第二章 初恋
「それめっちゃ怪しくない?」
凛が苦虫を噛み潰したような顔をしながら小声で囁いた。まだ降っている雨のせいで少し声が聞き取り辛い。
「……せやな」
あの変な女性客が店を後にしてからというもの、俺は先ほどの不可解な事件を誰かに話したくて堪らなかった。しかし俺には友人と呼べる程の親しい人物は居らず、仕事前に連絡をくれていた凛に会えないかと返信したところ駅前で待ち合わせすることになり、すぐに駆けつけてくれた。
「てか、仕事は?」
「連絡くれた時、ちょうど終わったとこやってん。タイミング良かったわー」
「…そうか」
凛の関西弁を聞くと緊張が解れる。こっちに引っ越してからは何となく関西弁を避けた言葉遣いに気を使っていたので、昨日彼女と再会した時と同様に懐かしさとどこか切なさを感じた。
「櫂人、返事くれるか不安やったから……誘ってくれて嬉しい」
「……」
凛の素直な言葉に俺は戸惑った。正直なところ、今日のような出来事が起こらなければ俺から誘うなんて事は絶対に無かっただろう。断っておくが凛を嫌っているからという意味では無い。俺がコミュニケーション不足な性分のせいだ。
「その話もっと詳しく聞かせて……ってそれよりどこかお店入ろっ
か! ご飯食べた?」
「……まだ」
そっか。と凛は自分のさしている傘をくるくると回しながら呟くと、今度は思いついたと言わんばかりに笑顔でパッとこちらを振り返った。
「ほな、私がよく行く居酒屋があんねんけど、そこでもええ? 個室もあって話しやすいやろし、ここから近いし!」
凛はよく喋る。あぁ、そうだ。昔から俺は口数が少ないせいで周りから誤解されてきたというのに、彼女だけは俺の気持ちを汲み取って隣でずっと喋ってくれていた。それは鬱陶しさを感じさせるものでは無く、俺にとってとても居心地が良かった事を思い出した。
「それでその……櫂人のお兄さん? を探すって、どうするん? 探すん?」
「……」
「その人めっちゃ怪しいけど……ホンマに二十万入ってたん? その封筒」
「……せやな、これや」
俺はズボンのポケットに突っ込んでいた封筒を取り出して凛の目の前に突き出した。雨が降っているので少し濡れてしまっている。
「えっ? ちょっと、そんな大金ポケットに入れとったん? 危ないやん!」
凛は慌てて封筒を突き返しながら周りをキョロキョロと見渡した。何だかその姿が可愛く思えて俺は悪い、と言いつつ目を逸らしながら封筒をポケットに戻した。
「いやいや! アカンって、ポケットは!」
「……あ」
「ふふっ、めっちゃ不用心やなぁ! 相変わらずやなー櫂人」
俺の慌てる姿を見てはにかんだ凛は、やっぱり昔と少しも変わっていなかった。
「とにかくそれ鞄に……って櫂人、鞄持ってへんの?」
「……持ってない」
「どこかなおすとこないん?盗られなさそうなポケット……」
「ほな、凛が持っといて」
「アカンよ! そんな簡単に人に大金渡したら! もっと警戒心持たな!」
「……凛やったら大丈夫やろ」
心から出た言葉だった。十数年ぶりの再会だったが全く変わらない彼女に対して普段から俺の強い警戒心は紐解けていた。
「信頼してくれてんなぁ、久しぶりに会ったのに……何か嬉しいわ」
少し俯きながら凛はまた自分のさしている薄いピンクの傘をくるくると回した。他人の感情を読み取る能力の低い俺でも、それは嬉しそうにしている行動だと分かる。凛が人一倍分かりやすいのか、はたまた俺が凛をよく知っているからなのか。それはどちらでも良かったが、犬や猫が喜ぶと尻尾を振ったり喉をゴロゴロと鳴らすことと同じような可愛らしさを彼女に感じた。
「櫂人聞いてる? 着いたで」
そんな事をぼーっと考えているうちに凛の行きつけらしい居酒屋に着いた。店の前の傘立てにお互い傘を並べて入れたのだが、何だか凛の薄いピンクの傘と俺が来る途中にコンビニで買ったビニール傘はまるで各々を象徴しているようだった。可愛らしい明るい凛に対して、透明で個性も何も無い自分。普段より一層ネガティブに考えてしまうのは止まない雨のせいだろうか。気を取り直して店内に入ると運良く個室が空いていたので俺たちは席に座り、適当に注文を済ますと先ほどの話題に戻った。
「とにかく、その手に持ったままの封筒をどうにかせんとな」
「……あぁ、持ったままやったわ」
「相変わらずぼーっとしてるなぁ…ん? その封筒何か書かれてへん?」
「この封筒を渡してきた女の名前と連絡先や。そいつが書いていってん」
あの不思議な客が帰ってから、しばらく茫然としていたので二つの忘れ物があることに遅れて気づいた。一つは俺宛てなので忘れ物と言えるかは怪しいが、それは勿論この二十万の入った封筒だ。突き返せば良かったと後悔しつつ封筒を手に取り中身を確認すると確かに一万円札が二十枚そこにはあった。そしてもう一つの忘れ物は正式に彼女の忘れ物と言って良いだろう、高そうな黒い傘だ。彼女は来店時にこの傘をさして店の傘立てに置いていったので間違いない。しかし俺はそこに一つの疑問が浮かんでいた。
「その封筒ちょっと見せて」
「あ、あぁ」
また一人で考え始めてしまっていた。すぐ黙り込んで思考で巡らせる、俺の悪い癖だ。そういえば先程の怪しい詐欺師紛いの女性客が、言いたいことだけ言うのは自分の悪い癖だと俺に言ってきたのを思い出した。そこで俺は相手にとって自分の悪い癖などどうでもよければ関係も無いことだ、と心の声で言い返したのだった。同じ事をしてしまった様に感じて凛に申し訳ない気持ちになりながら俺はその封筒を差し出した。
「……しろさき、くいな?」
「そいつの名前。そういえば家がどっかの財閥とか言うてたわ」
「それってまさか城崎財閥ちゃう? 有名やで、櫂人知らへんの?」
「知らへん」
その時、店員が俺たちのテーブルにジョッキを運んできた。俺も凛もお互いに生中を頼んでいたので、手に取り一旦乾杯した。
「ちょっと待って」
乾杯したのも束の間、凛はテーブルに置いていた自分のスマホを手に取り画面を少しの間触ると、今度は俺の目の前にスマホを置いて画面を見せた。そこには城崎グループというキーワードで調べた検索結果がいくつも並んでいた。様々な見出しとまとめられた記事を見る限りどうやら実在する様だった。そして凛は自分のスマホを手元に戻すとまたもや調べ始めた。
「えっと、城崎……くいな……あった! 本当にこの人やった?」
凛は腕を伸ばして俺にスマホの画面を突きつける。そこにはどうやら企業グループの公式サイトが表示されており、ページ内のテキストに城崎くいなと書かれている。更に顔写真代わりの画像も載せられていた。紛れもなく彼女だ。怪しい自己中心的な詐欺師紛いの女性客だ。来店時の派手な服装とは打って変わって、スーツを見に纏いピシッとした着こなしで化粧も先程より薄い気がするがそれはそれで優れた容姿が一際目立つようだった。
「……こいつや」
「……じゃあ、本物やったってことやんね?」
俺はそこで彼女の言葉を思い出した。
『私のこと、怪しむなら調べてみるといいわ』
本物だから調べられても問題ないって事か。たった今の今まで詐欺師呼ばわりしていたが、ほんの少し信憑性が高まったと思わざるを得なかった。
「櫂人が探さなくても、お母さんに聞いてみたら何か分かるんちゃう? 連絡してみたら……」
「連絡先知らへんし無理や」
俺は凛の言葉を鋭く遮った。
「え、お母さんの番号知らへんの? じゃあ実家に帰って……」
「……今どこに住んでるかも分からへん」
凛は口をつぐんで困惑したような表情を浮かべた。その反応は当然と言えばそうだろう。実の母親の連絡先はおろか、居所さえも分からない息子というのはそう多くはないはずだ。
「お待たせしましたー」
このタイミングで店員が次々と料理を運んできた。少し黙っていた凛は気を取り直したように箸を取りいただきますと手を合わせると、すぐに料理に手を伸ばしながら俺への質問を続けた。
「そっか、お母さんが再婚してる……とかは無いん? 新しい旦那さんの連れ子がいて、櫂人より年上……みたいな!」
「……それは聞いた事ないな」
「うーん……腹違いってことはお父さんは同じって可能性もあるやんね? じゃあ役所で櫂人のお父さんの戸籍をとったら? そこに書かれてへんかな」
俺も箸を手に取り料理をつつき始めた。
「もともと父親とオカンは籍も入れてへんし、何も分からへんと思うわ」
「そういえば、櫂人はお父さんのことは覚えてへんのやっけ?」
「全く記憶に無いわ。あるんはオカンの彼氏ぐらいやな……」
その言葉を口にした途端、俺は先程の出来事の中で一瞬蘇った子供の頃の記憶を思い出した。確か俺と同じくらいの子供がいた気がする。そしてその時……
「……よー覚えてへんけど、小学生くらいの頃に」
「うん?」
「同じくらいの子供と住んでた事ある気がするわ」
「えぇ? はよ言ってや! その頃お母さんの彼氏さんおったん?」
「せやな……」
「ほな、その時の彼氏さんの子供かもしれへんな! お母さんはその人と今でも付き合ってる?」
「……いや、どうやろな。すぐ別れた気がするわ」
「何年も前になるけど、もしかしたらその子かもやで!」
「……でも」
「そうやんな……お母さん達が籍入れてへんのなら、戸籍上では兄弟ちゃうし、そんな一時の連れ子同士の関係やったらわざわざ兄弟って名乗るかなぁ?」
凛は俺の言いたいことを一語一句すくって取りこぼさずに代弁してくれた。もしかすると彼女は読心術を心得ているのかもしれないと幼い頃から何度も思ったものだ。こういう部分に子供の頃から口下手な昔の俺は救われていた。
「……エスパーやな」
「それ昔から櫂人にめっちゃ言われてたな! 懐かしいわぁ」
「……せやな」
「私は人の考えてる事なんでも分かるんやで〜」
凛はニヤニヤと悪戯に笑いながら頬杖をついた。
「……ほんまに?」
「……」
「……」
「ちょ、嘘やん! あははっ信じんといてやぁ!」
何だか馬鹿にされているようで俺は凛から目を逸らした。
「ごめんて! でも、櫂人が何を考えてるかはなんとなーくわかるで。よく知ってたんやから」
「……そうか」
正直、読心術が本当なら教えてもらいたいと思った。そんな現実離れした話を普段なら信じるわけ無いのだが今日という日が人生で稀に見ない不思議な一日だったので、つい警戒心の薄い相手に対して心が乗せられ読心術ですら信じてみたくなった。
「あとは相手の表情や行動や仕草で何となく分かるで。そら全部とは言わへんけど……一応心理カウンセラーの資格持ってるんやから!」
凛が自慢げに自分の両手をグッと丸めて目を輝かせながら俺を見た。
「……凛が今やってる仕事ってそういう」
「心理カウンセラー? ちゃうで、仕事は普通の事務やけど就職に有利になるかと思って資格取ってん!」
「……そうか」
「でも……私はそういう相手の気持ちに寄り添う仕事がしたいなと思って、やっぱり転職しようかなぁって悩んでる」
「……」
凛なら向いてると思う。その言葉が喉まで出かかっては、やっぱり飲み込んだ。転職なんて俺はそんな人生の転機の相談相手になれるほど相応しいコミュニケーションを図れないからだった。
「ごめん! 話逸れたね! えっと、とりあえず櫂人はどうするん? 今日会った女の人は実在したけど……」
「……せやな」
「うんうん」
「……」
俺がどう答えるか悩んでいるのを見兼ねた真理はエスパーの力をまた発揮する。
「まぁ、どうするか決まったら連絡して! また相談乗るし力になるで!」
「……」
ここまで良くしてくれるのは何故だろう。普段友人と呼べる相手と食事などする機会がない俺には不思議だった。確かに昔からの馴染みではあるが、もう数年も会っていなかったというのに。
「櫂人が突然引っ越してから……もう会えへんと思ってたから……今こうやって会えて嬉しいし、また会いたい。アカンかな?」
眉尻を下げ、困り顔で恐る恐る尋ねる凛を見た俺は、白状しよう。初恋相手だからといってつい有りもしない期待をしてしまった。
「……ええに決まっとるやん」
「ホンマ? よかった! 絶対返信してや! 櫂人、連絡不精やろ〜」
はにかんだ凛の顔を見て俺は自分の顔が少し赤くなったのを自覚し、自分の目にかかる長い前髪でどうにか隠そうと俯いていた。
「お腹いっぱい、ご馳走様でした〜」
たわいも無い会話を交えながら俺と凛は料理を平らげ程よく酒も進んだところで、居酒屋を後にした。もう雨は止んでいたので、危うく店の傘立てに置いた傘を忘れるところだった。
「……ホンマに良かったのに」
「アカンよ! きっちり割り勘やで!」
俺からの急な誘いだったので、会計時に奢ると申し出たのだが凛は断固として払うと言い張ったので、俺は素直に従った。
「また進展あったら聞かせて! じゃあ、相談料として次は奢ってや!」
「……ん」
「遅くまでありがとう、ほな私こっちやから」
「……や、送るわ」
凛は俺の帰り道とは逆方向を指差したので引き止めた。東京の夜は明るく人賑わいも多かったが、送った方がいいだろうという事は人付き合いの少ない俺でもさすがに分かる。
「ええよ! 駅すぐそこやし」
「……もう遅いし」
「ありがとう、でも平気やで」
俺にしては食い気味に引き止めたつもりだったがあっさりと断られた。
「じゃあ代わりに……いっこだけ聞かせてくれる?」
急に真面目な顔をして、凛は手に持っている自分のたたんだ傘の先端を地面にコンッと弾くと改まって向き直り俺に尋ねた。
「どうして……何も言わずに急に引っ越ししたん?」
街中の喧騒は静まり返ったわけでも無いのに、その時何故か道路を走る車の水たまりをはねた音だけが俺の耳に残った。
俺は凛と別れた後はまっすぐ自分のアパートに帰った。室内のうだるような湿気と暑さに耐えきれずエアコンの電源を入れようとリモコンを探した。まだ六月だというのに人より数倍暑がりな俺は真夏のような気がしていた。
「……はぁ」
俺がため息をついた理由はリモコンが見当たらないからだが、一人暮らし用の狭い部屋から見つけるのは困難では無い。しかし俺は棚やベッドの下、テレビの裏などあらゆる場所を探したがどうしても見つけられなかった。諦めてキッチンに向かい、グラスを手に取って蛇口をひねり水道水を入れた。ぬるい温度が気に食わなかったが氷が無いので冷やすことも出来ない。どうしようもない俺は不満ながらもそれを飲み干した。
ーーブブッ
スマホのバイブ音だ。俺はグラスを持ったまま急いでテーブルに置いてあったスマホを手に取りメッセージ通知が表示されている画面を確認した。
「凛:さっきはありがとう! 帰れた?」
初めて凛からメッセージが送られてきた時と同じように、俺はその文章を何度も読み返すと口元が緩んだ。つい鼻歌でも歌ってしまいたい気分だった。
凛と偶然再会したのは昨日のことなのに、もう随分と前のことのように思えるのは大袈裟だろうか。いや、平凡な毎日を送っている俺としては目まぐるしい一日だったのでそう感じても致し方ない。
しつこく凛からのメッセージを何度も読み返しては、あの喫茶店で起こった不可解な出来事にも感謝したくなる自分に少し驚いた。あの出来事が無ければ俺は凛からの誘いに返事をしていたかどうかすら分からない。間違いなく俺の背中を押したのはあの女、城崎くいなと実在するのか定かではないが俺の兄と名乗る人物だった。持っていたスマホをテーブルに戻すと、空いた手でまだ着替えていないズボンのポケットから封筒を取り出した。
ーー城崎くいな 080-XXXX-XXXX
そう書かれた封筒を見つめてしばらく考えたが、まだまだ分からない事が多すぎる。俺はテーブルの周りをうろうろと行ったり来たりしながら顎に手を当てて考えた。
『それめっちゃ怪しくない?』
凛の言葉を思い出した。そうだ、明らかに怪しい。あの城崎くいなという女が存在したという事実のみが分かっているだけで、あとは全てが怪しい。寧ろ身元が分かっているんだ。警察に……いや、何なら直接城崎グループとやらに電話して言いつけてやってもいい。お宅の娘さんが俺におかしな事を言いながら金を渡してきたんです……とまで考えたところで、うろうろ歩き回っていた俺は足を止めた。……これではまるで、おかしな事を言っているのは俺ではないか。そもそも何の得があって彼女は俺に金を渡した?
『私の大切な人だから、何としても探し出したいの』
思考を遮るように城崎くいなの言葉が脳裏に浮かぶ。
…親にバレたくないなんてその程度の関係だ。
…その兄のフルネームは?住所は?
…何故兄は俺の職場まで知っている?
ー僕を探してー
そう書かれていた真っ白な手紙の便箋。俺は次々と浮かぶ疑問をよそに、持ったままのグラスをやっとテーブルに置くと代わりにスマホをもう一度手に取りタップして発信画面へと切り替えた。コール音が鳴っている最中、俺が目に入ったのは小説を書くために今朝まで使っていたノートパソコンだった。
「はい、もしもし」
電話の向こうから聞こえる声の主は紛れもなく彼女の声だ。俺は何かが始まる予感がした。まるで新しい本を読み始める前、表紙を開く瞬間のような……こんな気持ちは子供の頃以来だった。
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