後日談⑤ 彼の恋に終止符を

「え、マジか」

そのLINEは奏多が大学生になってから約半年後、夏の暑さがやっと和らいできた頃の夕飯時に届いた。

「ナニ?どしたの?」

向かいに座る奏多が、やや薄暗い店内の明かりの中ワイングラスを傾ける。

餃子パーティーで初めて酒を飲んだ彼女だったが、どうやらいける口だったらしい。平日にも、修吾が早く仕事が終わる日には時折こうして一緒に酒を飲むことがあった。

それでも律儀に実家に帰る彼女に多少の不満は抱えていたが。


「お前、飲みすぎんなよ。…長谷川、彼女出来たって」

「ええ?!マジ?!って言うか何で修吾に先に連絡するわけ。私には何にも来てないのに」

スマホを確認した奏多がぶーぶーと文句を言う。

「いや、そりゃお前には言いにくいだろ…。前に好きだった女に、新しく好きな女が出来ましたって言うんだよ?」

「別に、今はただの友達なんだから言えばいいのに」

「お前、『男は名前を付けて保存』って知らないの?」

「はにほれひはない」フリットを口に含んだ彼女が口元を隠しながら言う。はふはふと熱そうにしながらも美味しいらしく目元を下げている。

「男は未練たらしく昔の女のことを覚えてるから『名前を付けて保存』、女は新しい恋人ができると前の男のことを忘れるから『上書き保存』って言うんだよ」

「へえ。…でも修吾は保存どころかゴミ箱に捨ててない?っていうか、編集途中のファイルを保存すらしてない感じじゃない?」

「…すごい高度なレトリックで責めてくるなよ。俺のことはいいんだよ」

修吾もカリッと揚がったフリットを一口齧ると、奏多と同じようにはふ、と熱い息をつく。


「俺、今度長谷川と飲もうかな」

「えー、いいなあ。私も混ぜてよ」

「違えよ、お前のこと話そうと思ってんの」

「…」

「お前、大学行ってからも何度か倉田と長谷川と遊んでんだろ。その時のお前の話し方見てると、…ちゃんと言った方がいいんだろうなって」

「…私も一緒に居させて」

彼がどのくらい本気で彼女を好いていたか、一番よく知る彼女は苦い顔になる。

「だめ、これは男のケジメだから。彼女出来たって言うなら別にあいつもそんなに無茶はしないだろ、多分」

「んー…ていうか、別に、そこまでしなくても、…アレだったら、もう…」

「友達は大事にするんだろ」

奏多の言葉の先を読んだ修吾が、言いにくいであろうその先の言葉を断った。

「長谷川は…俺の友達でもあるから。だから、ちゃんとする」

「…じゃあ、今度は私が一時間遅れてく」

いつかのバーターとでも言いたげに奏多が提案した。それに修吾は苦笑する。

「お前、あんときの俺の気持ちわかった?」

「…ん、分かった。良く」

彼女は前髪を抑えて視線を逸らせた。


・・・


「よう、久しぶり。…お前また背伸びた?どんだけデカくなるんだよ」

「キム兄久しぶりー!…いや、俺も正直、これ以上伸びると困るんだけど」

玄関を開けた修吾はかつて彼の顔があったはずの位置から視線をあげて彼を見上げた。

「なんかお前に見下ろされるのやだな。とりあえず上がれよ」

「…そう言われても。お邪魔しまーす」

「適当に座って」

テーブルの上には適当に買いそろえたつまみが置いてあった。流石に奏多の作った料理を食べさせるのは酷だろうと思ってのことだった。


「…お前もどうせもう酒飲んでんだろ?」

二十歳になったら、とかつて告げたその言は建前だった。健全な大学生であった修吾には、大学に入ったら酒からは逃れられないだろうなと予想がついている。

「まあ。っていうか俺、大学でもバスケやってんだけどさ。体育会ヤバいわ。マジで無法地帯」

「急性アル中はマジで気を付けろよ。ホント死ぬから。度数高い酒の一気始まったらちゃんと逃げろ。あと、ヤバそうな飲み会の前には牛乳かヨーグルト飲んで、スポドリ酒の間に飲んどきな」

「え、スポドリって酔いまわるんじゃないの」

「それ、都市伝説。逆に水分が体に回るから酔いもマシになるよ。お前何飲む?ビールか、缶チューハイか、焼酎かウイスキー」

「あー、じゃあビール貰っていっすか。なんかキム兄に言うのも変な感じ。つーか、キム兄慣れてんね」

「お前がこれから通る道は俺も通ってるからね。ろくな道じゃないけど。じゃあ乾杯」

缶ビールがぶつかり合うコンッという小気味よい音が部屋に響く。


「どう、大学は。楽しくしてる?」

陽斗はバスケ部時代の功績とそのキャラクターでAO入試で志望大学に一発合格していた。その時の安堵を思い出しながら修吾が尋ねる。

「楽しいよ。バスケ部は人も多いから、友達も増えた」

「彼女も出来たって?」

「そうなのー!!!聞いてくれる?!俺と同期でバスケ部のマネージャーになった子なんだけどさ。もうめっちゃ可愛くて」

見て見て、と一緒に映った写メを見せつけてくる。見れば確かに、二重の目がくりくりとしている、奏多とはタイプの違う可愛らしい感じの女子だった。

―拓海が見たら『ああ、それ系の女子、すぐ振ってくるよ』って言いそうだな。

修吾は内心呟くが、舞い上がっているらしきかつての教え子にはその残酷な事実は伝えないでおいた。


その後もぐいぐいとビールを飲みながら馴れ初めやら、どこが可愛いのか彼なりに必死で話してくれる。

そのあけすけな姿は学生時代と変わらず、これから自分が言わなければいけないことをためらわせた。

陽斗の缶が乾いた音を立てるので次は?と問えば、焼酎ロックで!とご機嫌に言う。

「お前、調子乗って飲みすぎんなよ?…でもまあ、幸せそうで良かった。あんなに、か…相良にご執心だったのに」

言いながら、陽斗に気づかれないようにロックに修吾は水を追加する。

これから大事な話があるのに酔ってしまわれては困る。

氷を溶かすようにそれをよく混ぜ合わせた。グラスの中で鳴るカラカラ、という氷の音。


修吾は自分用にもう一缶ビールを冷蔵庫から取り出すと、ハーフロックに薄めた焼酎を陽斗に差し出す。

「ざーす。…奏多、好きなやつがいたんだって」

陽斗は薄められたその酒の味にも気づかない。

「でも、なんか、そいつと付き合ってるって言ってたから良かったよ」

「…へえ、そんなこと言ったの?」

「前に佐那と遊んだ時に彼氏できたって言ってたから、聞いた」

「…そうか。お前はもう未練は無いの?」

「んー、まあ、無いかな。残念だったけど、でも今のカノジョも好きだし」

「そう」

修吾の口がどんどん重くなるのに陽斗は気づかないまま、とうとうその一言を放つ。


「キム兄は?そろそろ彼女出来たの?」

「…できたよ」

「えぇマジで?!」

陽斗が目に喜色を浮かべる。その彼の目を修吾は頬杖をついて見返す。…口の端は上げられなかった。

「お前が諦めたから」

「……え?」

陽斗が自分の顔色を窺う修吾の顔を検分するように見る。奏多の話を持ち出してきた、その理由に行き着く。


「…何、それ」

「何だと思う」

「キム兄…マジで冗談やめてよ」

「…」

「…いやいや、無理無理」

「でもお前は、未練無いんだろ」

「…」

嫌に歪められる彼の顔を見ていられなくて修吾は視線を逸らせた。


「あいつ、八時にはここに来るよ。だからそれまでに、言いたいことあったら言っときな」

修吾の言葉に、『良い子』に育てられた彼はその怒りの向け方を知らない。

「…キム兄、あいつに何かしたの」

「何もしてない。…高校生のうちは」

「…奏多みたいな話し方すんなよ。…うっぜぇ…!」

「あいつ、二年の夏の時に親と喧嘩して、家出して一時期この家に来てたんだよ。他に頼るとこ無いって」それは、事前に奏多とも打ち合わせた内容だった。

「はあ?!」

「神に誓って手は出してない」その時は、という言葉は飲み込んだ。

「…嘘つけ」

「嘘じゃない。あのね、アラサーにもなると、色々理性が育ってんだよ。お前にもいつか分かる」

「…」

「俺、お前に、頑張れって言っただろ」

「…」

「俺だって、あいつは、お前を選ぶべきだったと思うよ。こんなおっさんじゃなくて」

修吾は、かつての生徒がそこにいることを気にすることも出来ずに頭をかいた。


「…休みはそのためだったの」

「え?」

「…卒業式の次の日、休み取ったって、キム兄言ってた…」

呆然としたような顔で陽斗が言った。

「…そうだよ。来てくれるかもしれないって思ってた。そしたら、来てくれた」

から、と頭を抱えたまま告げた。

「そっかあー…」

そっかあ、と教え子が切なげに言う。


「良いよ、好きにして。煮るなり焼くなり、殴るなり」

修吾はその言葉を本気で言った。それで彼へのせめてもの慰めになればと思っていた。

「あ、でも、顔はやめて。後が面倒くさい」

「殴んないよ。…だって、奏多の彼氏なんだろ。…殴ったら奏多が怒る」

「お前やっぱり良い奴だな。奏多にも言ってたのになぁ…」

「…キム兄の口からあいつの名前聞くの、ビミョー」


そこに、ピンポンという音が響いた。時計はちょうど八時を指している。

陽斗の顔は曇ったままだ。

「開けるまで入って来るなって言ってあるから、言いたいことあればどーぞ?」

「…もういいよ」

陽斗が言い終えたその瞬間にピンポンピンポンピンポーンとインターフォンが連打された。

それに雰囲気を崩された二人とも笑ってしまう。

「…もういいよ、行きなよキム兄」

陽斗が言う合間にもピンポンピンポンピンポンと連打されるので修吾は苦笑した。

「うるせえやつ」

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