残り ■-4 日 「…秘密」

窓の外からわずかに聞こえる、カタンカタンという電車の音にゆられるように修吾は寝返りを打った。

目を閉じたまま顔をしかめると小さく頭痛え…と漏らして体を縮こめる。

しばらくそのまま眉間の皺を濃くしていたが、突然何かに気づいたように目を開けてガバっと起き上がり、部屋を見回すと慌てて寝室から出てリビングに続く扉を開けた。

リビングで背もたれを倒した座椅子に小さく丸まって寝ている奏多を見つけた修吾は、苦虫を嚙み潰したような顔になるとそっと彼女の顔をのぞきこむ。


赤黒いあざはまだ彼女の左頬を染めているが、その範囲は少し小さくなったように感じられた。そんなことはお構いなしに健やかな寝息を立てる奏多の細い肩に、修吾は少しためらったのちに触れた。


「…相良」

「…ん…おはよ先生。…ってかまだ六時じゃん…早起き過ぎない…」

修吾が時計を振り仰ぐと、時刻は確かに六時を少し回ったところを指していた。修吾はまた苦い顔になる。

昨日からの諸々の失態に引きずられるかのように修吾はその場に座り込んだ。

「…昨日、悪い。酔っててお前がいるの忘れてた」

「それはいいけどさあー…。めっちゃ具合悪そうだったし、ていうか倒れてるし息速いし、先生も死ぬんじゃないかと思ってちょービックリした。つーか今も酒臭いし。何なの、サイテーなんだけど」

「俺、何時に帰ってきた…?」

「二時過ぎくらいだよ。今は具合悪くないの」

「頭痛い。頭割れる」

「スポドリ買ってあるけど飲む?」

「…え?飲む」

奏多は立ち上がると冷蔵庫からペットボトルを取り出して修吾に投げて寄越した。その雑な態度を咎めようともせず、修吾はそれを受け取ると一気に半分まで飲み干す。

飲みながら、修吾は何か強烈なひっかかりが自分の中にあることに気がついた。


「…スポドリなんてあったっけ?」

「あーたーしーが!買って、来て、あげたの!」

「…マジ」修吾はペットボトルを傾ける手をおろして唖然と奏多を見つめる。

「マジ中のマジ。めっっっっちゃ大変だったんだから。酔っ払いの対処なんて知らないっつの!

酔っ払いでググって二日酔いでググってさあ、んで近くのコンビニ調べてさあ」

奏多はよほど怒っているらしく、一つ一つ修吾に指をさしながら座椅子に戻ってくる。

「で、次は顔隠すのにマスク探して帽子探して!…っていうか何でマスクがキッチンにあんのよ。で、色々買って、重い荷物持って、帰ってきたの。深夜の二時に。JKが!」

奏多は絵に描いたような憮然とした表情を浮かべて乱暴に座椅子に座ると、腕組みをして修吾を見た。

先ほどから口を開けて奏多の話を聞いていた修吾の顔が、ゆるゆるとほころんでくる。


「…笑うとこじゃないから」

「いや…悪い。悪かった。…お前、良い奴だな」

「はあ?!担任のくせに今知ったの。腹立つ」

「ありがとな」

「ホント、ちょー感謝して。先生が生徒に介抱されてどうすんの」

「いやホント、おっしゃる通り」


修吾はその奏多の様子にその場にごろんと横になると、んー、と大きく伸びをする。

キッチンに目を向ければ確かにコンビニのビニール袋が置かれていた。しじみの味噌汁のパッケージが透けて見え、修吾の口の端が上がる。

「…ホントごめんな、深夜に。怖いこととか危ないこととか無かったか。お巡りに補導されなくてよかった」

「別にないよ。そんなに子供じゃないし。ていうか、帰ってきた時間わかんないとか…もしかして、記憶、無いの」

「…記憶?」


修吾は自らの足跡を辿るようにしばらく大の字になったまま天井を見つめていた。

その目がだんだんと見開かれると、視線が寝転んだ自分を見下ろしている奏多に行きつく。

奏多は困ったような顔で口をとがらせて修吾を見下ろしていた。

「…記憶、は…」

ある方がいいのか、ない方がいいのか判断ができかねた修吾は顔をゆがめて言葉を探す。そんな様子を見た奏多は「わ、かったから…もういい」と修吾から顔を背ける。

「…あの、…違うんだよ、酔ってただけで。…ごめん」

「…いや別に…。謝ってもらうほど、別に、…なんもされてないし…」

二人の間に気まずい沈黙が降りる。その間を埋めるように奏多が座椅子の背もたれを起こした。


「…お前、体痛くなったりしてないか?寝づらかったろそこじゃ」

修吾は雰囲気を変えようとわざと明るい声を出す。

「大丈夫、もう慣れた」

「え、お前もしかしてずっとそこで寝てんの」

「うん」

「なんで」

「なんでって…なんでっていうか…」

「俺いないんだからベッド使えよ。体悪くするぞ」

「…」

「枕変わると寝れないとかそういうタイプ?」

ごろんと肘をついて横になった修吾は顔を背けたまま何も答えない奏多に「おい」と声をかける。

「だって…その…。…たばこくさいからやだ」

そっぽを向いたまま前髪を抑えてぎこちなく言う奏多に修吾は複雑な顔になる。

「あー…じゃあ後でコインランドリー行って一式洗ってくるから。それならいいか?」

「…いいよそこまでしなくて。今日も仕事じゃないの」

「お前ね…女の子を床で寝かせられないだろ。昨日のお詫びもあるし。今日は土曜だから休み、明日は部活があるけど。シャワー浴びたら行ってくるから」

立ち上がった修吾に、奏多は明後日の方向を向いたまま、いてら、と言った。


・・・


修吾がコインランドリーから帰ってくると奏多はリビングの座椅子の上に小さく座って文庫本を読んでいた。テスト中にも見せたことが無いような真剣な顔に、一心に物語に没入しているのがわかる。

リビングに足を踏み入れた修吾が声をかけるかどうか迷ったところで、奏多が彼の気配に気づき顔を上げる。

「おかえり」

「ただいま。何読んでんの」

「これ。ごめん、本棚から勝手に借りちゃった。よかった?」

「全然いいよ。本はたくさん読め。その本、俺好き」


修吾は言いながら寝室に行くと洗濯し終えたベッドカバーをかけ、袋状になった枕カバーに枕をしまう。「今どのへん?」寝室から声をかけると「まだ、A子さんが出てきたくらい。…私読むの遅いから」リビングから奏多が答える。

夏掛けの薄いタオルケットはそのままベッドにほおっておいた。

「別に、早く読めるのがすごいわけじゃないだろ。特に小説は、早く読むよりも一つ一つ丁寧に読んだ方が面白いよ」

リビングに戻ってきた修吾の言葉に奏多はそう?と首を傾げる。

「俺はそう思うけど。…読み終わったら感想聞かせて」


その本は今から二十年以上も前に発売されたミステリー小説だった。

一般家庭の父親が殺害された、その真相を舞台劇のような限定された場面設定で解き明かしていく中で、登場人物たちの『家族』への思いが語られ、錯綜していく。

そして最後には、読者が全員目を剝くであろう大曇天返しが用意されていた。

ミステリーとしてとても鮮やかでよくできた小説だが、修吾はどちらかというとその構造よりも、繊細に織りなされる心理描写の方を好んでいた。


「じゃあ俺そろそろ出るわ」

修吾はパソコンをカバンに詰めながら奏多に言う。

「遊び行くのにパソコン持ってくの?」

「…遊びじゃねえよ。授業のプリントとか作ろうかと思ってる」

「ええ?休みの日にも仕事すんの?学校行って?教師えっぐ」

「教師はお前らが思うより忙しいんだよ。別に学校までは行かない。いつものネカフェでも行く」

「?いつも休みの日どこで仕事してんの?」

「…ここだけど?」

「?じゃあ、ここでやれば?邪魔しないし」

「え?………そう、か…?」

修吾は思い切り首を傾げた。まあ、昼間だったら女子高生と二人でもいいのか?昨日の今日でどうこうしようというつもりもないし。ん?いいのか?

「座椅子、使う?私あっちのクッション借りるから」

奏多が座椅子を差し出し、部屋の隅に追いやられていた丸いクッションを持ってきて自分はそちらに座る。

「…じゃあ、そうするか…?」

どこか腑に落ちない表情のままだったが、修吾は勧められたまま座椅子に腰かけてパソコンをローテーブルに置いた。


・・・


線路が近いこのマンションは防音性に優れているので、外で合唱しているはずの蝉の声も、高架を行き交う電車の音もほとんど入ってこない。

会話が途切れた部屋には、柔らかなタイピングの音とページをめくる音だけが鳴る。

しばらくして太陽が空高く上り窓から差し込む日差しが短くなったころ、二つの音しか存在しなかった部屋に、かすかなぱたっという音が生まれた。

それに気づいた修吾が音のした方を見れば、そこでは奏多が大粒の涙を流していた。


まるで自分が涙を流していることにも気づいてないかのような静かな表情のまま、瞬きするたびに目じりから溢れる涙が頬を伝う。

窓から差し込む陽光がその涙の一つ一つをキラキラと輝かせ、細い顎先から滴ったそれが彼女が来ているグレーのTシャツに水玉を作っていく。


―――なんて、綺麗に泣く。修吾はその光景からしばらく目が離せない。


彼女はその後もそこに書かれた言葉の一つ一つを丁寧にたどりながら静かにページを繰っていく。

やがて彼女がすんと鼻を鳴らしたのに気づき、修吾はそっと座椅子から立ち上がるとティッシュペーパーを彼女の足元に置いた。

涙目の彼女が修吾を見上げ何か言おうとするのを、いいからと先を読むよう促し微笑む。奏多は大人しく本に目を戻した。


「…適当なとこで飯にしよう。そうめん茹でるから」

修吾は彼女の世界を壊さないよう柔らかく告げると、換気扇の下でタバコに火をつけた。

タバコを吸う合間に、出来るだけ音を立てないよう丁寧に鍋を取り出して、ゆっくりと昼食に向けた準備を進める。

ところどころで奏多に目を向けると、よく見れば本の三分の一程度を読み終えたところだった。あの本は序盤にそんなに泣けるポイントがあったかと思いながら、修吾はその絵画のような美しい光景を盗み見ずにはいられなかった。



「…しんどみが深い~~~!」

奏多がそう言いながら顔を上げたのは、そうめん用の大量のお湯がちょうど沸こうかという時だった。

「…なんだよそれ。まだ半分行ってないだろ。今からそんな調子だと最後ヤバいぞ」

静謐な世界から帰ってきた彼女は途端に賑やかになる。その様子に修吾もずっと飲み込んでいた言葉を告げた。

「マぁジ?!じゃあ続きは先生いないときに読も」

「え、なんでだよ」

「恥ずかしーじゃん」

「別に普通だろ。良い話読んで感動できるのはいいことじゃんか」

「先生も泣いた?」

「えぇ?…秘密」

「ずっる!」

修吾は笑いながらそうめんを取り出し鍋に入れ、タイマーをセットする。

「ごめん、準備してもらって」

奏多がキッチンに入ってくると修吾に申し訳なさそうな顔を向けた。

「別に謝る必要ないだろ。いつも美味い飯食わしてもらってるし。こっちはたかがそうめんだから」

「ネギ切る?」

「さすが、気が利く」

修吾が笑いながらネギを奏多に手渡した。トントンと奏多がネギを切る音とともにみずみずしいツンとした香りが漂ってくる。

先ほどまでの静かで穏やかな世界を隠れて見守っていた音や会話や香りや熱が、リビングのそこかしこから顔を出し部屋を飾り立てていく。

その鮮やかな変化に、修吾は目を細めて小さな黒髪の少女を見つめた。


△▽△あとがき▽△▽

お読みいただきありがとうございます。引き続きお付き合いいただけると大変うれしいです。

次のお話では修吾が奏多に大事な質問をします。

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