名前で呼んでいるのは……。

 

 ここ最近はずっと茹だるような暑さに悩まされていたというのに、今夜だけは夏を忘れて置いてきた寒空のようで、まるで先程ファミレスで感じた心地の悪い冷房のような風が、建ち並ぶビルの隙間から冷たく吹き抜けていた。

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