残り ■-3 日「だめかも」

その日の深夜、寝静まった街に止まったタクシーから降り立ったのは、研修の打ち上げを終えて足元がおぼつかない修吾だった。


街には人っ子一人おらず、都心であるにもかかわらず車もほとんど走っていない。

修吾は数歩歩いてタバコに火をつけると、空を仰いだ。そのまま後ろに倒れそうになったところをかろうじて踏みとどまる。

ぐらぐらとする頭に揺られるまま、歩道の両端を右に左に縫うようにふらふらと通いなれた自宅へと向かう。


「やべえ…ちょうしのりすぎた…」

今回の研修は年齢が近い教員たちが集められていたのだが、修吾はその中でも最年少だった。

最年少でしかも名門校に努めている修吾は周りの興味を引いたらしく、誘われるがままに二次会、三次会とついていった結果、街は寝静まる時間になり、酒に強いはずの修吾も千鳥足になるほど杯を重ねてしまっていた。


「…さいごのきゃばくらがよくなかった…」

修吾は自分の足のあまりの重さに街路樹に腕をついて独り言ちる。

年上たちがおごってくれるというので、修吾はキャバ嬢たちが求めるままに酒を飲んでしまっていた。何飲んだっけ、最後は…テキーラか何か飲んだような味が口の中に残っている。


まるで泥の中を這うような足取りでマンションのエントランスのドアをもたれるようにして開け、エレベーターの中で崩れそうになる体を壁に預けて必死で耐えた。

やっとの思いで鍵を開け玄関に足を踏み入れると、修吾は手に持っていた荷物を落とし、ゆっくりと膝をついて倒れこみ浅い息を繰り返した。

床の冷たい感触。人感センサーによって点いたオレンジ色の明かりが瞼を焼くようにまぶしい。


しばらくして、修吾の吐息だけが満ちていた廊下にかすれるような声が聞こえた。

「…せ、ん、‥せい…?」

修吾が苦し気に顔を歪めてそちらを仰げば、リビングにつながる扉を細く開けてこちらを窺っている小さな人影が見えた。それを確認して修吾はあー…とため息を漏らして顔を覆う。

小さな人影―奏多は、その声に修吾にゆっくりと近づいてきた。

「悪い…お前がいるの忘れてた…今、でてくから…」

修吾は何とか体を起こそうとするが、一度弛緩してしまった体は中々いうことを聞いてくれない。


「い、いいよ別に…ね、ねえナニ、…大丈夫…!?」

「ふ、はは…お前、酔っ払い見たことねえの」

「酔ってる、だけなの?ねえ本当にだいじょぶ?……お水、いる?持ってくる」


修吾が起き上がることを諦めて床に臥したまま数回浅い息を繰り返している間に、奏多が氷の入った水を持ってきてくれる。

「…ねえ、起きれる…?これ…水…飲める?」


思いのほか近くで聞こえた声に修吾がそちらを見上げれば、奏多が傍らに膝をつき色を失っている。

形のいい眉をこれでもかというほど下げて、目は修吾の全身を確かめるようにあちこちに視線を投げている。


いつも小憎たらしく自分を翻弄する彼女が動揺している姿に修吾は胸がすくようになり、彼女を見上げたまま修吾は赤ら顔で口をゆがめた。

「飲めないっつったらどーすんの。お前」

奏多はええどうしよ、と助けを求めるように周りを見渡して更に動揺する。その姿を見た修吾は口の端を上げて「冗談だよ」とかろうじて上体を起こし水を飲み干した。


「まだいる…?」

「もういい。起こしたよな…悪い。お前、寝ときな。俺ここにいるから」

「ええ!?…ねえ先生、あと十歩だけ歩けない?寝室すぐそこじゃん」

「…もう良いよここでぇ…」

「もうちょっとだけ頑張るの!ほら、立ってお願いだから」

奏多がその細い体でぎゅうぎゅうと修吾の腕を引っ張る。

その勢いに負けて修吾が立ち上がろうとした、その腕を奏多が引くので修吾はバランスを崩してしまう。


「…っぶね…」

「…っ」


頬にかかった吐息に気付けば、修吾の顔は奏多の至近距離にいた。修吾は彼女の体を閉じ込めた腕を、まるで己のものではないかのように見つめる。

「…あー…悪い」

言葉とは裏腹に、修吾はすぐそこにある彼女の髪の香りに誘われたようにそれを鼻先でくすぐる。

修吾の腕の檻の中にいる少女がびくっと体を震わせた。それに気をよくした修吾はその頭に唇で触れる。

自分もよく知っているシャンプーの香りが、その少女から匂い立っていることに優越感を感じた。


―意外と背小さいんだな。と今更ながら修吾は思って身をかがめながら彼女の頭蓋の輪郭を唇でたどる。


「ベッドに…行って、寝た方が、いいよ…。…。」

修吾の唇が奏多の耳元に近づこうとしたとき、奏多が彼の両肩をかすかに押しやりながら言った。

その腕は震えていた。細かに繰り返される彼女の吐息が修吾の耳をくすぐっていたが、修吾はその一言に目が覚めたようになる。


「…ん」

修吾は壁についた手をゆっくりと、かろうじて引き剥がした。

寝室に向かおうとするがアルコールが染み渡った体は言うことを聞かず、膝が砕けそうになるのを奏多が支えた。


―馬鹿だなこいつ。なんでこんなに馬鹿なんだ。勉強はできるくせに。


奏多に支えられたまま数回呼吸を繰り返した修吾は、悪い、大丈夫だからと奏多を押しやって壁に身を預けながらかろうじて寝室に足を踏み入れる。倒れこむようにベッドに仰向けになる。

「…ねえ、ホントに大丈夫…?救急車呼んだ方がいい?…それか、必要なものとか…」


寝室のドアの外から奏多が心細げな声をかけた。

先程のシャンプーの香りがまだ修吾の鼻先に絡みついている。


「だめかも」

「え」

「ちょっとこっち来て」

「…え」

「いいから」

修吾がおいでおいでをすると、おずおずと奏多が近づいてくる。


ベッドのすぐ隣まで歩み寄ってきた奏多に修吾の手が素早く伸びる。奏多は驚き身を引こうとしたが、それよりも早く修吾の手が奏多の腕を捉えた。


修吾は彼女の顔を見上げるが、影に閉ざされた彼女の表情をうかがい知ることはできない。掴んだ腕からは強く速い鼓動が伝わってくる。

カーテンから漏れる薄明かりに二人の影が黒々と浮かび上がる。


ややあって、修吾がパタリとその腕を下ろした。

「…嘘だよ。悪い、今日このまま…寝て、良いか…。…お前さ、酔ってる男に近づくなよ。あぶねえんだから…」

「…ん。おやすみ、先生」

返される言葉はなく、修吾の寝息だけがそれに答えた。

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