第八話 二人
「何か、櫂人の部屋って感じやな」
「何やねんそれ」
近年稀に見る大掃除を無事に終えた後、近くで待ち合わせしていた凛を迎えに行き我が家へと招いた。床に散らばっていた服や小説を急いで棚や収納ボックスへ突っ込んだ。
「難しそうな本がめっちゃある! 今でも小説好きなんやなぁ」
凛は本棚の前で物珍しそうに大きな目をくりくりと動かしていた。
「うん……まぁ、ぼちぼち……」
勢いで家に誘ったのは良いものの、これからどうすれば良いのか。掃除に追われていた俺は全く考えていなかった。
「暑ない? エアコン付けよか」
「あ、ありがとう」
俺はテーブルに置かれたエアコンのリモコンを手に取りスイッチを押した。
「それで、話聞くで!」
そういえばそうだった。どうするも何も、相談に乗ってもらって居たことをすっかり忘れて居た俺は、何かしら話題を振る必要もない事が分かり安心した。この様子だと変に緊張しているのも、意識しているのも俺だけのようだ。それが安堵と共に胸を切なくさせた。
「これ」
俺は薄汚れたメモの端を凛の目の前のエーブルに置いた。
「携帯番号?」
「俺の、父親の」
「お母さん、ちゃんと保管してたんやね! お父さんの連絡先!」
「偶然やろうけどな。あと、繋がるか分からへんし……」
「かけた?」
「まだ」
「そっか。またかけようと思った時に、かけるのが一番ええよね」
俺を気遣うように凛が言う。今日の第一の目的……父の居所を知るというミッションを達成していた俺は、そんな事は既にどうでも良くなっていた。それより俺には新たな目的を自分に課していた。
凛に恋人がいるかどうかだ。それを聞くまで今日は思い悩んで悶々と過ごし夜も眠れないだろう。どう切り出そうかと考えていた俺を見て凛は勘違いしたのか、更に気遣うように俺に声をかけた。「大丈夫やで、急がんでも……分からへんかったら仕方ないし、正直に城崎さんに伝えよ?」
あぁ、そうか。凛にはそう見えているのか。俺は何も城崎さんへの言い訳をどうしようかと思い悩んでいるのでは無い。しかしどう伝えようかと考えている間に、凛は俺に思いも寄らぬ事を尋ねた。
「あの、答えにくかったらええんやけど……櫂人って城崎さんの事、気になってたりする?」
「んえ?」
全く思い浮かばなかった疑問に驚きを隠せず、思わず変な声が出てしまった。そうやらそれが凛にとっては、余計に事実とは異なる勘違いの信憑性を増してしまったらしい。
「やっぱり! 居酒屋で見た時、二人とも仲良さそうやったから……しかも櫂人って人見知りやん? やのに城崎さんとは打ち解けてる感じしたから……」
確かに城崎さんとは、初対面の時より幾分かは打ち解けていたかもしれない。しかしそれは恋愛絡みの感情が原因では無く、普段体験し得ない出来事にお互い直面したからという理由もある。あとは何となく……身内の婚約者? という話もあるので、赤の他人よりも気負いせず話せるというだけだ。
「いや、ちゃうって……」
「隠さんでええよ! 誰にも言わへんし!」
寧ろ俺の事なんて言う相手が居ないだろうに。
「ホンマにちゃうで。城崎さんはそういうんじゃない」
「そうなん? めっちゃ怪しいんやけど」
「ちゃうて」
「ふーん……おかしいなぁ。絶対当たってると思ったんやけど」
確かに凛はエスパーのように相手の考えていることが分かる時もある。どうやらその能力を今は発揮できない時らしい。それよりも、俺は意中の相手にそんな勘違いをされたく無かったので、いつもより強く否定した。
「全然当たってへん」
「当たってへんって事は、居るには居るんや」
鋭い。心理カウンセラーだとか何とかの資格を持っているだけある。それがどれほどの難易度か俺には分からなかったが、凛は昔から相手の気持ちに敏感で、気遣い上手で、考えを読み取ろうとする。
「……」
俺はどう言おうか悩んでいるうちに黙り込んでしまった。まさかここで告白する勇気があるはずも無く、どう誤魔化そうかと考えていたので凛の言葉に耳を疑った。
「私、昔……櫂人の事好きやったよ」
数秒の沈黙が流れる。凛は少し俯きがちに、独り言のように呟いたので俺に言ったので、もしかして俺の都合の良い聞き間違いかもしれないと思った。
「久しぶりに偶然会えて……全然変わってへんから、やっぱり好きやなって思った」
「何? え、嘘やん」
「あっ! そりゃ櫂人が引っ越してから……私も大人やし、何人か付き合ったりしたで? でも、たまに思い出してたよ。櫂人のこと」
「……」
「やから会えてよかった! 今日も家に呼んでくれて嬉しかったし……あ! ちゃうで、櫂人が何か思ってくれてるから呼ばれたとか! そんなん思って無いから! 大丈夫、勘違いせんといてな! 大丈夫やから! そんな自分に都合の良い解釈してないし!」
「いや、えと……」
今度は俺が独り言のように、今にも消えそうな声で呟いた。
「俺も……そうやから、あってる」
「えっ」
「うん」
「……え?」
「うん」
「うん。ちゃうやん!」
「あ、いや……えっと」
どう言おうかと狼狽えていて気が付かなかったが、凛の顔を見ると耳まで真っ赤にしながら俺に笑顔を向けていた。
「好き、やで」
言葉に詰まりながらも何とか声に出した。喉につっかえそうになりながら。凛はより一層笑顔になった。ここ数日信じられない展開が続いているが、どれよりも信じがたい出来事だった。
お互いしばらく黙り込んでいたが、先に口を開いたのは意外にも俺からだった。
「明日、仕事?」
「あっ、うん」
「そっか……ほな、帰る?」
「えっ」
気まずさに耐えかね無くなった俺は、あろう事かたった今両思いになった相手に帰宅を促してしまった。
「うーん、でも今まだお昼やから……」
「あ、そうか」
「あ、あの……雨も降って来たみたいやし…」
窓越しに凛が外に目をやると、小雨が降り注いでいた。そういえば今日は午後から雨予報だった事を思い出した。
「それに、せっかくやし……まだ一緒におりたい」
顔を赤らめながら上目遣いで言いづらそうに凛は、いつもの何倍も弱々しく、まるで儚い命の小動物のようで、守ってあげたいという本能に自然と強いられた。その本能に抗う事も無く、俺は凛に近づく。彼女も嫌がる事なく顔を近づける。この熱は自分のものか、それとも彼女のものなのか分からなかったが、唇を重ねた瞬間にお互いものだと確信した。
俺の性格や人生経験について要所要所に触れてきたが、きっと誰もが察するだろう。俺は誰かと付き合うことは愚か、キスをしたことも身体を重ねた事も無い。それなのに凛に対して俺が取る対応はスムーズで手慣れていた。どこかでこうなる事が分かっていたように。俺は目の前の事に一杯一杯で考える暇も無かったが、凛に「何か、慣れてる」と膨れっ面をされてしまった。掃除したばかりのベッドの上で凛に覆い被さりながら、俺は「まさか」と答えると無我夢中で彼女を求めた。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。目が覚めると隣で凛が寝ていた。その状況に一瞬戸惑ったが、俺は一連の出来事を思い出すと噛み締めるようにもう一度凛の寝顔を眺めた。まさかこんな奇跡が起こるだなんて、俺の人生も捨てたもんじゃないなと考えながら、汗をかいたのにも関わらずベタつかない身体に気が付く。そうだ、エアコンを入れたんだった。どうやら涼しいから寝ている間に汗が乾いたらしい。
「え……?」
思わず声が出た。おかしい。いつも寝起きは大量の汗をかいて起きる。何故なら数日前からエアコンのリモコンを無くしていたから、最近は猛暑の中で起床する。凛が来る前に部屋の大掃除をしたが、その時もやっぱりリモコンを見つける事は出来なかったのに。
俺はベッドから降りるとテーブルの上にある、いつの間にか忽然と現れたリモコンを眺めた。乾いていたはずの汗がまた一筋流れ落ちた。座り心地の悪い安物のソファーに腰掛けて、またリモコンをじっと見つめる。
「ん……ごめん、寝ちゃってた……」
凛も目を擦りながらベッドから降りようとしていた。起こしてしまって悪い、と謝る事もせず俺は尋ねた。
「なぁ……このリモコンって凛が来た時からここにあった?」
「え……あったんちゃう? 覚えてへんけど……それがどうしたん?」
「いや……」
説明しようにも何となく気味が悪いので、俺は誤魔化しながら凛を遅い昼飯に誘い部屋を出た。
凛と付き合う事になった翌日、俺はすっかり忘れていた父の携帯番号に連絡した。
ーープルル…
コール音が鳴った。まだ使われている番号だったという事実が判明し、俺は良かったと思うどころか電話が繋がってしまう事に緊張を覚え、少し落胆した。俺は連絡を取りたいが為にここまで行動したというのに支離滅裂だった。
「……」
数回のコール音で俺は電話を切った。そのコール回数が長かったのか短かったのか、分からないがとりあえず今は繋がらなかった。俺は自分に言い聞かせるように家を後にすると喫茶店へ足を運んだ。まだいつもより早い時間帯だが、今日は進藤さんが忙しいようなので開店準備から閉店までのシフトだった。
「おはようございます」
「おはよう粟津くん。悪いね、急遽シフトの時間伸ばしてもらって。どこかで調整するから」
「はぁ、大丈夫です」
俺は着替えると手際良く準備を行い店を開けた。進藤さんは裏方のパソコンに向かい、事務作業で忙しそうだった。
「何か手伝いますか?」
「ありがとう。大丈夫、十分助かってるから」
「何かあったんですか?」
いつも物腰の柔らく優しい進藤さんも、忙しく働いている日だって、そう多くは無いがあるにはある。だが今日は稀に見る忙しさだった。進藤さんは俺の問いかけに少し間を置いてから答えた。
「実はいつもの焙煎所が閉業することになったんだ」
「へぇ……」
少し間があったので俺は聞いてはいけなかっただろうかと心配になったが、そうでも無かったようで進藤さんの返答にホッとした。しかし進藤さんの立場的にホッとするような話では無い為、俺は出来る限り困った素振りで話を続けた。
「じゃあ、豆どうするんですか?」
「実はこれを機に自家焙煎なんてどうかなって思ってて……その準備だよ。閉業も突然だったからね」
「そうなんですね」
ちょうどこのタイミングで客が入店したので話は途切れた。俺は注文を受けるといつも通りグラインダーから豆を挽いて、エスプレッソを抽出していう最中にようやく疑問が浮かんだ。
準備ということは、もう決まっているのか? じゃあ何で俺にもっと早く言わなかったんだ……?
しかし俺はここの経営者でも店長でも無いので、まぁ良いかと思い直し、抽出したエスプレッソを客のテーブルまで運んだ。もう一つ、エスプレッソを抽出していて思い出した事がある。ここまでの報告を城崎さんにする必要はあるだろうか。店内が落ち着いているタイミングで幾らか考えてみたが、とりあえず電話が繋がってからで無いと事態が進まないので、やっぱりかけてみる事にした。
あっという間に時間は過ぎ、やれやれと閉店作業を行なっている最中にいくつか書類を抱えた進藤さんが俺を呼び止めた。
「ちょっと外出てくるから、あと頼んでもいいかな? 終わったらそのまま帰っていいからね」
進藤さんは急ぎ足で店を出て行った。終わったら帰っていいと言われても、もう殆ど終わっていたので気負いする事は無さそうだ。残りの仕事を数分かからず片付けた俺は、あとは着替えて帰るだけというところでカウンターに腰掛けた。
「……かけてみるか」
何となく家で電話するより、ここの方が緊張しない気がした。それでもするものはするが、幾分か和らぐ気がした。俺はスマホを手に取り発信履歴から今朝かけた番号をタップした。
ーープルル……
やはり出ないだろうか。知らない番号からの電話は取らないのかもしれない。今朝よりも辛抱強く待ってみたが、諦めて切ろうとスマホから耳を離したその時だった。
ブーッ……ブーッ……
バイブ音が微かではあるが確実に聞こえた。俺は急いで立ち上がると音のする方向へ足を向けた。店内からは見えない裏方の厨房からだ。俺は何も考えず……いや、考える間も無く厨房に入る。そこには忘れて行ったのであろう進藤さんのスマホはあった。画面が点灯していた。表示されているのは紛れもなく俺の携帯番号だ。
「何で……」
電話を切るのも忘れて、しばらく俺はその場に突っ立っていた。シンと静まり返った店内に鳴り響くのは、留守電サービスに切り替わるまで振動するバイブ音と、小さく聞こえるスマホからのコール音だけだった。
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