第十章 楠瀬 凛
こんな事をしても良いのだろうか。私は悩みに悩んだ末、じっとしていられない性格という事は既に自認していたので、行動に移すまでにそう時間はかからなかった。
幼馴染だった櫂人と久しぶりに再会したのはつい一ヶ月ほど前だった。その日は偶然仕事の道中に会ったので連絡先だけ交換して直ぐに別れた。初恋の相手との再会が叶った私は、運命じゃないかと浮かれていた。告白はせず、何も言わずに櫂人は引っ越してしまったので、私は過去の甘酸っぱい思い出として胸の隅っこにしまっていた。
結局、何故櫂人が突然引っ越したのかは単純に言い忘れていたそうだ。
「なんで言わんかったんやろな? 言いにくかったんちゃう」
そんな釈然としない答えだった。櫂人は引っ越す前に高そうなお菓子を持ってきてくれて、私たちは一緒に頬張った。それが幼い彼との最後の記憶だ。その時言ってくれたら良かったのに! と、問いただしたが櫂人は高級のお菓子を二人で食べたことすら覚えてないそうだ。あんなに美味しいお菓子だったのに……。忘れているのは仕方無いが、自分だけしか覚えていない事に少し寂しい気持ちになった。
私は人並みに恋愛経験は積んできた方だと思う。それでも櫂人との再会には学生時代の恋愛のようなときめきを隠しきれなかった。友人に相談すると、それは過去の恋を美化しているのでは? と指摘を受けたがそんな事はないと一蹴した。彼と過ごした過去の思い出は美化するまでも無く、どれも楽しかった記憶ばかりだ。
私は学区によって通う学校が決まっている公立では無く、受験して進学する私立の学校に通っていたので、近所に同じ小学校の友達がいなかった。そんな中、偶然近くの河川敷で出会ったのが櫂人だった。
「それ、読めるん?」
私から話しかけたのがきっかけだ。彼は一人で難しそうな小説を読んでいた。河川敷にはキャッチボールや鬼ごっこをして遊ぶ子供が多い中、彼だけ座って本を広げているのだから特別目についたのだ。
「……え」
驚いて彼が顔を上げた。目が合ったその瞬間から多分私は彼のことが好きだった。同じクラスのどの男の子とも違う、独特な雰囲気を纏った彼に一目で惹かれたんだろうなと、大人になった今なら分かる。
「うちにもそういう本あるけど、文字がいっぱいで難しくて読めへんかった! すごいね!」
私がそう言うと櫂人は耳まで真っ赤にして今にも消えそうな声で、「別にそんな事ないけど……」みたいな事を言っていたと思う。
彼との出会いを思い出しながら私は今、乗り慣れないバスに揺られていた。櫂人の部屋に落ちていた住民票を握りしめながら。部屋にお邪魔した時、床に落ちていた住民票を拾おうと手に取った時、一緒に落ちていた手紙の宛名が見えてしまった。それは櫂人のものでは無く「粟津 類」と名前が記載されていた。理解できずにその宛名を見つめていたが悪いと思いつつも私は咄嗟に鞄の中に手紙と住民票を入れた。
私は取り敢えず櫂人には何も聞かずにその場をやり過ごした。目の前に居るこの人は私の知っている「粟津 櫂人」だった。するつもりは全く無かったのに不安と話の流れが重なって思わず告白までしてしまった有様だ。
その後も彼はどう見ても嘘をついているようには思えず、悩みに悩んだ末に私は櫂人のお母さんに直接会って確かめることにした。櫂人には悪いと思ったが、私の第六感が自分自身に訴えかけていた。何かがおかしい。どうしてもこの目で確かめる必要があると。
そもそも櫂人が今持ちかけられている兄探しについても、話の本質的におかしな事だらけだ。深く突っ込めずにいたが一応私は晴れて櫂人の彼女になったんだ。次会う時はもう少し踏み込んで話してみよう。
彼女になったと言えば、櫂人の部屋で身体を重ねた時にも違和感を感じた。そういった経験は今まで無いと彼本人も言っていたし、私も彼が嘘をついているように見えなかった。ところが実際してみるとどうだろう。妙に慣れた手つきだったような気がする。これは私のただの思い過ごしかもしれない。とは言うものの、気になって仕方が無かったので、最中に実は半分も集中していなかったのが事実だ。
色々と思い巡らせているうちに目的地に着いた。バスから降りるとそこは自然が広がる穏やかな町だった。仕事と家の往復の毎日で、遠出する機会が無い私にとって郊外にこんな場所があったんだと少し感動した。住民票に記載されている住所とスマホの地図アプリを見比べながら、間違いが無いか確認し再び歩き始めた。しばらくすると数棟立ち並ぶ市営住宅が見えてきた。
「ここかぁ……二〇四号室っと」
私は階段を登りドアの前で立ち止まると、部屋番号と住民票をもう一度確認してからインターホンを押した。
ーーピンポーン
静寂な空気が流れたのも束の間、ドアの向こうから少し乱暴な足音が聞こえてきた。こちらに向かってくる。私は今更ながら高鳴り始めた胸の音は聞こえないフリをしながら、平然を振る舞いその場に立っていた。内緒で彼氏の実家を訪ねており、更には初対面なのだから緊張して当たり前だと思う。
「……はい?」
不思議そうな表情を浮かべながらドアを開けたその女性は、櫂人とそっくり……とまではいかなくとも、何となく似ている顔立ちだった。それよりも開いたドアと同時にムワッと広がる、慣れないタバコの匂いの方が気になった。
「お忙しいところ、突然訪ねてしまいすみません。私、楠瀬凛と申します」
「どなた?」
「櫂人さんとお付き合いをさせて頂いております。近くに来たのでご挨拶をと思いまして……これ、つまらない物ですが良かったら召し上がってください」
私は用意しておいた手土産を渡した。職場の近くにある有名な専門店の和菓子だ。
「……はぁ、そう。どうも」
少々ぶっきらぼうに櫂人のお母さんは受け取ってくれた。確かに何のアポイントも無く息子の彼女が挨拶に来たら、不思議がるのも無理は無い。非常識かもしれない。しかし私だってそんな事は百も承知だ。それを踏まえても確認しなければならない頃が私にはあった。
「それと、こちらも」
私は櫂人の部屋から持ってきた手紙を渡した。櫂人のお母さんは宛名を見るなり怪訝な顔を浮かべて
「これが何か?」
と言うだけだった。
「これが彼の部屋に落ちていたんです」
「やから?」
その言葉に驚いた。いや、それは嘘だ。私は今、驚いたフリをしたんだ。櫂人の部屋を出た時から、想定していた推理は的中していた。
「……よく見てください。宛名のところ……。櫂人さんの名前はありません」
この私の考えを今すぐどうにかして筋が通るように否定してほしい。初対面の、ましてや交際相手の母親にそれを願うほど、私は自分の推理に自信を持ってしまっている。
「……」
彼女は何も言わずに顔色ひとつ変えず、私が渡した手紙の宛名を穴が開くほど眺めていた。手紙は開封されていないが、裏面に有名なヘアサロンの名前が書かれてある。なんてことはないダイレクトメールだ。だけど櫂人は美容院が苦手で数年は行っていない……そんな話を私は最近聞いていた。彼女が黙っている限り、私は何も言えないので返事を待つしか無かった。
「……こんな物は知りません」
やっと話してくれたかと思うと彼女は手紙を勢いよくグシャグシャに丸めて床に投げ捨てた。突然の行動に私は驚いて身動きが取れずにいた。すると自分で捨てたにも関わらず「あぁ、もう!」と叫びながら丸まった紙を拾って広げては、今度はビリビリと大雑把に破り始めた。
「や、やめてください!」
私は止めようとしたがもう遅かった。彼女は一瞬で手紙を散り散りに破り捨ててしまった。私達の足元に散らばった紙くずは、まるで難解なパズルのピースのようだ。
「……教えてもらえませんか。櫂人さん……いえ、類さんの事」
「知らへん!」
彼女があまりにも大声で叫ぶので、耳の奥がキーンと振動した。櫂人のお母さんは突然興奮して情緒が乱れ、何が何だか分からなかったが、それでも私だって、張り裂けそうなのは鼓膜よりも胸の奥だ。
「お願いします、類さんの……」
「そんな奴は知らへん! 帰れ!」
彼女は私を勢いよく両手で跳ね飛ばすと、バン! と大きな音を立ててドアを閉めた。挙げ句の果てに鍵とチェーンまで掛ける音がしたのだから、私は諦めて帰るしか手段は無かった。
踵を返して先ほどのバス停に戻った私は、別の方法で確かめようと考えた。しばらく適当に時間を潰して、次の目的地へと向かった。
ーーカラン
ドアを開けるとベルの音が店内に鳴り響いた。今日は櫂人は休みという事は事前に連絡を取って確認済みだ。以前来た時も櫂人が休みの日だったな、と思いながら私は店内を見渡した。閉店間際を狙ってきたので客は一人も居なかった。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた物腰のスタッフさんが挨拶してくれる。私は小さく会釈をした。
「すみません、ラストオーダーが半までなんですが大丈夫ですか?」
優しく私に声をかける。
「はい」
私は真っ直ぐに彼の目を見て答えると、つま先を迷うことなくそちらに向け、彼のいるカウンターの方に向かって歩き、空いている席へと腰掛けた。
「アイスティーに、ミルクを一つください」
「かしこまりました、以上でよろしいでしょうか」
「それと」
私は周りをキョロキョロと見渡してから付け加えた。
「櫂人さんと類さんについて、教えてもらえませんか」
まさかこんな事を言われるとは思わないだろう。しかし私の予想とは裏腹に、彼は驚きの表情一つも見せなかった。
「かしこまりました」
私が最初にこの喫茶店を訪れたのは、櫂人に会う為だった。しかし出勤の有無を確認していなかった……というか、尋ねたものの返信がなかったので取り敢えず店に来てみたが、彼は休みだったのだ。
私はその時、この優しそうな中年男性のスタッフさんに「粟津くんはお休みですか」と伺った。それから少しだけ会話をした。「お友達ですか?」と聞かれたので「そうです」と答えた。
その後、不思議なことに「粟津くんの事、何と呼んでますか?」と言われたのだった。その時も不思議に思ったがさほど気に留めておらず「普通に……呼び捨てで櫂人、ですけど」と答えた。彼の返答は「仲良しなんですね」と微笑むだけだった。しかし今ならその質問の意図も分かる気がする。
「この店のオーナーです。進藤と申します」
アイスミルクティーを私の目の前に置きながら、進藤さんは自己紹介をしてくれた。それと同時に、私は自分が名乗っていない事を思い出した。
「すみません私……楠瀬凛と申します。あの、名乗りもしなかった私にどうして……」
私と櫂人の関係なんてよく知らないはずなのに、どうして彼は教えてくれようとするのだろう。しかし彼から敵意のようなものは一切感じなかった。正体不明の存在に対して人間は無意識に身構えてしまうものなのに。
「櫂人くんの事を名前で呼んでいらっしゃるからです。勝手ながら親密な関係だと思いましたので」
「それって……」
その言葉の意味も、今の私は何となく分かるような気がしていた。
「その前に一つ、私からもお伺いしたいのですが」
胸がドキリと高鳴った。私はここまで様々な予想を立ててきたが、ここから先は既に私の想像出来る範疇を超えている。つまり、何を聞かれるか分からない。まるでテストされているような……見定められているような、焦燥感に駆られる感覚だ。そんな私の様子を見て進藤さんはすぐに言葉を続けてくれた。もし黙られてしまっていたら、私の心臓にはもっと負荷がかかっていただろう。
「私を訪ねてきた理由は、櫂人くんと類くんの関係に答えを見つけれたからですか?」
「……それは」
私は少し胸を撫で下ろした。どうやら思っていたよりテストは簡単だったらしい。
「はい……おそらく、あっていると思います」
進藤さんはなるほど、と呟いて少し間を置いてから洗い終えたグラスを手に取り、白い布巾で水滴を拭いながら口を開いた。
「……閉店時間ですので」
その言葉に私は「えっ」と声が出た。ここまで話しておいて、追い返されてしまうのだろうか。しかしそれは、どうやら私の思い過ごしだったようだ。
「ここからは一人の身の上話として、お話しさせてもらうよ」
その時カラン……と音を立てたのは、入り口のベルでは無く私の手元にあるアイスミルクティーの氷が溶けた音だった。そんな些細な音にも動揺してしまうほど、私は緊張を隠せないでいた。
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