第3話 今も昔も編集部

 スウッと深く息を呑む。


 むせ返るような事はなく、喉に何ら刺激を与えもせずにトンと肺へと落ちていく。まるで空気が薄まったかのように思えた。壁紙を染める程に紫煙が舞い、ずしり重く張り詰めていた彼の日を懐かしく想う。


 デスク脇に追いやられた灰皿には山盛りの吸い殻が。ボツになった原稿の上に灰が溢れていたのも一度や二度の話ではない。そんな日々が、夢現の幻だったのではないかと見紛う程の変わり様だったと言える。


 全面禁煙となった編集部では空気清浄機が猛威を奮い、殺伐とした空気を吸い込んでオゾンだか、イオンだかへと変えていく。愛煙家である俺にとってはプラスなんだか、マイナスなんだか分かったものじゃない。ただただ、居心地の悪さだけを感じた。


 首をぐるりと回し、壁に掛けてある行先ボードを目でさらう。もうそこに俺の名はなかった。辞めていった奴の名札なんて、後生大事にするものでもない。振り終えた手はすぐ名札を剥がしに向かうが必定だ。


 とは言えども懐かしくは思う。友江耕平ともえこうへいという札がそこに整然と並んでいたのは、もう何年も前の話になる。馴染みの名札がずらりと並ぶ中、ひとつだけ見慣れない名があった。どうやら新人が入ったらしい。


 俺の後釜だろうかと眺めていると、友江と名を呼ばれたので向き直る。松本編集長は添わす様に近付けていたICレコーダーを耳から離し、力強く目を閉じながら思い悩むかのように深く皺を刻み込んでいた。


 歳のせいで耳が遠くなったのだろうか。何度もくり返し、寺本巴のインタビューを聞き直していた。案の定、小言を賜る。


「文字起こしぐらいはしてきてもバチはあたらんと思うぞ。え? 友江」


「俺の資料用ですから。何分ひとりなんで、そこまで手が回らないんですよ」


 繕った言い訳は、如何ほども役立たず。


「何度も言ってるだろ。時を惜しんで手間を惜しむなと。いいか、報道ってのは──」


 報道の心得。俺がまだ記者をやっていた頃に、何度も聞かされてきた言葉だった。報道は鮮度こそが命。時間の経過と共に、その価値は刻一刻と落ちていく生もの。


 だがその一方では時間を気にするあまりに手間を惜しみ、確証のないまま報道をせぬようにと口を酸っぱくして言われてきた。


 彼が報道を辞めて週刊誌の編集へとなっていった後でも俺は世話になり続けていた。後を追うようにして報道を飛び出した際も拾ってもらい、まるで頭が上がらない。


「勘弁してくださいよ、キャップ」


 それは新聞記者時代の名残りだろうか。週刊誌の編集長へとなった今でもなお、俺は彼のことをキャップと呼び続けている。


「そう呼ぶのは、もうお前だけだよ」

 

 薄く笑む。すっかり線の細くなった体躯が、時の流れを如実に物語っている。だがそれでも、俺に報道のイロハを叩きこんできた男の姿に違いはないはずだった。


「この件を追うのはよせ。ここまでだ」


 だから、そんな男から発せられた言葉だとは思いたくなかった。間違いだったと、言い損じだったと訂正する言葉をしばらく待ってさえもいた。しばし待ちぼうける。


 無駄なものはなく、綺麗に片付いた机。打って変わって編集部員の机の上は資料、本の山。整理とは程遠いながらも機能的ではあったのだろう。電話機の姿は見えずとも何度も鳴った電話に淀みなく応えている。ガヤガヤと話す声を聞き流しつつ、待つ。


 編集長の机に立ち塞がっていた俺の横をすり抜け、編集部員である横井はキャップと打ち合わせをしていく。去り際に見せた口元の緩みが、フリーのジャーナリストになった俺を嘲笑うものに思えたのは単なる邪推のしすぎだろうかなと訝しむ。


 オホン。キャップは喉を鳴らした。


「別件が入った。友江、そっちなら回してやれる。仕事が欲しいならそれでどうだ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る