第三章 GrandChariot

「今日はやけに早いね、粟津くん」

 進藤さんが少し驚いた顔で振り返る。

「……はぁ、まぁ、ちょっと……」

 眠れなかったので。と言いかけてやめた。睡眠不足のせいで仕事に支障をきたすかもしれないと思われたくなかったからだ。

「そっか」

 俺はタチが悪いので要らぬところまで考えてしまうくせに口に出さず黙り込む。そんな俺を見抜いているのか進藤さんはいつも深く追求しない。なので彼との会話は変に身構える必要がなく助かっている。しかし今日はいつものようにはいかなかった。

「もしかして寝不足かな?」

 今度は俺が少し驚いた顔をしていただろう。確かに眠れなかったのでいつもより早めに家を出た。寄る場所もないので出勤時間より早めに喫茶店に着いてしまったのだ。

「……はぁ」

「目の下、クマがすごいよ。大丈夫?」

 進藤さんが自分の目の下を指差しながら言う。そんなにすごいクマなのだろうか。ろくに鏡も見ず出てきたので分からなかった。それより睡眠不足がバレたことにより、体調管理もろくに出来ない男だと思われていないだろうか。

「何か悩みがあれば、いつでも相談乗るよ。私で良ければだけどね」

「……はぁ」

 何故悩みがあると思われたのだろう。俺はそんなに分かりやすいだろうか。

「……人間は大なり小なり、常に悩みを抱えているからね」

 そう言うと進藤さんはドアノブを回し店内入り口の扉を開けて裏の倉庫に向かった。カランと入り口のベルが鳴る。店と倉庫は繋がっていないので、一度店を出る必要があるからだ。

「……」

 俺はエスプレッソマシンに反射する自分の顔を見つめた。鏡では無いので鮮明に映らず、クマを確認することは出来なかった。

「……悩み」

 進藤さんのようなあんなに穏やかな人でも、頭を抱えるほど思い悩んだりするのだろうか。そんな事があるなら、是非何に悩んでいるのか知りたいものだ。もしかすると俺の悩みなんかちっぽけだと思い知らされるかもしれない。しかし進藤さんがそんな壮大な悩みを抱えてるようにも見えず、やっぱり俺の今の悩みはちっぽけだとは思えなかった。


「ありがとうございました」

 あっという間に閉店時間が来ると、俺は手際良く片付けを終わらせて今日の仕事を終えようとしていた。

「……あの、進藤さん。この忘れ物の傘……」

「ん?あぁ、昨日のお客様の忘れ物だね。……この黒い傘がどうかした?」

「今日会う予定があるので、直接お返します」

「……そう、じゃあ頼むよ」

 そうだ、進藤さんはいつも深掘りしない。だから何でも言いやすい。

「粟津くんも、忘れないようにね」

「え?」

「傘、今日持ってきてたでしょ」

「あぁ……来る時降ってたので……」

「今年は例年に比べて梅雨が長いみたいだよ。早く明けてほしいね」

 俺は自分のビニール傘と黒い傘を手に取った。

「……そうなんですね」

「もう雨は上がってるみたいだよ」

「……あの」

「うん」

「ここに……」

 ここに俺の兄が尋ねてきた事はありますか?

 そう言いかけて口をつぐんだ。そんな事があれば恐らく進藤さんは俺に次の日でも伝えてくれるだろう。しかし俺の職場を知っているなら進藤さんの事も知っているのでは無いだろうか。そう考えたが確信が持てず俺は質問に踏みとどまった。

「……やっぱり何もないです」

「そう? 大丈夫?」

 やっぱり何もないと言われて追求せずにいられる人は何人くらいいるだろうか。

「すみません」

「……」

「……」

「うん、じゃあお疲れ様」

 進藤さんが、せずにいられる側の人間で良かった。そして俺もせずにいられる側……と思いたいが残念ながらそれは、したいけどできない口下手な人間というだけだ。

「お疲れ様です」

 俺は気まずさを隠しながら店を後にした。そしてあの女、城崎くいなとの待ち合わせ場所に向かう。ここから徒歩十分ほどのダイニングバーらしい場所だ。スマホを取り出して地図アプリを開き、ナビ通りに向かった。進藤さんの言う通り雨は止んでいた。

「ここか……」

 大きな高層ビルに入り、七階までエレベーターで上がると高級感のあるフロントとスタッフが俺を待ち構えていた。

「いらっしゃいませ、ご予約はされてますか?」

「……」

 指定された時間通り、二十時ちょうど。思ったより高そうな店だが予約はしているのだろうか。

「……城崎、で予約している……かもしれません」

 何とも微妙な答えだが本当に分からないので仕方ない。店員は身につけているインカムで他のスタッフに確認を取っていた。

「城崎様ですね。お待ちしておりました、こちらへ」

 どうやら予約はしているようだったので、念の為に確認して良かったと安堵した。案内された席は室内ではなく夜景が見渡せる開放的なルーフトップテラスのソファー席で周りはカップルだらけ。

 彼女はまだ来ていないようだったので取り敢えずソファーに腰掛けてメニューを手に取ると何故か値段が書かれていなかった。

「アカンやつや……」

 このような場所に来る機会は今日の今日まで無かったが、恐らく高級である事は確かだった。金は……手持ちで足りるだろうか? 更に他の席のカップル達の笑い声や、流れている優雅な音楽にどうも落ち着かず、手に持っていたビニール傘の持ち手を触っていた。昨日買ったばかりの傘なのに持ち手の透明なフィルムが少し剥がれており、俺はその剥がれた部分をぺりぺりと爪先で弾いた。別に荒い使い方をしているわけでは無いのだが何故すぐに剥がれてしまったのだろう、などとどうでもいいことを考えていると不意に後ろから声をかけられた。

「失礼致します」

 どうやらスタッフのようだった。

「城崎様にいつもお世話になっております、速水と申します」

 その男は俺の腰掛けているソファーの隣に跪き、名刺を差し出した。

「あっ……え、ど、どうも……」

 俺は驚きつつもその男の目さえ見ずに俯きがちに名刺を受け取った。


 ーGrandChariot オーナー 速水悠ー


 英語は読めないが恐らくグランシャリオと読むのだろう、確かこの店の名前だ。城崎くいなと電話で待ち合わせ場所の話になった時に伝えられた。

『明日二十時にグランシャリオで』

 俺が依頼を引き受けたいという旨を伝えると、それだけを言い残し彼女は電話を切った。

「城崎様から先程ご連絡をいただき、少し遅れるとのことだそうで、伝言を預かっております」

「……はぁ、ありがとうございます」

 仕事が立て込んでいるのだろうか。それにしてもオーナー直々に伝えに来るなんて、やはり金持ちの娘ということだろう。それにしてもお得意様の連れだからといって俺にまで跪かれるような丁寧な態度を取られるととても居た堪れない。

「……」

 オーナーと名乗るこの男は何も言わずににこにこと俺の顔を見る。何だ、用はもう済んだのでは無いだろうか。不自然さを感じた俺は珍しく自分から問いかけた。

「あの、何でしょう」

「……失礼致しました。不快に思わせてしまったなら申し訳ございません。お兄様によく似ていらっしゃると思いまして……」

「あ、兄を知ってるんですか」

 突然の言葉に驚いた。ここで城崎くいな以外に兄と名乗る人物を知っている人間がいるとは思いもよらなかった。

「はい、よく城崎様とご一緒にご来店頂き……とてもご贔屓頂いております」

「……あの、えっと……ど、どうして」

 しどろもどろになりながらも俺は頭を急回転させた。何から聞けばいい?そもそもこの男は兄とやらをどこまで知っているのだろうか。よく利用するバーのオーナーというだけならば、大した知り合いでは無い。

「お兄様からお客様のお話をよくお伺いしておりましたので」

 相変わらずのにこにこ顔で俺にそう伝える。オーナーという割には若く三十代……いや、二十代後半にも見える若々しさだ。長い黒髪を後ろで一つに束ねたモデルのようなすらっとしているスタイルが印象的だった。

「ごめんなさい、待った?」

 俺達の間を割って入るように声をかけてきたのは紛れもなくあの女、城崎くいなだった。

「……いえ」

「連絡くれて嬉しかったわ」

「こんばんは、城崎様」

「どうも、いつもの頼むわ。粟津くんは何飲む? お酒は好き?」

 慣れたような態度でオーナーに手をひらひらと振って見せると、俺の目の前のソファーに静かに腰掛けた。俺は何を頼んで良いか分からないので取り敢えずビールで、と一言告げるとオーナーは会釈をし店内へ戻っていった。

「あ、それ」

 俺の持ってきた傘に目をやりながら彼女が呟いた。そう、彼女の忘れ物のひとつである黒い傘だ。

「……お忘れのようだったので」

「ありがとう、すっかり忘れてたわ」

「そうでしょうか」

 俺は彼女の言葉に間を置かず言い放った。彼女の動きが一瞬ピタリと止まるのが分かる。

「……どういう意味?」

「……昨日、大雨でした。俺は家に傘を忘れた。それを後悔するくらい大雨でした」

 だからこそこの黒い傘の忘れ物に俺はずっと疑問を抱いていた。俺の働く喫茶店の外は、商店街に続くアーケードのようなものは無く目の前は屋根のない歩道と、その向こうに道路があるだけだ。

「そんな雨の中、傘を忘れるなんて考えられないです」

「……」

 わざわざ大雨に打たれてずぶ濡れになって帰る意味は無い。傘を持ってきているのなら尚の事、店を出てすぐに傘をさすはずだ。

「ふふっ」

 笑ったのは言うまでも無く彼女だった。

「そうね、私はわざと忘れて帰ったわ。でも雨には濡れなかったのよ。アプリで店の前までタクシーを呼んで帰ったもの」

「……」

「どうして? って顔してるわね……そんなの勿論あなたから連絡して欲しかったからよ。それが例え、私がお願いした人探しじゃなくて忘れ物の件についてだとしてもね」

 なるほど、彼女は俺が思っているよりしたたかなのかもしれない。

「それより敬語じゃ無くていいわよ、やりにくいし」

「いえ、そういうわけには」

「粟津くんは二十五歳、私より一つ年上じゃない」

「えっ」

 信じられないという俺の顔を見るなり彼女はわざとらしく頬を膨らませてみせた。

「失礼ね、私そんなに老けてる?」

「いや……そういうわけでは……」

 老けているというわけではないが、彼女は俺より年下とは思えないほど大人の色気が全身から溢れている。たった今初めて年齢を知ったが信じ難いというのが正直な俺の感想だった。

「まぁいいわ、よく言われる」

「……はぁ、すみません」

 ここで上手くフォロー出来るほど俺は口達者では無い。

「だから、その敬語やめて」

「……はぁ」

 すると、先程入店時に案内してくれたスタッフが俺にビールと彼女にカクテルのようなものを持ってきた。テーブルに置きながらその酒の名前を言っていたのだが、何せ長い名前で知らない単語だったので分からずじまいだった。

「じゃあ、取り敢えず……再会を祝して、乾杯」

 俺たちはお互いのグラスの音を打ち鳴らした。最近は乾杯する事が多い。というか俺が人と乾杯するなんて滅多に無い。

「で、本題に移るけど……ルイを探してくれるのよね?」

 俺は無言で頷いた。

「ありがとう。半ば断られるかなって諦めてたんだけど……良かった」

「でも探す前に、その兄の事について詳しく聞かせてほしいです……あ、えと……ちゃうわ、聞かせてほしいんやけど……」

 敬語をやめろと言われたものの、何となく威圧感のある彼女を前にすると自然と敬語が出てしまう。

「関西弁?」

「あ……えと……」

「別に気にしないで、珍しいからつい」

「いや、あの……普段は標準語やけど……」

 敬語以外で普段通り喋れなかったのは、昨日まで真理と関西弁で喋りあっていたからだろうか。

「そのままでいいわよ。それより何から聞きたい?」

 俺は聞きたい事を予め頭の中で準備して来ていたが、それらはたった今浮かんだ疑問に先を越されて口から出てしまった。

「そいつは関西弁じゃ無かったん?」

「……ルイは標準語だったけど」

 関西出身じゃないのだろうか。しかしこちらで標準語を使っていただけかもしれない。

「……フルネームは?」

「苗字は知らないの。名前は昨日言った通りルイ。漢字は種類の類」

「……親しかったのに、何で苗字……知らへんの?」

「変わった人だから、名乗らないから深く聞かなかったまでよ」

「……俺のことは苗字まで教えてんのに」

「あなたの事はよく聞いていたから」

「何でそんなに俺の話を? ……俺は会ったこともないで」

「でもルイはあなたに会いたがっていたわ。腹違いといえど弟って言っていたから、詳しく知ってても私は不思議に思わなかったけど」

 彼女からしてみれば、そりゃそうだ。情報がふわっとしていてあやふやだったが、その部分は納得した

「……住所は? どの辺に住んでるん?」

「家は無いって言ってたわ」

「は? 無いって……何でやねん」

 彼女を前にすると俺は人が変わったように自分が嫌いな質問攻めの体制を取る。当然だ、俺には知る権利がある。ましてや彼女の依頼を引き受けているからこそ、必要な事なのだから仕方が無い。そういう事情だとしても心のどこかで人と円滑にコミュニケーションが取れている事に、正直言うと実は少し喜びを得ている自分が確かにいた。

「さぁ……私と会う時は泊まりに来てたけど、それ以外は……多分他の女の人の家に泊まってたと思うわよ」

「……」

「イメージと違ったかしら」

「……仕事は?」

「してないわ」

「え? ……ニートってこと……なん?」

「強いて言えば、そういう女の人が収入源だったようだけど」

 俺は絶句した。どうやら兄はろくでもない色魔で甲斐性なしの男だそうだ。何かの間違いで俺では無く他の誰かの兄である事を祈った。……そうだ、そいつが俺の兄を名乗っているだけで兄弟と裏付ける決定的な証拠は何もないではないか。

「俺の兄っていう証拠は……何かあるん?」

「いいえ、でも違うっていう証拠も無いわよ。私は彼の言うことを信じてるけど」

「……あの、えっと……」

「私たちの関係が気になる?」

「!」

 図星だった。もし二人が恋人同士なら、彼女は兄の良いとは言えない異性関係をどう思っているのだろう。

「そうね、私は好きよ。彼のこと」

 彼女はグラスに口づけながら言った。気がつかなかったが、この短時間で彼女は酒を半分も飲み干していた。

「……」

 私は好きよ……とはどういう意味だろうか、そういう経験の乏しい俺には分からなかった。付き合っているのかそうで無いのか、ハッキリしない答えだったが何と無く追求するのをやめた。

「それにあなたたち顔がそっくりなの。それだけでも私にとっては信憑性は増したけど」

「それ、さっきのオーナーさんにも言われたわ」

「あぁ……悠のこと? ここによく一緒に来ていたから彼も類のことは知っているのよ」

「……似てるからって、顔見ただけで俺が弟って分かるか?」

「私が事前に話していたの、弟が来るって。それに悠は類の隠れファンなのよ。凄く格好良いっていつも言ってるわ」

 驚いた。あのオーナーと城崎くいなは思ったより親密なようだったが、それより兄の容姿についてだ。俺に似ているなら格好良いわけがない。

「……ほな、俺に似てへんやん。矛盾するわ」

「粟津くんも格好良いと思うけど? ……アドバイスするなら、その顔を隠すような前髪を辞めれば良いのに」

 言い終える前に彼女は座っていたソファーから腰を浮かせ、腕を伸ばしては人差し指で俺の前髪をすくった。

「……」

 突然の行動に俺の身体は硬直した。彼女の指から俺の前髪が離れるまでたった一秒にも満たない瞬間が、音の無いスローモーションのように感じた。

「その癖毛、類も同じ」

 俺は生まれつき中々の癖っ毛だ。いつも毛先がくるんと跳ねている。最近天気が雨模様なのでより一層くるくると俺の髪は動きを増していた。兄もそうだと言うなら父親から遺伝しているのだろうか。

「でも粟津くんの方が……」

 彼女は何か言いかけて、長い睫毛の生えた大きな瞳がゆっくりと瞬きをしては俺をじっと見つめた。彼女がすくった前髪がちょうど目にかかる位置にきたお陰で、俺の顔も彼女の顔もよく見えなくて済む。しかし続きの言葉が何なのか分からず、俺は進まない酒の代わりに自分の唾をゴクリと飲み込んだ。喉が思ったより大きな音を立てて鳴った気がした。

「ねぇ……早く探して欲しいのは本当だけど、今はそれよりパーティに同席して欲しいの」

 そうだ、すっかり忘れていた。兄を探すだけでは無く彼女の父のパーティとやらに出席する頼みもされていたのだった。

「……病欠とか使えへんの?」

「今まで父は何度か類に会いたいって言ってたんだけど……話を聞いた通り、彼って放浪者だから中々都合つかなくて、今回会わせないと認めてもらえないの」

「……認めてもらえへん? 何を?」

「勿論、私と類の事」

 つまりはどういう意味だろうか。

「婚約してるのよ」

 先程から驚いてばかりなので、さすがに少し慣れてきた。

「今回認めてもらえなければ、私は父が決めた相手と婚約する事になっているの。だからそれまでに何としても類を探したいんだけど……」

「……来週までに見つかるかどうか」

「覚えててくれたのね、来週の土曜日なの」

 彼女は昨日俺にパーティの日程は来週末と言った。偶然覚えていたわけだが、一週間余りという短期間で見つけようなんて、彼女もさすがに無茶な計画は立てないようだ。

「……なぁ、いくら似てるからって今後本物の類が見つかったら、あんたの父親も……さすがに別人って気づくんちゃうの?」

「平気よ、父はパーティーの最中は忙しいの。会うのなんてほんの一瞬よ。顔だってはっきり覚えちゃいないわ」

 それにしても無理矢理過ぎるのでは無いだろうかと思ったが、まぁその辺りは俺に関係の無い事なので良しとしよう。

「仕事はいつが休みなの?」

「……明日」

「じゃあ明日、着いてきて欲しい場所があるの。……すみません」

 彼女は近くにいたスタッフを呼び止めて空いたグラスのおかわりを頼んでいた。ちょうど俺も酒が無くなりかけていたので、少し悩んだがろくに洒落た酒も知らないので再びビールを頼んだ。

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