第四章 契約
目を開けると見慣れない風景だった。何だか身体が重く、汗をかいたのか肌がべたべたして気持ち悪い。霞む目を擦らせて、まだぼんやりする頭で昨日あれからどうしたか思い出そうとしている時だった。
「おはよう、もう起きた?」
その声に心臓が飛び跳ねた。俺は勢いよくベッドから上半身を起こし声のした方向を見た。
「寝坊よ。予約の時間に間に合わないから急いで」
声の主は兄の婚約者、城崎くいなだった。
「準備出来たら下のロビーまで来て。先に行ってるから」
そう言い残し彼女は足早に部屋から出て行った。どうやらここはホテルの一室のようだ。内装がやたらと煌びやかなので恐らく高級なホテルなのだろう。俺はバクバクと波打つ心臓を鎮めようとしていたがそれには時間がかかった。なぜなら俺は一切服を身に纏っておらず、裸である事に気づいてしまったからだ。
「……」
声も出なかった。一体昨日の夜、何が起こったというのだ。いや、まさか、起こり得ない。有り得ない。昨日は確かそう……バーであの女と話しながら酒が進んで……進んだ。寝不足だったのも相まって酔いが回ったのかもしれない。その後どうしたか一切覚えていないのだ。ここで俺が兄のように女性に対して百戦錬磨のような男であれば、大して問題視もせず淡々と部屋を出る準備をしただろう。しかし俺はどうだ。女性経験なんて乏しいどころか、そのような事情の経験は一切無い。だと言うのに覚えていないとは何たる失態だろうか。
背中にじわりと冷や汗が流れる。したのか、していないのか。それを確かめる為に俺は重い身体を無理矢理動かした。まずは床に散らばっていた自分の衣類をかき集め出来るだけ急いで着替えると、今度は時刻を確認しようとスマホを探した。俺が置いたのか彼女が置いたのかは分からないが、俺のスマホはベッドの枕元にあるサイドテーブルに置かれていたので手に取ると画面には九時五十分と表示されていた。
「あ……」
思わず声が漏れたのは画面下部に表示された凛からのメッセージだった。
「凛:櫂人の喫茶店行こうと思ってるんやけど、今日は仕事?」
なんて事ない内容だった。そして俺と凛はただの幼馴染で特に特別な関係では無い。なのに何故かその時俺は罪悪感でいっぱいになっていた。理由に見当は付いている。きっと俺が一方的に凛に好意を寄せているからだろう。俺にとっては好きな相手がいるにも関わらず他の女と寝るなんて、とても考えられないからだ。
無我夢中で着替えてスマホと財布をポケットに詰め、俺はどうやら一晩過ごしたらしい部屋を後にした。そして長く伸びた廊下の先にエレベーターを見つけたので一階のロビーまで難なく降りた。
「遅い、チェックアウトの時間ギリギリよ」
城崎くいなはエレベーターから一番近いソファーに座って待っていた。そんな事を言われてもチェックアウトの時刻はおろか、ここがどこのホテルなのかも知らない。彼女は俺をじっと見るなりソファーから立ち上がると腕を組んだまま出口に向かおうとした。
「……あの」
「とにかく今からパーティーに来ていく服を買うのと、そのもさもさした長い髪をどうにかするわ」
俺が聞きたいのはそういう事ではない。昨日の夜何があったか、だ。
「……」
ところが俺は聞き方に困惑した。どう聞けば良いのだろう。
「何?」
「……あの、えっと……昨日」
「貴方と私が何があったのかって話?」
話が早くて助かる。しかし妙に手慣れた聞き方で、年下の彼女に汲み取ってもらった俺は少し自分が情けないと感じた。
「……悪いけど全然覚えてなくて……その……何というか、俺あんたに何か……」
「くいなでいいわ」
俺達はホテルのロビーを出た。彼女はちょうどエントランス前のロータリーに止まろうとしていたタクシーに向かって手を振りこちらへ呼んだ。
「お父様にこの事がバレたら私だってタダじゃおかないの。つまり私と粟津くんは……運命共同体なのよ」
「……はぁ」
運命共同体という生まれてこの方使った事も使われた事もない言葉に何だか小っ恥ずかしくなった。
「だから、あんたなんてよそよそしい呼び方はやめて。くいなでいいわよ」
「……えっと……じゃあ、せめて城崎……さんで」
とてもじゃないが知り合ったばかりの女性を下の名前で呼び捨てに出来るほど、俺は異性に対して免疫があるわけでは無かった。
「……あんた呼びよりはマシね」
目の前で停車したタクシーの後部座席のドアが自動で開くと、彼女……城崎さんは車内に乗り込みながら吐き捨てるように俺にそう言った。立ち尽くしていた俺は城崎さんに乗って! と声をかけられてようやく車内に乗り込んだ。彼女が何処かの住所を運転手に告げている間に、俺は昨晩の話の続きをもう一度どう聞こうか悩んでいた。そしてそれを見かねた城崎さんは自分から続きを話してくれた。
「ごめんなさい。さっきの話の続きだけど、本当に何も覚えてない?」
「……うん、全く……覚えてない……」
「……そう」
彼女は窓ガラスに肘をかけ頬杖をつきながら向こうの景色を見ていた。
「粟津くんってお酒弱いの?」
「……えっ? ……どうやろ、そんな事無いと思うけど……」
「粟津くん昨日バーで酔い潰れたのよ。でも家も知らないしうちに連れて帰るわけにもいかないから、そのままホテルに連れて行ったのよ」
「えっ……そう、やったっけ?」
全く記憶が無かったが昨日は寝不足だったのと身体が疲れていた為か、確かに酔いが回るのが早かったような気がしなくも無い。
「面倒だから私もそこで寝たわ」
「……なんでや……」
「え? だから、面倒だったから」
面倒臭いからってよく知らない男と一緒に一晩同じ屋根の下で共に寝るだろうか? 大きなお世話かもしれないが彼女の貞操観念について心配になった。
「あの……悪いな、迷惑かけて……そんな飲んだつもり無いんやけど」
「疲れてたんじゃない? 寝てなかったんでしょ」
「……俺そんな事言うたっけ」
「酔っ払いながら言ってたわよ」
記憶が無いとは恐ろしい。とにかく彼女とは何の過ちも無かったようなので安心だ。しかし自分が他にどこまで喋ったか心配になった俺は、元々記憶力には乏しい方なので酔っていなくても大差は無い、と無理矢理思い直して自分を取り持とうとした。
右折しようとしているタクシーのウィンカー音がカチカチと車内に流れる。規則的なリズムはまるでメトロノームのようで、ずっと聞いているとたちまち俺はその音と自分の心臓の音が一体化したような感覚に陥り、段々と平常心を取り戻す事が出来た。
「着いた、ここで止めてください」
城崎さんが運転手に声をかけ、財布からカードを出した。
「あっ俺が……」
払うべきか?
「いいわ、これは契約した業務内容の一つよ」
なるほど。すぐさま納得した俺はタクシーから降りた。彼女も続いて降車した。
「この店よ」
彼女の言うこの店とは美容室だった。
「髪は切りたくないんやけど……」
俺は美容室が苦手だ。あの明るい空間で忙しそうにしながらキラキラとした笑顔で俺に話しかけてくる美容師たちがもっと苦手だ。
「分かったわ。長さは変えないでそのもさっとした……髪の量を減らしてもらいましょう」
「俺、美容室苦手やねんけど……」
縋るような目で俺は城崎さんを見た。年上なのに情けない事は百も承知だが、本当に苦手なのだ。ここ何年も通っていない。最後に切ったのは安くて早い床屋で何とか我慢して切ってもらった以来だった。そのせいで俺の髪はくるくるとした癖っ毛が胸上まで伸びきっており、自分でも鏡を見る度にそれはまるで海の中で揺らめく海藻のようだと自虐していた。
「うん、でもこれも契約の一つだから。二百万円の仕事の一つなの」
そう言われてはもう後に引けない。俺は裕福ではないが、借金があるなど金に困っているわけでも無い。二百万円は確かに魅力的だが、そこに惹かれて依頼を引き受けたわけではなかった。
「やるの? やらないの?」
ただの好奇心かもしれない。何の変哲もない暗い男の人生に突然舞い込んだ、小説のような展開に少し心が躍っただけかもしれない。だから依頼を引き受けた。しかし、二百万円は受け取らないかと聞かれるとそうもいかない。俺は先程言った通り裕福なわけでは無く、その金額は確かに魅力的だからだ。
「……分かった」
渋々俺は了承した。城崎さんは先に店内に入ると予約をしている旨を伝え、後ろから心細そうに着いてくる俺に向き直った。
「じゃあ、終わる頃にまた来るから」
「え、行くん?」
「だって待ってても時間勿体無いじゃない? 先に次の店行って服選んでおくから」
「え、ちょ、ちょ……待ってや」
「何?」
彼女の口角が僅かに上がったのを俺は見逃さなかった。
「いや……やから、苦手なんやって。話す事ないし……一人は無理やって」
二十代半ばの男が一人で美容室に居られない、と年下の女性に縋っている様は何て格好悪いんだろうか。知り合いはおろか、誰にも見られたくない瞬間だ。
「そう、でももう……行かなきゃ……ふふっ」
彼女はついに耐え切れず笑い出してしまった。
「何がおもろいねん! ちょ……ほんま、勘弁して」
何だか情けなさすぎて泣きそうになってきた。
「ごめんなさい、あまりに貴方が必死すぎて……ふふ……だって……」
口を抑えて何とか笑いを堪えようとする城崎さんを俺は睨んだ。もしかして彼女は金で釣った男を玩具にして弄ぶ趣味があるのだろうか。俺はまたもや疑念が湧いてきた。
「本当ごめんってば。粟津くんってあまり表情が無いでしょ? だから……必死で泣きそうになってるのが何だか新鮮で……」
そうだろうか。俺は確かに顔に感情が出ない方ではあるが、彼女……城崎さんに対しては最初から荒々しい声を出したり割と感情をぶつけたような気がするが、それでもどうやら表情豊かとは言えなかったようだ。
「大丈夫、担当の美容師には私が予めオーダーしてるから。粟津くんは何も喋らなくていいわよ」
城崎さんは目尻に溜まった涙を指で拭いながら言った。
「お待たせしました! どうぞこちらへ」
担当の美容師らしい眩しい笑顔の女性が俺達の間に割って入ってきた。
「……」
俺は無言で城崎さんと美容師さんを交互に見た。やっぱり辞めよう……とは言ってくれなさそうだ。
「じゃあ、後で」
美容師さんに負けないくらいの笑顔で城崎さんは俺に手を振り背を向けて店から出て行った。あんな笑顔は初めて見た。それは純粋な笑顔では無く、やはり笑いを堪えているような笑みだった。
「……はぁ」
俺は小さくため息をついて案内された席に腰掛けた。
担当した美容師さんは本当に俺に必要最低限しか話しかけてこなかった。城崎さんが事前にそうするように伝えておいてくれたのか、もしくは最近の美容師は無理して話しかけないスタンスになったのか、はたまた俺が単純に暗くて話しかけ辛かったのか。
「うん、だいぶ良くなったじゃない」
迎えにきた城崎さんが俺をまじまじと見て安心したように言った。顔や目にかかる髪の毛はかなり量が減り、くせ毛を上手く利用してわざとカールさせたような髪型になっていた。
「下部にかなりレイヤー入れて、長さは切りましたが襟足は残してウルフっぽく仕上げました!」
美容師さんは呪文のような単語で城崎さんに仕上がりを説明していたが、俺には何のことかさっぱり分からなかった。恐らく成功しました、という意味合いだろう。城崎さんは美容師さんに礼を言うと俺の腕を掴んだ。
「さ、次の店に行くわよ。大体目星つけてきたから」
次に案内されたのは俺でも聞いた事のある高級ブランドの店だった。俺達が店に入るなり、店員が何着か服を持ってきた。城崎さんのつけてきた目星というのは、どうやら服の事だったらしい。俺は流れるようにフィッティングルームに案内され、言われるがままに何着か着替えると城崎さんは納得した服を三着店員に渡して
「これにするわ」
と言い始めたので俺は焦って尋ねた。
「パーティーの服なら一着でいいんじゃ……」
「これはお礼よ。私からの」
「……いや、ええって。そんな高い服受け取れへんわ」
第一、着ていく場所も俺には無い。
「じゃあ、報酬金に上乗せして服代の分も働いてくれる?」
「……」
正直自信は無いが、有無を言わせない彼女の圧に負けた俺は言い返す事が出来なかった。だが、威圧的な態度の隙間に少し笑顔が見える。俺の経験からして信憑性は全くないが彼女も嫌々付き合っている感じではなく、むしろ楽しんでいるようにも見えた。
「次は靴ね。何センチ?」
新たに靴を何足か試着した後、城崎さんはまた一足ならず何足か靴を買おうとしたので俺は一足でいいと説得した。何とか納得してくれた城崎さんは会計を済ませると早足で出口に向かった。
「ありがとうございました。またお待ちしております、城崎様」
店の前で深々とお辞儀をしながら挨拶をする店員に対して俺は少し頭を下げると、高級ブランドの紙袋を手に先を歩く城崎さんの後を追いかける。店員が名前を呼んでいたあたり彼女は……彼女の家族はあの店のお得意様なのだろう。
「これで一通り準備はいいわね」
「……あのさ」
「じゃあ、私これから仕事があるから」
俺が声をかけているにも関わらず、突然立ち去ろうとする彼女は何処か不自然だった。彼女は先程買ったばかりの服や靴が入った紙袋をこちらに渡すと、踵を返して去ろうとするので俺はもう一度声をかけた。
「こんな事しててええの?」
「こんな事?」
「行方不明やろ……その……類は」
「ええ……それが何か関係あるの?」
俺は今日、いや昨日から何か引っ掛かっていた。兄を……類を探して欲しいと必死に頼んでた割には俺が依頼を引き受けた途端、城崎さんからは焦りが見えなかったからだ。
「……そのパーティーに出て欲しいのは分かるけど、それどころちゃうん……」
俺が言い終える前に城崎さんは被さるように返事をした。
「連絡があったの」
「……え?」
意味が分からないと言わんばかりに俺は怪訝な顔を彼女に向けた。
「実は類から連絡が来たの」
「……聞いてへんけど」
「ごめんなさい、言うのを忘れてたわ。昨日夜にバーへ連絡が来たの。……一分も満たない電話よ」
「内容は?」
「いつもすぐ切られるから、詳しい事は聞けていないけど……何処にいるかは分からない」
「分からない?」
「教えてくれないのよ」
「……意味が分からん」
「私に、自分で探して欲しいって」
「……それは……居場所を誰かに口止めされている訳ちゃうって事やな」
「そうじゃなさそうね」
「……つまり誘拐された訳じゃ無い、自分の意思で居なくなったんやな?」
なるほど、事件性は無さそうだ。自ら身を隠して婚約者とかくれんぼをして遊んでいるという訳だ。それなら城崎さんに焦りが見られないのも無理は無い。身元の無事が確認出来ているのだから。
「……そういう大事な話は忘れず先にしてや」
と言いながらも俺は半ば諦めていた。この女は物事の重要な部分を伝えずに行動だけが先走る一面がある。既に俺は初対面からそれを経験しているので特段怒りが湧き上がるとか、そういった感情は無かった。
「あのさ……俺の協力って必要? 城崎さんに見つけて欲しいんやろ……そいつは」
「……私だけじゃ無理。でも粟津くんが見つけたら私も見つけた事になる、でしょ?」
「……」
少しだけ流れた沈黙を先に破ったのは城崎さんの方だった。
「じゃあ、私は仕事行くから。当日は宜しくね」
そう告げると彼女は急ぎ足で近くにあったタクシー乗り場に向かって去っていった。俺はしばらくそこで呆けていたが、ポケットに入ったスマホが振動したお陰で我に返った。スマホを手に取り表示画面を見ると新着メッセージが一件、凛からだった。
「凛:今日喫茶店来てみたんやけど、櫂人仕事休みだったんやね。また行くわ!」
俺はその文章を読み終えたところで疑問が浮かんだ。何で凛が俺の仕事場に……
「……あ」
そういえば今朝メッセージが来ていたような気がする。確認したのはホテルでの出来事だったので俺は気が動転していて、どうやらすっかり返信を忘れていたようだ。
「はぁー……」
俺は深いため息を吐くと同時に自分の腹が思ったより大きく鳴った。とっくに昼を過ぎているというのに昼飯を食っていなかった、というか今日は起きてから何も食べていない。
「……」
俺は今から凛を飯に誘うか誘わないか、その場で右往左往しながら悩みに悩んだが結局返信し忘れていて「悪かった」とだけメッセージを返すと腹ごしらえを済ませる為、帰り道にコンビニへ寄り道した。
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